異世界で鳩の餌付けをしていたはずなのに気づいたら美少女魔王様を餌付けしていた

剃り残し@コミカライズ開始

第1話

 王都の空は、憎らしいほどに青く晴れ渡っていた。石畳を叩く馬蹄の音。市場の活気ある売り声。そして、それらを切り裂くように響く、少年たちの切迫した叫び声。


「号外ーっ! 号外だーっ! 北の難攻不落、『鉄壁の要塞都市』がついに陥落ーっ!」


「魔王軍の進撃止まらず!聖騎士団、壊滅的被害!王都防衛ラインの再構築が急務との発表ーっ!」


 飛び交う羊皮紙の束。不安げに顔を見合わせる市民たち。「魔王」という単語が出るたびに、広場の空気は重く、冷たく澱んでいく。


 世界の終わりが近づいている。


 誰もがそう口にし、勇者様の動向に一喜一憂する。それが、この剣と魔法の異世界の日常だ。


 だが、俺にとっては、世界の危機よりも深刻な問題があった。それは、昨今の穀物価格の高騰により、趣味のパン作りにおけるコストパフォーマンスが悪化していることだ。


(……小麦がまた上がったな。北の産地が潰されたせいか)


 俺には、世界を救う力なんてない。前世の記憶を持ってこの世界に生まれ変わったが、神様がくれたのは『聖剣』でも『無詠唱魔法』でもなく、前世で食べた味をなんとなく再現できる【再現料理】という、あまりにも生活感溢れるスキルだけだった。


 魔力もない。剣の才能もない。街のゴロツキに絡まれれば財布を差し出す準備ができている、正真正銘の『モブ』。それが俺だ。


 だから、英雄ごっこは勇者様にお任せする。俺が守るべきは世界平和ではなく、自分自身の安らかな休日と、精神の平穏だけ。


 ただ、趣味のパンを焼き、公園で鳩に餌やりをしながらゆっくり過ごす。それが俺の異世界ライフだ。


 俺は喧騒の只中にある広場を背に、人混みを避けるように路地裏へと足を向けた。


 大通りの喧騒が遠ざかり、貴族街とスラム街のちょうど境界線に差し掛かると、古びたレンガ造りの塀に囲まれた、小さな公園が見えてくる。


 遊具は錆びつき、手入れも最低限しかされていない場所だが、俺にとってはここが王都で一番の聖域だった。なぜなら、ここには「日常」しかないからだ。


 公園の最奥。大きな樫の木の木陰にある、塗装の剥げたベンチが俺の定位置。そこに、先客がいた。


 目深にフードを被り、季節外れの厚手のローブに身を包んだ女性だ。顔の半分を大きな丸眼鏡で隠しているが、その肌が人間離れしていて白いことは見て取れる。それはまるで魔族のような雰囲気だが、王都に魔族がいるはずがない。ただ出不精なだけなんだろう。


 彼女はベンチの背もたれに深く体重を預け、まるで魂が抜けたようにぐったりとしていた。


 俺は音を立てないよう静かに近づき、ベンチの反対側の端に腰を下ろした。彼女はこちらを見ない。ただ、俺が来たことに気づいたのか、フードの中で小さく、重たい溜息をついただけだ。


 俺は懐から紙袋を取り出すと、中に入っていたパンの耳を小さくちぎり始めた。足元に、クルックーと喉を鳴らす鳩たちが集まってくる。俺の手から放たれたパンくずを、平和の象徴たちが忙しなくついばんでいく。


 ふと、隣から視線を感じた。横目で見ると、女性がじっと、俺の手元を見つめていた。その瞳は、深い疲労の色に染まっているが、どこか羨ましそうな光も宿しているように見えた。


「……やりますか?」


 俺は無意識に、ちぎったパンくずを彼女の方へ差し出していた。彼女は驚いたように肩を震わせ、少し躊躇ってから、おずおずとその白く華奢な手を伸ばしてきた。


「……すまぬな」


 低く、掠れた声だった。彼女は受け取ったパンくずを、ぎこちない手つきで足元に撒いた。鳩たちが彼女の足元へ移動する。彼女はそれを、丸眼鏡の奥で瞬きもせずに見つめていた。


「……群がるな。白いのが」


「鳩ですからね。白いのもいますよ」


「そうだな。何度『掃除』させても、こうして鳩のようにすぐに湧いてくる」


 その声には、底知れぬ疲労と、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。


 どうやら、何かの仕事で疲れ果てている人のようだ。それが何なのかは分からないけれど、魔王軍が大暴れしているご時世なのだから、やることは山ほどある。


「ところで青年よ。尋ねたい」


「何ですか?」


「鳩に餌やりをするのは違法ではないのか?」


「違法というかマナーの問題ですね。けど、この子達もお腹が空いてますし、俺は作ったパンの余りを処分したい。それに、街中の鳩を捕まえて食べるような世界がすぐそこまで迫ってる。その時に丸々と太っていた方がいいでしょう?」


