「地味な内職」と笑った夫へ。私の友禅が世界に認められたので、慰謝料請求書をお届けします

@jnkjnk

第1話:灰色の日常と砕かれた尊厳

窓の外で鳴くひぐらしの声が、夏の終わりを告げている。凛とした静寂に包まれた六畳の和室で、私、水野彩葉は息を詰めていた。畳の上に広げられた真っ白な絹地に、細い筆先から鮮やかな色彩を落としていく。淡い桃色、萌葱色、そして深く澄んだ藍色。命を吹き込むように、一筆一筆に祈りを込める。


これは私の魂の欠片。伝統工芸である加賀友禅の家に生まれ、物心ついた頃から筆を握ってきた私にとって、この時間は何にも代えがたい聖域だった。厳格な父への反発と、「特別ではない、普通の幸せ」への漠然とした憧れから家を飛び出し、事務職として働いていた会社で智也さんと出会い、結婚して三年。私は、水野彩葉という専業主婦になった。


それでも、この手から絵筆を完全に手放すことはできなかった。嫁入り道具として持ってきたささやかな画材を使い、家事の合間にこうして作品と向き合う時間だけが、褪せていく自分を繋ぎとめてくれる唯一の糸だった。


「……よし」


椿の花びらに最後のぼかしを入れ、そっと筆を置く。コンクールに出品するために、この半年間、心血を注いできた訪問着だ。テーマは『黎明』。闇夜が明け、世界が光に満ちていく瞬間の、静かで力強い美しさを表現したかった。我ながら、これまでで一番の出来栄えかもしれない。完成間近の作品を眺めていると、胸の奥からじんわりと熱いものがこみ上げてくる。


その時、玄関のドアが開き、重い足音が廊下を伝わってきた。時計を見れば、午後七時半。夫の智也さんが帰ってきたのだ。ふぅ、と一つ息を吐き、私は聖域から現実へと意識を引き戻す。急いで立ち上がり、着物に付いた染料の匂いを払うように軽く手を叩いてから、和室の襖をそっと閉めた。


「おかえりなさい、智也さん」

「ん、ただいま」


リビングのドアを開けると、スーツの上着をソファに放り投げながら、智也さんが不機嫌そうな顔でネクタイを緩めていた。彼の眉間に刻まれた深い皺は、もはや日常の風景だ。


「疲れた。飯は?」

「すぐに準備するわね。今日は智也さんの好きな生姜焼きよ」

「ふーん」


興味なさそうに返事をすると、彼は冷蔵庫から缶ビールを取り出して乱暴にプルタブを開けた。私がキッチンで夕食の支度を整えている間も、ソファに寝転がってスマートフォンをいじるだけ。手伝ってほしいなんて、もう何年も前に期待するのをやめていた。「男は外で働き、女は家を守るもの」というのが彼の持論であり、彼の父親がそうであったように、それが揺るぎない世界の真理なのだと信じている。


食卓に並んだ料理を前にしても、彼の態度は変わらない。テレビのバラエティ番組に視線を向けたまま、箸を無造作に動かすだけ。「美味しい?」と尋ねる言葉は、とうの昔に飲み込んでしまった。


「そういえば、さっきまでまた和室にこもってたのか」

「ええ……。もうすぐ完成だから、少しだけ」

「ふん。またあの地味な内職か。そんなことして、一円でも稼げるわけじゃないだろうに。コンクール? 笑わせるなよ。主婦の道楽で入賞できるほど、世の中甘くないって」


智也さんの言葉は、鋭い棘となって私の胸に突き刺さる。いつものことだ。彼は、私の友禅を「金にもならない地味な内職」と呼び、決して認めようとはしない。私が伝統工芸の家元の一人娘であることも、その才能を高く評価されていた過去も、彼にとっては「だから何?」で終わる話だった。むしろ、妻が自分の知らない世界で評価される可能性を、心のどこかで恐れているようにさえ見えた。


「……ごめんなさい」

「謝るくらいなら、もっと他にやることあるだろ。明日のシャツのアイロンは? 風呂掃除は? 俺が稼いだ金で生活させてもらってるんだから、嫁としての役目をちゃんと果たせよな」


ぐうの音も出ない。彼の言う「嫁としての役目」を、私は完璧にこなしている自負があった。毎日の掃除、洗濯、手の込んだ食事。彼の両親、つまり義実家との付き合いも、波風立てぬよう細心の注意を払ってきた。それでも、私が自分の世界に没頭する時間は、彼にとって許しがたい「怠慢」でしかないのだ。


まるで私の心を読んだかのように、テーブルの上のスマートフォンがけたたましく鳴った。画面に表示された『お義母様』という文字に、私の胃はきりりと痛む。


「……はい、もしもし、水野です」

『あら彩葉さん、今お夕飯の最中だったかしら? 智也はちゃんと食べてる?』


電話の向こうから聞こえる、ねっとりとした義母・紀子さんの声。智也さんを溺愛して育ててきた彼女にとって、息子はいつまでも彼女の所有物であり、私はその大切な息子を預かる管理人に過ぎない。


「はい、今、いただいています。智也さんも……」

『そう。あなた、最近またあの着物の絵に夢中になっているんですって? 智也から聞いたわよ。主婦の道楽もいいけれど、家のことがおろそかになっては本末転倒じゃないかしら』


