第2話:決別と、新たな光
あの屈辱的な元旦の夜、親戚たちが帰り支度を始め、冨美子と康太が玄関先で最後の挨拶を交わしている束の間。私は誰にも気づかれぬよう、自室で静かに行動を開始した。
スーツケースに詰めるのは、仕事で使うノートパソコンと周辺機器、数日分の着替え、そして通帳と印鑑。この三年間で買った服やアクセサリーのほとんどは、置いていく。橘家の嫁として与えられたものは、何一つ持っていく気になれなかった。それはまるで、古くなった皮を脱ぎ捨てるような作業だった。
最後に、鏡台の引き出しの奥に仕舞っていた小さな箱を取り出す。中には、結婚前に康太さんから贈られた、シンプルなデザインのネックレスが入っていた。プロポーズの言葉と共に渡された、ささやかな、けれど当時の私にとっては世界で一番輝いて見えた宝物。その箱を、私はそっとスーツケースの底にしまった。これは、過去の自分への決別の証だ。捨てるのではなく、この惨めな記憶ごと乗り越えていくための。
枕元には、一通の置き手紙を。
『お世話になりました。探さないでください。今後の連絡は、後日、代理人を通してさせていただきます。 梓』
短い文面には、感謝も謝罪も、恨み言も綴らなかった。もはや、この家の人々に伝えたい感情など、何一つ残っていなかったからだ。
深夜、全ての物音が寝静まったのを確認し、私は誰にも見送られることなく橘家の玄関を滑り抜けた。冷たい冬の空気が頬を打ち、凍えそうな寒さのはずなのに、不思議と体は熱を帯びていた。振り返らず、私はタクシーを拾い、予約していた駅前のビジネスホテルへと向かった。
翌朝、橘家では大騒ぎになっているらしかった。康太から鬼のように着信があったが、私は一度も応答せず、代わりに大学時代の友人で、今は弁護士として活躍している沙耶に電話をかけた。
「……というわけなの。沙耶、力を貸してくれる?」
事情をかいつまんで話すと、電話の向こうで沙耶が深く息を吸う音がした。
「梓……よく、決心したね。三年間、本当によく耐えたよ。もちろん、引き受ける。慰謝料も財産分与も、あんたの貢献に見合った分をきっちり請求しよう。あんたが橘家の家計に入れてたお金の記録、ちゃんとある?」
「うん、振込記録は全部残してある。それと、私の収入を『あぶく銭』だの『道楽』だの言われた音声も、いくつか……」
いざという時のために、と密かに録り溜めていた冨美子の暴言の数々。使う日が来ないことを願っていたが、今となっては強力な武器になるだろう。
「上出来。準備万端じゃない。あとは私に任せて、梓は自分のことだけ考えて。まずはゆっくり休んで」
力強い友人の言葉に、張り詰めていたものが少しだけ緩む。ありがとう、と呟いて電話を切った。窓の外には見慣れない街並みが広がっている。私は自由になったのだ。解放感と共に、ほんの少しの不安が胸をよぎったが、すぐに打ち消した。もう、後ろは振り返らない。
その頃、橘家では。
私の置き手紙を見つけた康太が、冨美子のいる居間に駆け込んでいた。
「母さん、大変だ! 梓が……梓がいなくなった!」
「なんですって?」
冨美子は手紙にさっと目を通すと、鼻で笑った。
「くだらない。どうせちょっと頭に血がのぼっただけでしょう。世間知らずのお嬢様が、一人で何日も暮らせるわけがないわ。放っておきなさい。二、三日もすれば、泣きながら帰ってきますよ」
その自信に満ちた態度に、康太は何も言い返せない。母の言う通りかもしれない。梓はいつも、最後には折れてくれた。今回もきっとそうだ。そう自分に言い聞かせながらも、康太の胸にはあの元旦の夜に見た、梓の凍てつくような瞳が焼き付いて離れなかった。
だが、冨美子の高を括った予測は、数日後に木っ端微塵に打ち砕かれることになる。橘花堂に、弁護士事務所の署名が入った分厚い内容証明郵便が届いたのだ。
『離婚調停申立通知書』
その文字を見た瞬間、冨美子の顔から血の気が引いた。同封されていた書類には、私、梓の代理人弁護士の名前と共に、離婚の意思が固いこと、そして慰謝料と財産分与を請求する旨が、法的根拠と共に淡々と記載されていた。
「こ、康太! なんなの、これは! あの女、本気で……!」
狼狽する母を前に、康太はただ立ち尽くすしかなかった。梓は泣いて戻ってなどこない。それどころか、自分たちが想像もしなかった方法で、静かに反撃の狼煙を上げていたのだ。自分たちが「道楽」と蔑み、無価値だと断じた嫁が、周到な準備の末に牙を剥いた。その事実に、二人は言いようのない恐怖と焦燥に駆られていた。
一方、私は新居探しと気分転換を兼ねて、今まで足を踏み入れたことのない隣町の駅裏を散策していた。古い商店と新しいカフェが混在する、どこか懐かしい雰囲気の路地裏。そこに、ひっそりと佇む一軒の店が目に留まった。
『茶寮 みやた』
