第2話:絶望の縁で見つけた一筋の光
夜が明けても、私は和室から一歩も動けずにいた。無惨に汚された訪問着を前に、ただ座り込んでいる。窓から差し込む朝の光が、絹地に広がった赤ワインの染みを残酷なまでにくっきりと浮かび上がらせていた。それはまるで、処刑台に晒された罪人のように見えた。私の半年間が、私の魂が、そこで息絶えている。
寝室のドアが開き、あくびをしながら智也さんが出てきた。昨夜の醜態などまるで覚えていないかのように、すっきりとした顔をしている。私の姿をちらりと見ると、彼は忌々しそうに舌打ちをした。
「まだそんな所にいたのか。いつまでウジウジしてるんだ。朝飯は?」
「……食欲、ないから」
「俺はあるんだよ。さっさと作れ」
命令口調で言い捨て、彼は洗面所へと向かっていく。その背中に、もう何の感情も湧かなかった。憎しみさえも通り越し、まるで知らない他人を見ているような、冷え切った感覚だけがそこにあった。私はゆっくりと立ち上がり、機械的にキッチンへ向かう。冷蔵庫から卵とベーコンを取り出し、フライパンを火にかける。そのすべてが、ひどく現実感のない、遠い世界の出来事のようだった。
朝食を終えた智也さんは、私がアイロンをかけてクローゼットに吊るしておいたスーツに着替えると、「じゃ、行ってくる」とだけ言って玄関を出ていった。汚された訪問着のことなど、彼の記憶からは完全に消去されているのだろう。「クリーニングに出しておけ」と言われた自分のスーツのことしか頭にないのだ。
一人になった家は、墓場のように静まり返っていた。私は再び、和室へと戻る。このままではいけない。この訪問着を、私の絶望の象徴を、どうにかしなければ。捨てる? 粗大ゴミの日に、他の生ゴミと一緒に? それだけは、できなかった。たとえ無価値な「布きれ」になったとしても、これは私の分身だったから。
私は染みの部分をそっと持ち上げた。闇夜を表現した深い藍色に、血のような赤黒い染みが歪な形で広がっている。コンクールへの道は完全に断たれた。けれど、このまま終わらせてしまっていいのだろうか。厳格だった父は、よくこう言っていた。「どんな失敗も、見方を変えれば新しい美しさの始まりになる。職人とは、それを見つけ出す者のことだ」と。
父への反発から家を飛び出した私だが、その教えだけは骨の髄まで染み付いている。私は染みの輪郭を、指でそっとなぞった。いびつな形。だが、見ようによっては……。
ふと、ある情景が脳裏に浮かんだ。闇に浮かぶ月を背に、はらりはらりと散っていく、真紅の椿の花。そうだ、この染みは、絶望の痕跡なんかじゃない。これは、これから描かれるべき、新しい物語の始まりなのだ。
その瞬間、私の内側で何かがカチリと音を立てた。そうだ、この染みを隠すのではなく、むしろ主役にしてしまえばいい。この絶望的な赤を、もっとも美しい赤として再生させるのだ。黎明の光を待つ静かな夜に、潔く散っていく一輪の椿として。
気づけば、私は絵筆を握っていた。新しい染料を溶き、息を詰めて筆先に集中する。もう、コンクールのためではない。夫に認められるためでも、誰かに褒められるためでもない。ただ、この手で汚された私の魂を、この手で救い出したかった。無心で筆を動かす。染みの輪郭を活かし、そこに金彩で縁取りを施す。散りゆく花びらを数枚描き加え、夜の闇に銀糸で星の輝きを刺繍していく。
時間はあっという間に過ぎていった。お昼も食べず、トイレにも立たず、私はただひたすらに作品と向き合った。智也さんが帰ってくる気配がしても、もう動じなかった。彼は和室の襖を少し開けて、「まだやってんのか。懲りないやつだな」と呟くと、興味を失ったようにリビングへ消えていった。それでよかった。彼の無関心が、今の私には好都合だった。
数日が経ち、作品は新たな姿へと生まれ変わりつつあった。絶望の象徴だった赤黒い染みは、月光を浴びて妖艶に輝く「散り椿」へと昇華されていた。それはもはや失敗作ではなかった。偶然が生み出した、二つとない芸術作品。私は、その変化の過程を、一枚だけ写真に撮った。ひっそりと続けている、数えるほどの友人にしか教えていないSNSのアカウントに、それを投稿するためだった。
誰かに見てほしかったわけじゃない。これは、私自身の記録。そして、絶望の縁から立ち上がろうとする自分自身への、ささやかな宣誓だった。
『絶望からの挑戦。』
たった一言だけを添えて、私は投稿ボタンを押した。フォロワーは十数人。すぐに数件の「いいね」がついたが、それだけだ。それでよかった。私はスマートフォンを脇に置き、再び作品へと意識を戻した。
