第3話:水面下の覚醒と支配者の焦り

一条蓮さんと会う約束をしたのは、メッセージを交わした三日後の午後だった。彼が指定してきたのは、都心にあるホテルの静かなラウンジ。智也さんには「友人と久しぶりにランチに行く」とだけ告げた。嘘をつく罪悪感よりも、新しい世界へ踏み出す高揚感の方が、ずっと勝っていた。


クローゼットの奥から、独身時代に買った少し上質なワンピースを引っ張り出す。ここ数年、袖を通す機会など全くなかった服だ。鏡に映った自分は、どこか自信なさげで、見慣れないよそ行きの服に着られているようだった。


約束の時間きっかりにラウンジに着くと、窓際の席で一人の男性が静かにこちらを見ていた。雑誌で見た通りの、鋭い切れ長の目。無駄のない所作で立ち上がり、軽く会釈をするその人こそ、一条蓮さんだった。


「水野彩葉さんですね。はじめまして、一条蓮です。今日はお時間を作っていただき、ありがとうございます」

「……はじめまして。水野です。こちらこそ、とんでもないです」


緊張で声が上ずる。目の前にいるのは、ファッション界の寵児。私が住む世界とは全く違う場所にいる人だ。しかし、彼の口調は穏やかで、その真っ直ぐな瞳は私の内側を見透かすように、じっとこちらを見つめていた。


席に着くと、彼は単刀直入に本題に入った。


「早速で恐縮ですが、先日SNSに投稿されていた、あの作品についてお聞かせください。あの赤は、どう見ても後から付いた偶発的な染みだ。しかし、あなたはそれを絶望ではなく、インスピレーションの源泉に変えた。あの『散り椿』の発想は、どこから生まれたのですか?」


彼の質問は、私の技術的な側面だけでなく、精神性にまで踏み込んでくるものだった。私は、ぽつりぽつりと話し始めた。夫にワインをこぼされたこと。「たかが布きれ」と言われたこと。絶望の中で、父の言葉を思い出したこと。そして、染みを隠すのではなく、新しい美として再生させようと決意したこと。


彼は一度も言葉を遮ることなく、真剣な表情で私の話に耳を傾けていた。話し終える頃には、私の緊張はすっかり解け、まるで長年の友人に悩みを打ち明けているような不思議な安堵感に包まれていた。


「……なるほど。やはり、私の目に狂いはなかった」


蓮さんは深く頷くと、持参したタブレット端末を取り出した。画面には、彼のデザイン画が何枚も表示されている。


「私は今、次の秋冬コレクションの準備をしています。テーマは『再生』。古きものが滅び、そこから新しい命が生まれる瞬間の、儚くも力強い美しさを表現したい。あなたのあの作品は、まさに私のテーマそのものです」

「私の、作品が……」

「ええ。水野さん、単刀直入に言います。私と、コラボレーションしていただけませんか。あなたの友禅を、私のデザインと融合させたい。あなたのその才能を、世界に見せつけたいんです」


コラボレーション。世界。あまりにも現実離れした言葉に、私は思考が停止する。主婦の道楽と笑われた、あの「地味な内職」が?


「で、でも、私にはそんな……。ただの主婦ですし、大きな仕事の経験もありません」

「経歴など関係ない。私が求めているのは、あなたのその手と、その感性だけです。もちろん、正式なビジネスパートナーとして、相応の対価はお支払いします。これはお願いではありません。あなたというアーティストに対する、私からの正式なオファーです」


彼の言葉には、一点の曇りもなかった。彼は私を「ただの主婦」ではなく、「アーティスト・水野彩葉」として見ている。その事実が、乾ききっていた私の心に、温かい水を注ぐように染み渡っていった。何年も忘れていた、自分の価値を認められる喜び。涙が滲みそうになるのを、必死で堪えた。


「……やらせて、ください。私でよければ、ぜひ」


私がそう答えると、蓮さんは初めて柔らかな笑みを浮かべた。


「よかった。最高のパートナーが見つかりました。早速ですが、都内にアトリエを用意します。ご自宅では集中できないでしょうから」


彼の用意周到さに驚きながらも、私はその提案を受け入れた。こうして、夫である智也さんにも、義母の紀子さんにも内緒の、私の「第二の人生」が、水面下で静かに始まったのだ。


智也さんには、「近所のカフェで、週に数回パートを始めたの」と嘘をついた。彼が私の友禅を「金にもならない内職」と蔑んでいたことを逆手に取ったのだ。


「パート? ふん、どうせ時給千円そこそこだろ。俺の稼ぎに比べりゃ雀の涙だな。まあ、家に引きこもって暗い顔をされるよりはマシか。好きにすればいい」


案の定、彼は鼻で笑い、私の行動にそれ以上の興味を示さなかった。「たかがパート」という彼の侮りが、私にとっては好都合な隠れ蓑になった。


蓮さんが用意してくれたアトリエは、日当たりの良い、広々とした空間だった。最高級の絹地、豊富な種類の染料、使いやすい道具の数々。実家の工房以上の環境に、私は武者震いした。水を得た魚とは、まさにこのことだった。蓮さんとの打ち合わせは、刺激的で、創造性に満ちていた。彼は私のアイデアを尊重し、さらに発展させるための的確なアドバイスをくれた。


