第9話:戦場の記憶
【トーマスの記憶——三年前・作戦当日】
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夜明け。
作戦開始の合図が、響いた。
俺たちは、森を進んだ。
目標は敵の補給基地。奇襲作戦。
偵察部隊からは「敵は手薄」との報告だった。
成功すれば、戦況を大きく変えられる。
マルコが先頭を歩いている。背中が、頼もしい。
十年以上、この背中を見てきた。
何度も、この背中に助けられた。
今日も——俺たちは、勝つ。そう、信じていた。
*
待ち伏せだった。
——偵察の報告と、違う。
森を抜けた瞬間、銃声が響いた。
「伏せろ!」
マルコの声。
俺は地面に身を投げた。
頭上を、弾丸が掠めていく。
「敵の数は!?」
「分からん!四方から——」
叫び声、爆発音、土煙。
何も見えない。
「小隊長!」
部下の一人が叫んだ。
「左翼から回り込まれてます!」
「くそっ——」
マルコが舌打ちした。
「トーマス、右翼を頼む!俺は左を押さえる!」
「了解!」
俺は、右翼に走った。
銃声が、止まない。
*
どれくらい、戦っただろう。
一時間か。二時間か。
時間の感覚が、なかった。
気づけば——敵の数が、減っていた。
「押し返したぞ!」
誰かが叫んだ。
俺は、息を吐いた。
勝った——そう思った、その時。
「小隊長がやられた!」
その声が、聞こえた。
*
走った。転びそうになりながら、走った。
マルコは、木の根元に倒れていた。
腹部を、押さえている。赤い。手が、真っ赤だ。
「マルコ!」
俺は、駆け寄った。
「おい、しっかりしろ!」
マルコは、薄く目を開けた。
「……トーマス、か……」
声が、弱い。
「喋るな!今、衛生兵を——」
「……無駄だ……」
マルコは、首を横に振った。
「……分かるだろ……この傷じゃ……」
俺は、マルコの腹部を見た。
血が、止まらない。内臓が——。
「……背負う。俺が背負って——」
「……馬鹿……言うな……」
マルコは、笑った。血の混じった、笑い。
「……お前まで……死ぬぞ……」
「構うもんか!」
俺は、マルコの腕を掴んだ。
「一緒に帰るって言っただろ!約束したじゃねえか!」
マルコは、俺の手を握り返した。弱い力。
「……トーマス……」
「何だ!」
「……撤退命令を……出せ……」
俺は、言葉を失った。
「……このままじゃ……全滅する……」
「でも——」
「……副長だろ……お前は……」
マルコの目が、俺を見た。
血走った目。でも——まっすぐな、目。
「……部下を……生きて帰せ……」
俺の手が、震えた。
「……俺の……代わりに……」
「嫌だ」
俺は、首を横に振った。
「お前を置いていくなんて——」
「……リリィを……」
マルコが、呟いた。
「……頼む……」
その言葉で——俺の動きが、止まった。
「……ソフィアと……リリィを………頼んだ……」
マルコは、懐に手を入れた。
震える手で——何かを、取り出す。
赤い石。お守りだ。
「……これを……」
マルコは、それを俺に押し付けた。
「……リリィに……返してくれ……」
俺は、お守りを受け取った。
まだ温かい。マルコの体温。
「……マルコ……」
「……お前は……生きろ……」
マルコは、微笑んだ。
「……家族が……待ってる……」
俺の目から、涙が溢れた。
止められなかった。
「……泣くな……馬鹿……」
マルコは、拳を上げた。
震える拳を——胸に、当てた。
俺たちの、合図。
「……また……な……」
俺も、拳を胸に当てた。
「……ああ……」
声が、震えた。
「……また、な……」
「全員、撤退!」
俺は、叫んだ。
「小隊長は!?」
部下が聞いた。
俺は——答えられなかった。
「……撤退だ。急げ」
それだけ、言った。
走り出す前に——振り返った。
マルコは、木にもたれていた。
俺を、見ている。笑っていた。
穏やかに——。笑っていた。
「……すまん」
俺は、呟いた。
そして——背を向けた。
*
撤退戦は、地獄だった。
敵は、執拗に追ってきた。
森の中を、走る。
銃声、悲鳴。また、銃声。
仲間が、一人、また一人と倒れていく。
俺は、走り続けた。
マルコの最期の言葉が、頭の中で響いている。
『——生きろ』
『——家族が、待ってる』
走れ。走れ。
生きて——帰るんだ。
森を抜けようとした、その時。
