第10話:記憶の深淵


翌朝。


レオンは、トーマスの家の前に立っていた。


古い一軒家。

庭には、子供用の自転車。

玄関先に、小さな花壇。


依頼書の内容を、思い出す。


退役軍人。

戦場でのトラウマ。

親友を置き去りにした罪悪感。

家族と向き合えない苦しみ。


レオンは、深呼吸をした後——ベルを鳴らした。


  *


ドアを開けたのは、女性だった。

三十代後半だろうか。

優しそうな顔。

でも——目の下に、隈がある。


「……忘却術師の、方ですか」

「はい。レオンと申します。あと、彼女は補佐のミラです」

「ミラです」


女性は、少し安堵したような表情を見せた。

「トーマスの妻です。どうぞ、お入りください」


玄関を入ると、廊下に子供の絵が飾ってあった。

家族四人の絵。みんな、笑っている。


「……娘が描いたんです」

奥さんが、絵を見つめて言った。

「三年前の、誕生日に」

「……そうですか」

「あの頃は——まだ、笑えていたんです」

声が、震えた。

「夫も——私たちも——」


  *


リビングに通された。


窓際のソファに、男が座っていた。

がっしりとした体格。

短く刈った髪に、白いものが混じっている。

目は——疲れ切っていた。


トーマス——依頼人だ。


「……来てくれたのか」

低い声。

「はい。レオンと申します。」

トーマスに促され、レオンは、向かいのソファに座った。


その後、しばらく沈黙が続いた。


  *


トーマスは、窓の外を見ている。


庭で、子供たちが遊んでいる。

男の子が、女の子を追いかけている。

笑い声が、聞こえる。


「……あいつらを、見ると」

ふいに、トーマスが呟いた。

「苦しくなるんだ」

「……」

「おかしいだろ。自分の子供なのに」

トーマスの手が、握りしめられた。

「なぜかは分からない。ただ——苦しいんだ」


レオンは、静かに頷いた。

「依頼書で概要は伺っていますが、施術前に少しお話、聞かせてください。戦場で、何があったんですか?」


トーマスは、少し間を空けて話し始めた。


「……親友を、置いてきた」

「敵も、殺した」

「それ以来——」

トーマスは、首を横に振った。

「子供の顔を見ると、胸が苦しくなる」

「夜は……悪夢を見る」

「何度も、同じ夢を」


レオンは、黙って聞いていた。

言葉にできない。

本人にも、何が原因か分からない。

だから、苦しいんだ。




「……俺も、元軍人です」

レオンは、口を開いた。

「仲間を、置いてきました」

「生き残ったのは……俺だけでした」

トーマスの目が、変わった。

「……お前も、か」

「はい」

「……ちなみに、どこの部隊だ」

「ガロウ隊です。ガロウ隊長直属の、第一分隊にいました」


トーマスが、息を呑んだ。

「ガロウ隊……。壊滅したという話だけ聞いていたが……」

「ええ。隊全体では、数名が生き残ったと聞いています。でも、俺がいた第一分隊は……俺以外全員が——」


言葉が、途切れた。

「ガロウ隊長も——行方不明のままです」


沈黙。

トーマスは、レオンを見つめていた。

「俺と——同じなんだな」

「ええ」

トーマスは、深く息を吐いた。

「……少しだけ、楽になった気がする」

「一人じゃ——ないって、分かっただけで」




「トーマスさん」

レオンは、言った。


「最後に一つだけ、教えてください」

「何だ」

「絶対に、消したくない記憶はありますか」


トーマスは、少し考えた。

「……マルコのことは、消さないでくれ」

「マルコ?」

「俺の——親友だ。戦場で——死んだ」

「あいつとの思い出は——消したくない」

レオンは、頷いた。

「分かりました」


「施術を、始めます。ミラ、記録を」

「はい」

準備を整え、レオンはトーマスの前に立った。

「目を、閉じてください」

トーマスは、静かに目を閉じた。

レオンは、トーマスの額に手を当てた。

意識が、沈んでいく。

記憶の世界へ。


  *


暗闇。

レオンは、記憶の世界に立っていた。

周囲には、無数の糸が、漂っている。


赤い糸。

青い糸。

金色の糸。

黒い糸。


トーマスの記憶だ。

原因を特定するため、レオンは歩き始めた。


  *


最初に見えたのは、幸せな記憶だった。

日曜日の夕方。