墨で書かれたような、控えめな看板。ガラス張りの引き戸の向こうには、こぢんまりとした、けれど清潔感あふれる空間が広がっている。和菓子カフェ、とある。橘花堂の古めかしい店構えとは全く違う、モダンで洗練された佇まいに、私は知らず知らずのうちに引き寄せられていた。
「いらっしゃいませ」
店に入ると、凛とした声に迎えられた。カウンターの奥に立っていたのは、私より少し年上だろうか、白衣を纏った精悍な顔立ちの男性だった。彼が店主の宮田蓮さんだと知ったのは、もう少し後のことだ。
客は私一人。静かな店内には、心地よいジャズのインストゥルメンタルが流れている。メニューから、季節の上生菓子と抹茶のセットを注文した。
やがて運ばれてきたのは、芸術品のように繊細な和菓子だった。『初時雨』と名付けられたその菓子は、淡い紫色の濃淡で、冷たい雨に濡れる冬の草花を表現しているという。食べるのが惜しいほどの美しさだ。
黒文字をそっと入れると、驚くほど滑らかに切れた。一口、口に運ぶ。その瞬間、私は息を呑んだ。上品な白餡の甘さと、それを引き立てるわずかな塩気。口の中でほろりと溶けていき、鼻に抜ける豊かな香り。見た目の美しさだけでなく、味のバランスが完璧なのだ。橘花堂の和菓子も美味しいと思っていたが、これは次元が違う。素材の一つ一つが丁寧に仕事をされ、作り手の美意識と哲学が込められているのが、舌を通して伝わってくる。
「……美味しい」
思わず、声が漏れた。カウンターの向こうで、蓮さんが少しだけ口元を緩めたのが見えた。
夢中で菓子を味わい、抹茶で一息ついた時、私は改めて店内を見回した。こんなにも素晴らしい菓子を作る店なのに、どうしてお客が私一人しかいないのだろう。平日の昼下がりとはいえ、あまりに寂しい。
店のウェブサイトはあるのだろうか。SNSは? チラシや看板は? 頭の中に、職業病ともいえる疑問が次々と浮かんでくる。気づけば私は、この店の改善点を勝手にリストアップし始めていた。
「あのお……」
会計をしようとカウンターに立った時、衝動を抑えきれず、私は口を開いていた。
「大変失礼なことをお伺いしますが、こちらの和菓子、本当に素晴らしいですね。なのに、どうしてこんなに空いているのでしょうか」
蓮さんは一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに苦笑を浮かべた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。……まあ、ご覧の通り、宣伝とかそういうのが苦手でして。菓子を作ることしか能がないものですから」
その自嘲気味な言葉に、私はむずむずとした気持ちになった。違う。これは「能がない」のではなく、宝の持ち腐れだ。この才能は、もっと多くの人に知られるべきだ。
「もったいないです」
きっぱりとした私の口調に、今度は蓮さんが虚を突かれた顔をした。
「このお店、コンセプトは素晴らしいのに、それが外に全く伝わっていません。例えば、その美しい和菓子。もっと魅力的に見える写真の撮り方があります。SNSでハッシュタグを工夫すれば、若い女性客に響くはずです。オンラインストアを作って、全国に発送する仕組みを作れば、商圏は一気に広がります。それから……」
一度口火を切ってしまったら、もう止まらなかった。橘家で蔑まれ、封じ込められてきた私の知識と経験が、堰を切ったように溢れ出してくる。おせっかいだと分かっている。けれど、目の前にある本物の才能が、正当に評価されずに埋もれていることが、プロとして許せなかった。
呆然と私の言葉を聞いていた蓮さんが、やがて、真剣な眼差しで私を見つめ返した。
「すごい……。あなたは、一体何者なんですか?」
「あ……すみません、出過ぎたことを。私は、ただの……」
Webデザイナーです、と言いかけて、口ごもる。私はもう「橘家の嫁」ではない。ただの橘梓だ。自分の力が、こんな風に誰かの役に立つかもしれない。その事実に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
「いえ、謝らないでください」
蓮さんはカウンターから身を乗り出すようにして、私に言った。
「もっと、詳しくあなたの話を聞かせていただけませんか。もしよろしければ、うちの店のコンサルティングを、あなたにお願いしたい」
その真っ直ぐな瞳には、私を「道楽の嫁」として見る色はどこにもなかった。そこにあるのは、プロフェッショナルなスキルを持つ人間への、純粋な敬意と期待。
三年間、私が心の底から欲していたものだった。
「……はい。喜んで」
私の返事を聞いて、蓮さんの顔にぱっと明るい笑みが広がった。それは、私の凍りついた心に差し込んだ、温かくて力強い、再生の光だった。
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