目の前に——敵兵が、いた。
至近距離。五メートルもない。
俺は、反射的に引き金を引いた。
考える暇は、なかった。
銃声。
敵兵が——倒れた。
しばらく、動けなかった。
息が、荒い。心臓が、痛いほど鳴っている。
俺は——ゆっくりと、近づいた。
敵兵は、仰向けに倒れていた。
若い。俺より、ずっと若い。
二十代——半ばくらいだろうか。
胸元で、何かが光っている。
ロケットペンダント。
開いている。
中に——写真。女の子の写真。
五歳くらいの、女の子。
笑顔で、こちらを見ている。
ペンダントの裏に、文字が刻まれていた。
幼い字。覚えたての字。
『パパ だいすき』
俺の手が、震えた。
敵兵が——目を開けた。
「……家に……」
掠れた声。
「……帰りたかった……」
その目が——俺を見た。
恐怖はなかった。
怒りもなかった。
ただ——。
悲しそうな、目。
俺と同じ。家族を想う、目。
「……娘に……」
敵兵の手が、ペンダントに伸びた。
「……会いたかった……」
その手が——力なく、落ちた。
俺は、その場に座り込んだ。動けなかった。
手が、震えている。
俺が——この男を、殺した。
娘のいる男を。
家に帰りたかった男を。
俺と——同じ男を。
「……すまない」
俺は、呟いた。
「……すまない……」
何度も。何度も。
敵兵の顔が——目に焼き付いて、離れなかった。
*
どうやって帰還したのか、覚えていない。
気づいたら——家の前に、立っていた。
夕暮れ。オレンジ色の光が、家を照らしている。
玄関のドアが、開いた。
「パパ!」
アンナが、飛び出してきた。
「パパ、おかえり!」
小さな体が、俺に向かって走ってくる。
笑顔。満面の、笑顔。
俺は——動けなかった。
アンナの顔が——別の顔と、重なる。
ペンダントの中の、女の子。
『パパ だいすき』
「パパ?」
アンナが、俺の前で立ち止まった。
「どうしたの?」
俺は——何も、言えなかった。
手を伸ばそうとした。
抱きしめようとした。
でも——この手は。
この手で——誰かの父親を、殺した。
誰かの「パパ」を——。
「……パパ?」
アンナの笑顔が、消えていく。不安そうな目。
何かを感じ取ったのか——。
小さな手が、俺の服の裾を掴んだ。
「パパ、どこか痛いの?」
その声が——胸を、刺す。
玄関の奥から、エリックが顔を出した。
「親父……?」
息子の目が、俺を見ている。
何か言いたそうな——。
でも、言葉が見つからないような——そんな目。
俺は——二人の顔を、見られなかった。
「……ごめん」
俺は、そう言った。
「……ごめんな……」
それだけ、言って——俺は、二人の横を通り過ぎた。
アンナの手が、俺の服から離れる。
その感触が——いつまでも、残っていた。
*
その夜から——悪夢が、始まった。
目を閉じれば、あの顔が見える。
敵兵の顔。
マルコの顔。
アンナの顔。
全部が、混ざり合って——俺を、責める。
「……っ!」
汗だくで、目が覚める。
隣で、妻が背中をさすってくれる。
「大丈夫……大丈夫よ……」
でも——大丈夫じゃない。
俺は——もう、元には戻れない。
*
あの日から、三年。
俺は——家族と、向き合えないままだった。
アンナの笑顔を見ると——あの女の子が浮かぶ。あの敵兵の最期の目が蘇る。
妻の優しさに——罪悪感だけが募る。
マルコの遺族には——お守りを、届けた。
ソフィアは、泣いていた。
リリィは、何も言わなかった。
ただ——お守りを、握りしめていた。
俺は——何も、言えなかった。
「生きて帰ってきてくれて、ありがとう」
ソフィアは、そう言った。
その言葉が——俺を、さらに苦しめた。
生きて帰ってきた。
でも——マルコは、置いてきた。
俺が——置いてきたんだ。
忘れられない。忘れたくても——消えない。
目を閉じるたびに——あの敵兵の顔が、浮かんでくる。
『パパ だいすき』
あの文字が——頭から、離れない。
俺は、人を殺した。
誰かの父親を——誰かの「パパ」を——。
その重さが——俺を、押し潰す。
家族と向き合えない。
娘の笑顔が——怖い。
息子の目が——痛い。
妻の優しさが——苦しい。
俺は——どうすれば、いいんだ。
マルコ——お前なら——。
どうしただろう。
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