家族で、食卓を囲んでいる。

子供たちが、笑っている。

隣には、別の家族。


彼が、マルコだろうか。

がっしりした男が、トーマスと肩を組んでいる。


「今日は、いい日だ」

マルコが、ワインを掲げる。

「こうして、みんなで食卓を囲める。それだけで、十分だ」


幸せな光景。

金色の糸が、輝いている。

これは、消してはいけない。


レオンは、先へ進んだ。


  *


場面が、変わった。

キャンプ場。

星空の下で、子供たちが眠っている。

焚き火を囲んで、トーマスとマルコが話している。

「この時間が、永遠に続けばいい」

マルコが、呟いた。

「ああ」

トーマスが、頷いた。


二人の間には、深い絆があった。

十年以上、背中を預け合ってきた。

兄弟のような——親友。

これも、消してはいけない。


レオンは、先へ進んだ。


  *


場面が、暗転した。


砲撃の音、煙の匂い。戦場だ。

レオンの胸が——締め付けられた。

知っている、この匂いを、この音を。

足元に——マルコが倒れていた。

腹部を押さえて——血が、溢れている。


「マルコ!」

トーマスの声が、聞こえる。

「……今、衛生兵を——」

「……無駄だ……」

マルコは、首を横に振った。

「……この傷じゃ……」

「……撤退命令を……出せ……」

「……部下を……生きて帰せ……」

トーマスの手が、震えている。

「……嫌だ……お前を置いていくなんて……」

「……リリィを……頼んだ……」


マルコが、懐から何かを取り出した。

赤い石。

お守りだ。

「……これを……リリィに……返してくれ……」

トーマスが、お守りを受け取った。

「……マルコ……」

「……お前は……生きろ……」

マルコは、拳を胸に当てた。

「……また……な……」


——その瞬間。

レオンの視界が、歪んだ。


  *


別の記憶が、蘇る。

レオン自身の、記憶。


「レオン先輩……妹に……会いたかった、な……」

マークの顔。

血に染まった、笑顔。

「俺の分まで……生きて……」

——マーク。


「明日、お前を必ず守る」

ガロウの声。

「互いに守り合う。それが仲間ってもんだ」

——ガロウ。


俺は……守れなかった。

誰も……守れなかった。

レオンの目から……涙が、溢れた。

記憶の世界で——レオンは、膝をついた。


「……同じだ……」

「……俺と……同じだ……」

トーマスの痛みが——レオンの胸を、貫いた。




——立て。まだ、終わっていない。

記憶の世界に、飲まれてはいけない。


レオンは、立ち上がった。

涙を拭い、先へ進んだ。

……原因を、見つけなければ。

何が、トーマスを苦しめているのか。


  *


場面が、変わった。


森の中、撤退戦。

トーマスが、走っている。

銃声、悲鳴。また、銃声。


「マルコの最期の言葉が、頭の中で響いている」


『生きろ』

『家族が、待ってる』


森を抜けようとした、その時。

目の前に——敵兵が、いた。

至近距離。

トーマスは、反射的に引き金を引いた。


銃声。

敵兵が——倒れた。




トーマスが、敵兵に近づいた。


若い男。二十代半ば。

胸元で、何かが光っている。

ロケットペンダント。開いている。

中に——写真。女の子の写真。

五歳くらいの、女の子。

笑顔で、こちらを見ている。

ペンダントの裏に——文字が刻まれていた。

幼い字。


『パパ だいすき』


レオンは——息を呑んだ。

——これか。——これが——。


敵兵が、目を開けた。

「……家に……帰りたかった……」

掠れた声。

「……娘に……会いたかった……」

その目が——トーマスを見た。


悲しそうな、目。

俺と同じ。

家族を想う、目。


「……すまない……」

トーマスの声が、震えている。

「……すまない……」


敵兵の手が——力なく、落ちた。




これだ。これが、トーマスを苦しめている。

自分の娘と同じ歳の子を持つ父親を殺した。

その罪悪感が、トーマスを押し潰している。


レオンは、糸を見つめた。

赤黒い糸が、トーマスの心に、深く食い込んでいる。


ペンダントの映像。

『パパ だいすき』の文字。

敵兵の最期の言葉。


これを——消す。


しかし、これだけではない。

赤黒い糸が、奥に伸びている。