「この柄は、もっと大胆に配置した方が面白い。布全体を一つのキャンバスとして捉えてください」

「ここのぼかしは、あなたの真骨頂だ。もっと自信を持って、感情を乗せていい」


蓮さんとの創作活動は、私が失いかけていたすべてを取り戻させてくれた。自分の才能への自信、作品を生み出す喜び、そして、一人の人間としての尊厳。アトリエに通う日々は、私の表情を生き生きと輝かせ、服装や髪型にも自然と気を配るようになっていった。くすんだ色のブラウスは、明るい色彩のカットソーに変わった。無造作に束ねていただけの髪は、美容院で手入れをし、軽く巻くようになった。


そんな私の変化を、智也さんは怪訝な目で見始めた。


「おい、なんだその格好。パートに行くのに、やけにお洒落してないか?」

「え? そうかしら。少し気分転換に」

「最近、帰りも遅いじゃないか。ただのカフェのパートが、そんなに忙しいのか?」


彼の声には、苛立ちと疑念が混じっていた。今まで自分の支配下に置いていたはずの私が、自分の知らない世界で楽しんでいる。それが、彼の亭主関白なプライドを刺激したのだろう。


ある夜、私がアトリエでの作業を終えて帰宅すると、リビングのソファで智也さんが腕を組んで待ち構えていた。


「お前、本当にパートなんかしてるのか?」

「ええ、そうよ」

「嘘つくんじゃない! さっき、お前が働いてるって言ってた駅前のカフェに電話したぞ!『水野彩葉という者はおりません』って言われたが、どういうことだ!」


ついに、嘘がばれた。一瞬、心臓が凍りつく。しかし、今の私はもう、以前のように怯えて謝るだけの彩葉ではなかった。蓮さんとの日々が、私に強さを与えてくれていた。


「……そう。ごめんなさい、嘘をついてたわ」

「やっぱりな! どこで何をしてるんだ! 男か? 男と会ってるんだろう!」

「パート先は、駅前じゃなくて隣町のカフェなの。あなたに余計な心配をかけたくなくて、つい……」


咄嗟に、新しい嘘をついた。これ以上、彼に詮索されるわけにはいかない。私の動揺を見透かしたのか、智也さんはさらに声を荒らげた。


「ふざけるな! 俺に嘘をついてコソコソと! 俺を誰だと思ってるんだ! お前は俺の妻だろうが!」


その時だった。私のバッグの中で、スマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、『一条蓮』の名前。まずい、このタイミングで。慌てて電源を切ろうとした私の手から、智યાさんがスマートフォンをひったくった。


「一条……蓮? 男の名前じゃないか! やっぱりお前、浮気してやがったな!」

「違う! その人は仕事の……!」

「仕事だと? たかがパートのくせに、偉そうな口をきくな!」


彼は怒りに任せて、私のスマートフォンを床に叩きつけた。鈍い音がして、画面が蜘蛛の巣のようにひび割れる。しかし、私はもう悲鳴を上げなかった。ただ、冷たい目での智也さんを見つめるだけだった。


「智也さん、あなたには関係ないわ」

「……なんだと?」

「私の人生は、私のものよ。あなたの所有物じゃない」


はっきりと告げると、彼は一瞬、言葉を失ったようだった。今まで絶対服従だった妻からの、初めての明確な反抗。彼の顔が、驚きから屈辱、そして怒りへと歪んでいく。


その週末、案の定、義母の紀子さんがアポなしで家に乗り込んできた。


「彩葉さん! あなた、智也に何を言ったの! 夫に逆らうなんて、嫁としてあるまじき行為よ!」


仁王立ちで私を責め立てる義母に、私は静かにお茶を差し出した。


「お義母様、お言葉ですが、夫婦のことですので」

「まあ、なんて口のきき方! あなたを甘やかしすぎたようだわね! いいこと、あなたは水野家の嫁なの。智也の言うことは絶対なのよ!」


私は、もう何も答えなかった。彼らの怒号は、もはや私の心には届かない。私には、蓮さんと共に創り上げる、輝かしい世界が待っている。この狭く、息の詰まる世界から飛び立つための翼は、もうすぐ完成するのだから。


その日から、私は離婚に向けた準備を冷静に、そして着実に進め始めた。スマートフォンのボイスメモ機能を使い、智也さんや義母の暴言を録音する。弁護士を探し、無料相談の予約を入れた。すべては、水面下での静かな革命だった。智也さんは、妻の反抗的な態度に苛立ちながらも、それが何を意味するのか、まだ気づいてはいなかった。ただ、自分のコントロールが効かなくなっていく所有物に対して、得体のしれない焦燥感を募らせているだけだった。


私はアトリエで、最後の大作に取り掛かっていた。蓮さんのコレクションのフィナーレを飾る、純白のシルクドレス。その背中に、私は夜明けの空を舞う、一羽の鳳凰を描き始めていた。それは、灰色の世界から飛び立ち、自らの力で輝きを取り戻す、私自身の姿だった。

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