智也さんが、わざわざ義母に告げ口したのだ。背後で聞こえる、彼の舌打ちが耳に届く。


「家のことは、きちんとやっているつもりです。お義母様」

『あら、口答えするの? 嫁いだからには、この家のやり方に従うのが当たり前でしょう。智也の父なんて、私が少しでも趣味に時間を使おうものなら烈火のごとく怒ったものよ。夫を支え、家庭を守る。それが女の幸せなの。あなたも早く目を覚ましなさい』


一方的に捲し立てられる言葉を、私はただ「はい」「申し訳ありません」と繰り返して受け止めるしかない。それがこの家で穏便に過ごすための、唯一の方法だったから。電話を切った後、目の前の生姜焼きはすっかり冷え切っていた。


「母さんも心配してるんだ。お前のためを思ってな」


テレビから目を離さずに言う智也さんに、私は何も答えなかった。お皿を片付けながら、どうして私はこんな場所にいるのだろう、と自問する。私が夢見た「普通の幸せ」とは、こんな息の詰まるような毎日だっただろうか。尊厳を少しずつ削り取られ、色のない世界でただ呼吸をしているだけのような日々。


その日の深夜だった。会社の飲み会だと出かけていった智也さんが、千鳥足で帰ってきたのは。日付が変わる少し前。リビングでうたた寝をしていた私は、玄関で大きな物音がしたのに驚いて飛び起きた。


「智也さん、大丈夫?」

「んあ……? いろはか……。飲みすぎた……」


呂律の回らない口調で、彼は壁に手をつきながら廊下を歩いてくる。その手には、なぜか飲みかけの赤ワインのグラスが握られていた。どこかの店から持ってきたのか、それとも家の戸棚から勝手に出したのか。


「危ないわ、そんなもの持って」

「うるさいな……。まだ飲むんだよ……」


私がグラスを受け取ろうとする前に、智也さんの体はぐらりと大きく傾いた。そして、最悪の事態が起きる。彼は、私が最終確認のために畳の上に広げていた、あの訪問着のある和室の襖に、もたれかかるようにして倒れ込んだのだ。


「あっ!」


私の悲鳴と、グラスが畳に叩きつけられて割れる甲高い音が重なった。スローモーションのように、智也さんの手から離れたグラスが宙を舞い、その中身が白い絹地の上にぶちまけられる。


闇夜を表現した深い藍色の上に、おぞましいほど鮮やかな深紅のシミが、じわりと広がっていく。それはまるで、私の心臓から流れ出した血のようだった。


「あ……あぁ……」


声にならない声が漏れる。この半年の努力。私の魂を注ぎ込んだ『黎明』。それが、一瞬にして穢された。私は膝から崩れ落ち、震える指でそのシミに触れようとして、寸前で止めた。もう、どうしようもない。修復不可能な、絶望的な染みだ。


「……あーあ、やっちゃったか。ごめんごめん」


床に倒れ込んだまま、智也さんが悪びれもなく言った。その言葉に、私の全身の血が逆流するような感覚に陥る。


「ごめん、じゃないわ……。智也さん、これが、これが何だか分かってるの……?」

「なんだよ、うるさいな。たかが布きれだろ。そんなの、また作ればいいじゃねえか」


たかが、布きれ。


その一言が、私の心の中で張り詰めていた最後の糸を、ぷつりと断ち切った。怒りよりも先に、底なしの虚無が私を襲う。この人は、私の悲しみを、苦しみを、何一つ理解していない。いや、理解しようとすらしていないのだ。


「それより、スーツがワイン臭くなっちまった。悪いけど、明日朝イチでクリーニング出しといてくれよ。じゃ、おやすみ」


そう言い残し、智也さんは汚れたスーツを脱ぎ捨てるのももどかしく、隣の寝室へと這うように消えていった。すぐに、安らかな寝息が聞こえ始める。


一人、和室に残された私は、ただ呆然と、赤い染みが滲んだ訪問着を見つめていた。涙は出なかった。あまりの衝撃に、感情が追いついてこない。私の半年間は、彼の「たかが布きれ」の一言で終わった。私が夢見た「普通の幸せ」の、これが成れの果てだった。


静寂の中、今度は枕元のスマートフォンが震えた。画面には、またしても『お義母様』の文字。きっと、泥酔した智也さんから何か連絡があったのだろう。震える手で通話ボタンを押す。


『もしもし、彩葉さん!? 智也から聞いたわよ、あなたが怒って大変だって!』

「……」

『飲み会で少し羽目を外したくらいで、夫に恥をかかせるなんてどういうつもりなの! 大事な着物だったかもしれないけど、それもこれも、夫の機嫌一つ取れないあなたが悪いのよ! もっとしっかりなさい!』


一方的に怒鳴り散らす義母の声が、やけに遠くに聞こえる。私は何も答えず、ただ静かに通話を切った。


冷たい畳の上で、私はゆっくりと顔を上げた。目の前には、無惨に汚された私の『黎明』。智也さんの心無い言葉。義母の理不尽な叱責。全てが一つになり、私の内側で凝り固まっていた何かが、音を立てて砕け散った。


悲しみも、屈辱も、虚しさも、すべてが凪いだ海のようになり、その水底から、冷たく硬い、確かな感情が一つだけ浮かび上がってきた。


静かな、静かな怒り。そして、決別の意思。


「……もう、やめよう」


誰に言うでもなく、私は呟いた。その声は自分でも驚くほど穏やかで、乾いていた。私はもう、泣かなかった。ただ、闇に広がる赤い染みを、これから始まる本当の『黎明』を待つ夜明け前の空のように、じっと見つめていた。

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