「ふんふん。なるほどな。屁理屈は得意と見える」


「あはは。なら通報してもいいですよ。こんな公園に来るほど憲兵は暇じゃないですから」


「まぁ……そうだろうな」


 彼女は空を見上げてそう言った。


 俺はパンくずが無くなった手を払い、今度は紙袋の奥から、自分用のとっておきを取り出した。


「ほら、これでも食べて落ち着いてください」


 焼き上がったばかりの丸いパン。表面に黒ゴマを散らした、俺の自信作――『あんぱん』だ。甘い匂いに、彼女の鼻がピクリと動く。


「……なんだ、それは」


「『あんぱん』です。甘く豆を煮て、パンの中に詰めたんですよ」


「甘い豆……? 豆は塩で煮るものであろう?」


「まあ、騙されたと思って。疲れてる時は糖分ですよ。ブラックな職場環境で戦うには、脳に栄養を送らないと」


「……ブラック、か」


 彼女は「黒」という言葉に口元を歪め「ふん、施しか。面白い」と呟いて受け取った。そして一口かじり動きを止めた。


 咀嚼が止まり、時が止まる。長い沈黙の後、彼女はぽつりと漏らした。


「……甘いな」


 その声からは、先ほどまでの刺々しさが消え失せていた。彼女はパンを両手で大事そうに持ち直し、愛おしそうに二口目を頬張る。


 その横顔は、世界中の不幸を背負ったような役人ではなく、ただの年相応の女性に見えた。


「お前の言うことは、いつも甘い。……だが、悪くない」


「甘いものは正義ですよ。これで午後も仕事を頑張れるでしょう?」


「……仕事、か」


 彼女は遠くの空を見上げた。その視線の先には、王城の尖塔がある。


「……そうだな。まだ『平定』せねばならぬ領域が残っておる。……金ピカの若造も黙らせねばならぬしな」


「金ピカ? ああ、最近よくいる派手な格好の冒険者崩れですか? あの手の連中は声がでかいですからねぇ」


「クク……あやつを『冒険者崩れ』と呼ぶのか。お主、やはり面白いな」


 彼女は今日初めて声を上げて笑うと、立ち上がってローブの裾を払った。その瞬間、彼女の周囲の空気が再びピリリと引き締まる。休憩時間は終わりのようだ。


「礼を言うぞ、名も知らぬ男よ。……この『あんぱん』とやら、気に入った」


 彼女が背を向けたので、俺は慌てて声をかけた。


「俺はカズヤです。また明日も焼いてきますよ。次はクリームパンです」


 彼女は足を止め、振り返った。フードの下で、紫色の瞳が怪しく、けれど優しげに光った。


「カズヤ、か。……余はベルだ」


「ベルさん、ですね」


「うむ。……楽しみにしているぞ、カズヤ」


 ベルは最後に一度だけ手を振り、そしてあっという間に速足で消えていった。まるで影の中に溶け込むような、見事な身のこなしだった。


 きっと、激務をこなす王城の役人か何かだ。きっと忍者並みの身体能力が求められる部署なのだろう。


 俺は一人残されたベンチで、鳩たちを眺めながら呟いた。ベルさん、か。いい名前だ。


 次はいつ会えるんだろう。そんなことを考えながら、


 ◇


「魔王様!!ご帰還、お待ちしておりましたぞ!!」


 空間転移の裂け目をくぐり抜けた先。


 そこは公園の穏やかな空気とは対極にある、禍々しい魔力に満ちた『魔王城』の玉座の間だった。


 跪く数千の魔族たち。その最前列で、四天王の一角であるオーク将軍が、興奮に鼻息を荒げて駆け寄ってくる。


「北の要塞都市を一撃で消滅させるとは、さすがは我らが主! これには聖騎士どもも腰を抜かしておりましたわ!」


「報告します!残存兵力は散り散りに敗走中!もはや人間の軍になす術はありません!」


「この勢いで王都へ攻め込みましょう!魔王様の御手で、人間どもに真の絶望を!」


「王都陥落もまもなくですな!ガハハハハ!」


 鬨の声が上がる。魔物たちの歓声が、玉座の間をビリビリと震わせる。世界を恐怖させる殺戮と征服の宴。その中心に、魔王ヴェルザリアこと、ベルは立っていた。


 だが、彼女の瞳は、目の前の熱狂など映していなかった。ベルは、自身の白く華奢な指先を、ぼんやりと見つめている。


「…………」


 鋭く尖った爪の先に、小さな茶色の欠片が一つ、ついていた。先ほど食べた『あんぱん』のパン屑だ。彼女は、部下たちが「王都を火の海に!」と叫んでいるのをBGMに、そのパン屑をそっと舌先で掬い取った。


(……甘い)


 口の中に残る、微かな豆の余韻。そして、あの公園で吹いていた、血の匂いのしない風の記憶。


「……魔王様? いかがなされました?」


 沈黙を不審に思ったのか、オーク将軍が顔を覗き込んでくる。ベルは、パン屑のなくなった指先を名残惜しそうに見つめたまま、少女のような声で呟いた。


「……次は、クリームパンか。楽しみだなぁ」


「は? くりーむ……? 何の作戦でございましょうか?」


「なっ、なんでもない! 続けよ」


 ベルは気だるげに手を振ると、深く玉座に身を沈めた。


 その冷徹な表情の裏でクリームパンを楽しみにしていることを、魔王軍の誰も知る由はなかった。


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