まだ、何かがある。


レオンは、さらに先へ進んだ。


  *


場面が、変わった。


夕暮れ。

トーマスが、家の前に立っている。

帰還した日。

玄関のドアが、開いた。


「パパ!」

アンナが、飛び出してきた。

「パパ、おかえり!」

小さな体が、トーマスに向かって走ってくる。

しかし——トーマスは、動けなかった。

アンナの顔が——別の顔と、重なる。

ペンダントの中の、女の子。


『パパ だいすき』


——同じだ。同じ歳くらいの、女の子。

——俺は、この子の父親を——。


「パパ?」

アンナが、立ち止まった。

「どうしたの?」

トーマスは——何も言えなかった。


玄関の奥から——エリックが、顔を出した。


「親父……?」

その姿を見た瞬間、トーマスの視界が歪んだ。

エリックの顔が——敵兵の顔と、重なる。


『……帰りたかった……』

敵兵の声が、響く。

エリックの口が——動いているように見える。

「……帰りたかった……」


——違う。エリックは、エリックだ。

——でも……重なる……消えない。


トーマスは——二人の顔を、見られなかった。


「……ごめん」

「……ごめんな……」

それだけ言って——。

トーマスは、二人の横を通り過ぎた。




レオンは——立ち尽くしていた。


これも、原因だ。トーマス自身も、気づいていない。

息子の顔が、敵兵と重なっている。

『帰りたかった』という言葉が、息子を見るたびに、蘇る。

これが、トーマスが「子供の顔を見ると苦しくなる」理由だ。

娘だけではない……息子も——敵兵と、重なっていた。

これも——消す必要がある。


レオンは、手を伸ばした。

最初に、敵兵のペンダントの記憶を掴む。

ロケットペンダントの映像。

女の子の写真。

『パパ だいすき』の文字。

「娘に会いたかった」という声。


これを、消す。

敵兵を殺したという事実は、残る。

しかし、詳細は、消える。

トーマスを押し潰していた、最も鋭い刃。

それを、取り除く。

糸が——切れた。記憶から——消えていく。


次に、エリックと敵兵の重なりを掴む。

帰還した日。玄関に立つエリック。

その顔が、敵兵と重なる。

「帰りたかった」という声。

——これを、消す。


エリックは、エリックだ。

敵兵とは、別の存在だ。その重なりを、断ち切る。


糸が——切れた。

記憶の中で、エリックと敵兵が分離していく。

もう——重ならない。




レオンは、周囲を見渡した。

金色の糸は輝いている。


マルコとの思い出。家族との幸せな日々。全て残っている。


赤黒い糸は——まだ、ある。

敵兵を殺したという事実。

マルコを置いてきたという記憶。


これは、消せない。


俺も……消したいと思ったことがある。

仲間を置いてきた記憶。

あの日の光景。

何度も、消したいと思った。


でも、消さなかった。

消したら……俺は、俺じゃなくなる。

あいつらと戦った俺が……消えてしまう。


それに、訓練中に大佐から聞いたことがある。


『以前、俺の担当した依頼者の記憶「全て消したことがあったんだ。当時の俺は、その人のためにそれが最善だと思った』

『ただ、実際は違った。その人はその後、記憶が無いのに自分を攻め続けることになってしまったんだ』

『俺のせいで、その人は、もっと苦しんだ。理由のない罪悪感は、もっと重い』

『だから、事実は残せ。慎重に、本当に必要な記憶だけ取り除くんだ』


トーマスも、同じだ。

敵兵を殺した事実。マルコを置いてきた記憶。

それが、トーマスという人間を作っている。


だから……事実は、残す。

ただ、その重さで潰れないようにする。

それが……俺にできる、精一杯だ。


  *


もうこれで、押し潰されることはないはず。

生きていける。

家族と、向き合えるはずだ。


レオンは、記憶の世界から——。

ゆっくりと、浮上していった。


レオンは、記憶の世界から——。

ゆっくりと、浮上していった。

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救国の忘却術師 〜記憶を消すたび、俺は透明になる〜 @kodaibisa

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