蔑まれた私の「道楽」で、老舗の暖簾を下ろさせていただきます ~見下した嫁は、人気店の仕掛け人でした~

@jnkjnk

第1話:踏みにじられた尊厳

元旦の澄み切った空気が、老舗和菓子屋「橘花堂」の歴史を刻んだ格子戸を通り抜けていく。店の奥にある居間には本家の親戚一同が集い、晴れ着姿の義母・橘冨美子を中心に、見せかけの和やかな祝宴が繰り広げられていた。


その輪の中心から少し離れた場所で、私、橘梓(たちばな あずさ)は、甲斐甲斐しくお酌をして回りながら、息を殺していた。この家に嫁いで三年。早朝から叩き起こされ、慣れない着物に身を包み、分家の嫁としてひたすら立ち働き続けるこの時間は、一年のうちで最も憂鬱な時間だった。


「梓さん、こちらの煮物、少し味が薄いわね。橘家の味は、あなたにはまだ難しいかしら」


隣を通り過ぎざまに、冨美子が囁く。聞こえるか聞こえないかの声量だが、その内容は鋭い棘となって突き刺さる。私が何時間もかけて出汁を取り、丁寧に仕上げた筑前煮だ。レシピは冨美子から渡されたものに寸分違わず従ったはずなのに。


「申し訳ありません、お義母様。精進いたします」


「本当にそう思っているのかしらね。あなたはいつも口先ばかりだから」


ふん、と鼻を鳴らして冨美子は人の輪に戻っていく。こういうことは日常茶飯事だった。伝統ある橘家の嫁という立場は、私がフリーランスで続けてきたWebデザイナーの仕事を「道楽」の一言で片付けるには、十分すぎる理由らしかった。


結婚当初、私はこの家の伝統を心から尊敬していた。夫となる康太さんが、店の歴史や和菓子作りのこだわりを熱っぽく語る姿に惹かれたのだ。彼の隣で、彼の夢を支えたい。そう思って、橘家に嫁ぐことを決めた。


もちろん、自分の仕事も続けたかった。Webデザインとマーケティングのスキルは、私が学生時代から努力して身につけた、私自身の誇りだ。康太さんも「君の才能を尊敬している。僕がちゃんと母さんには話しておくから」と言ってくれた。その言葉を、私は信じていた。


しかし、現実は違った。冨美子にとって、パソコンに向かう嫁の姿は「楽をして怠けている」としか映らなかったらしい。


『家にいる時間があるなら、掃除の一つでもなさいな』

『一日中パソコンなんぞいじって、目が悪くなりますよ。跡継ぎを産む大事な体なのですから』

『女は家を守ってこそ一人前。そんな片手間の道楽、いつまで続けるつもり?』


投げつけられる言葉の数々に、私は何度も自分の仕事の意義を説明しようと試みた。クライアントとの打ち合わせ、デザインカンプの作成、コーディング、そして納品後の効果測定まで。決して「いじって」いるわけではないのだと。けれど、冨-美子は聞く耳を持たなかった。


「梓さん、こっちのグラスが空よ」


叔父の声に我に返り、慌ててビール瓶を手に取る。思考に沈んでいる間に、また嫁としての務めを疎かにしてしまったらしい。冨美子の非難めいた視線が背中に突き刺さるのを感じながら、私は無理やり笑顔を貼り付けた。


祝宴が中盤に差し掛かった頃だった。取引先の社長だという恰幅の良い男性が、上機嫌で康太に話しかけた。


「橘花堂さんも、最近は大変でしょう。うちの会社も、若い世代にどうアピールしていくかが課題でしてね。ウェブサイトのリニューアルを考えているんですが、どこか良い業者さん、ご存じないですか?」


その言葉に、私は胸の中でかすかな期待を抱いた。康太さんは私の仕事内容を知っている。もしかしたら、ここで私のことを紹介してくれるかもしれない。それは橘家の利益にも繋がるはずだ。


しかし、康太は困ったように眉を下げただけだった。


「はあ、ウェブですか……。うちはどうもそういう新しいことには疎くて。すみません、お力になれず」


へらり、と力なく笑う夫の姿に、胸の奥が冷えていく。なぜ一言、「妻がそういう仕事をしているので、話だけでも」と言ってくれないのだろう。私の仕事は、この家の人間にとって、存在しないものと同じなのだ。


そのやり取りを横目で見ていた冨美子が、待ってましたとばかりに大きな溜息をついてみせる。


「本当に。うちも他人事ではありませんわ。康太がいくら真面目に暖簾を守ろうと頑張っても、時代の流れには逆らえませんから。昔ながらのやり方だけでは、お客様も離れていってしまう」