その夜、すべての作業を終えた私が、ようやく一息つこうとスマートフォンを手に取った時だった。見慣れないアカウントから、一件のダイレクトメッセージが届いていることに気づいた。アイコンは、黒い背景に白で描かれた、蓮の花のシンプルなデザイン。アカウント名は、『Ren Ichijo』。
怪訝に思いながら、私はメッセージを開いた。
『はじめまして。突然のご連絡、失礼いたします。私、一条蓮と申します。あなたの今日の投稿を拝見し、衝撃を受け、いてもたってもいられずメッセージをお送りしました』
一条蓮。どこかで聞いたことがあるような、ないような。首を傾げながら、私はメッセージの続きを読んだ。
『ワインの染みでしょうか。その偶発的なアクシデントを、絶望と捉えるのではなく、新たなデザインとして昇華させるその精神性と、それを実現する圧倒的な技術力。私は、あなたのその類稀なる才能に、心から惚れ込みました』
心臓が、どくんと大きく跳ねた。私の、才能? 私がやっていることは、夫に言わせれば「地味な内職」で、義母に言わせれば「主婦の道楽」のはずだ。それを、この見ず知らずの人物は、手放しで絶賛している。
『もしご迷惑でなければ、ぜひ一度、お会いしてお話をお伺いできないでしょうか。あなたの作品について、そしてあなた自身について、もっと知りたいのです。私は今、次のコレクションのテーマを探しており、あなたのその芸術性に、大きな可能性を感じています』
いたずらだろうか。それとも、何かの詐欺かもしれない。警戒心が頭をもたげる。私は『Ren Ichijo』という名前を、検索エンジンに入力してみた。
検索結果のトップに表示されたのは、海外のファッション情報サイトの記事だった。そこに映っていたのは、シャープな黒いジャケットを着こなし、鋭い眼光でこちらを見つめる、三十代後半くらいの東洋人男性の写真。そして、記事の見出しにはこう書かれていた。
『パリを席巻する日本人デザイナー、一条蓮。伝統と革新を融合させる次世代の鬼才』
記事を読み進めるにつれ、私の指は微かに震え始めた。一条蓮。彼は、伝統工芸や民族衣装といった、古くから受け継がれてきた技術を現代ファッションに落とし込み、世界的な評価を得ている新進気鋭のデザイナーだった。彼のショーは常に賞賛の的であり、彼が手掛けた服は、ハリウッド女優や王室のメンバーにも愛用されているという。
そんな雲の上の人が、なぜ私に? SNSの投稿は、本当に偶然、彼の目に留まったというのか。信じられない思いで、私は何度も記事とメッセージを見比べた。
『私は本気です。あなたの才能は、こんな場所で埋もれさせてはいけない。どうか、私にチャンスをいただけませんか』
追伸のように送られてきたメッセージには、彼の熱意と誠実さが溢れていた。嘘や冗談で書ける文章ではない。彼は、本気で私に会いたいと言っている。
どうしよう。夫の智也さんに相談する? いや、無理だ。「どうせ詐欺だ」「馬鹿な夢を見るな」と一蹴されるのが目に見えている。義母に知られれば、何を言われるか分からない。
でも、このままこの話を無視してしまったら? 私はまた、色のない灰色の日常に戻るだけだ。自分の才能を「地味な内職」と蔑まれ、夫と義母の機嫌を伺いながら、心をすり減らして生きていく。
その時、リビングから智也さんの声が聞こえた。
「おい、彩葉! ビール! 冷蔵庫になかったぞ、買ってこいよ!」
この声だ。この支配的な物言いが、私の日常なのだ。私は、この日常から抜け出したいと、心の底から願っているのではないか。
ごくり、と喉が鳴る。絶望の縁で、細い一本の蜘蛛の糸が垂らされてきたのかもしれない。もしこれが偽物だったとしても、掴んでみる価値はある。もし本物だったなら、私の人生は、ここから変わるかもしれない。
失いかけていた自己肯定感が、胸の奥で小さな炎を灯す。諦めと絶望の中に差し込んだ一筋の光に、震えるほどの期待と、少しの恐怖を感じていた。
私は、深呼吸を一つした。そして、震える指で、返信の文字を打ち込み始めた。
『一条蓮様。メッセージ、ありがとうございます。水野彩葉と申します。驚いて、まだ信じられない気持ちでおりますが……お話だけでも、お聞かせいただけると嬉しいです』
送信ボタンを押した瞬間、私の世界が、ほんの少しだけ色づいたような気がした。これは、夫に内緒の、私だけの小さな反逆。そして、失われた人生を取り戻すための、大きな、大きな一歩だった。
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