その言葉の棘が、誰に向けられたものなのか、この場にいる全員が分かっていた。冨美子の鋭い視線が、的を射るように私を貫く。


「まあ、梓さん。あなたがお家でパソコンをいじって稼いでくださる『お小遣い』も、少しは足しにはなっているのでしょうけれど」


「お小遣い」という単語に、親戚たちの間にくすくすという忍び笑いが漏れる。私がデザインとマーケティングのスキルを駆使して、徹夜も厭わず稼ぎ出した少なくない収入。そのほとんどを、店の経営が苦しいと嘆く夫のために、黙って家計に入れてきた。けれど、冨美子にとっては、そんな事実はどうでもいいのだ。嫁の功績など、認める気は毛頭ない。


「そもそも、そのお仕事だって『橘花堂の嫁』という看板があるから舞い込んでくるようなものでしょう? あなた個人の力だと勘違いなさらないでちょうだい。ただの道楽で得たあぶく銭を、自分のものだと思われるのは心外ですわ」


全身の血の気が引いていくのが分かった。胃の腑が冷たい鉛で満たされたように重くなる。私の努力も、実績も、スキルも、この人にかかれば「看板のおかげ」「あぶく銭」に成り下がる。悔しさに唇を噛むと、鉄の味がした。


そして、冨美子は決定的な一言を放った。


「来月から、その稼ぎは全額、家の金庫に入れなさい。いいわね? 大体、店の経営がこれほど苦しいのも、本来家を支えるべき嫁の稼ぎが雀の涙ほどだからですものね」


しん、と居間の空気が凍り付く。あまりに理不尽な物言いに、さすがに数人の親戚が顔を見合わせている。だが、誰も冨美子を諌めようとはしない。この家では、女将の言葉は絶対なのだ。


もう、限界だった。何かが込み上げてくるのを必死にこらえ、私は最後の望みをかけて、隣に座る夫に助けを求める視線を送った。お願い、康太さん。何か一言でいいから、私の味方をして。私の努力を知っているあなただけは、違うと言って。


しかし、康太は一度だけ私と目を合わせると、困ったように眉を下げ、すぐに逸らしてしまった。まるで、厄介なものから逃げるように。


「……母さんも、悪気はないんだよ、梓。店のことを心配してるだけだから」


蚊の鳴くような声で呟かれたその言葉が、私の耳に届いた瞬間。


ぷつり、と心の中で何かが切れる音がした。


三年もの間、この人の優しさを信じて、耐えに耐えてきた細い糸。いつか分かってくれる、いつか守ってくれるという淡い期待。夫への信頼という、最後の命綱だった。それが、今、あっけなく断ち切られた。


ああ、そうか。この人は、これからもずっとこうなのだ。母親の権威の前では、妻の尊厳など、塵芥(ちりあくた)同然に扱うのだろう。結婚前に交わした「君の仕事を尊敬している」「僕が守るから」という甘い言葉は、すべて嘘だったのだ。


視界が白く染まり、周りの音が遠のいていく。絶望が全身を駆け巡り、指先まで凍りつかせる。


けれど、その氷の底から、ふつふつと何かが湧き上がってきた。それは、怒りだった。これまで抑え込んできた、自分自身に対する不甲斐なさへの怒り。そして、私の価値を無慈悲に踏みにじり続けるこの人たちへの、冷え冷えとした静かな怒りだった。


「……はい、お義母様。承知いたしました」


俯いた私の口から零れたのは、驚くほど平坦な声だった。その声に、冨美子は「分かればよろしい」と満足げに頷き、康太はほっとしたように息をつく。私がこれまで通り、黙って従うと思ったのだろう。


けれど、私の心はもう、ここにはなかった。凍てついた静寂が支配する胸の内で、燃え始めたのは静かで、それでいて決して消えることのない決意の炎だった。


もう、終わりにしよう。この屈辱に満ちた日々も、私を見下す人たちとの関係も。私の価値を「道楽」と踏みにじったこの家から、必ず出ていってやる。そして、私の力で、私の価値を証明してやる。この人たちが、喉から手が出るほど欲しがるような形で。


そっと顔を上げた私の目に、どんな光が宿っていたのか。酔いの回った宴席で、それに気づく者は誰一人としていなかった。私は完璧な嫁の微笑みを顔に貼り付けたまま、おもむろに立ち上がると、空になった徳利を手に厨房へと向かった。


その足取りは、不思議なほど軽やかだった。頭の中では、もう弁護士の探し方、当面の住まいの確保、仕事のスケジュールの再調整など、具体的な計画が次々と組み立てられていく。


私の道楽で、この家の暖簾を下ろさせていただく。


冷たい水で徳利をすすぎながら、私は静かに誓った。それは、搾取され続けた嫁の、品格ある復讐の始まりだった。

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