第8話:幸せだった日々


トーマスの家は、街の北区にあった。


ミラから受け取った資料を、もう一度確認する。

戦場でのトラウマ。

親友を置き去りにした罪悪感。

家族と向き合えない苦しみ。


俺は——息を呑んだ。


戦場。

親友。

置き去り。


——知っている。

この苦しみを、俺は知っている。


ガロウ。

マーク。

俺も——同じだ。


資料を閉じた。

窓の外を見る。

朝日が、街を照らし始めていた。


「……行くか」




  ◇ ◇ ◇




【トーマスの記憶——三年前】


日曜日の夕方。

マルコの家から、笑い声が響いていた。


「トーマス、また焦がしたのか!」

マルコが、台所から叫ぶ。

「うるさい!お前が横から手を出すからだ!」

俺は、フライパンを振りながら言い返した。


焦げたソーセージ。

しかし——不思議と、不味くはない。

毎週日曜日の、恒例行事。

交互に家を行き来して、夕食を共にする。

マルコの家と、俺の家。

家族ぐるみの付き合いが、もう十年以上続いていた。


「パパ、また失敗してる!」

アンナが、笑いながら駆け寄ってきた。

九歳。俺の一人娘。

茶色い髪を二つに結んで、いつも元気に走り回っている。


「アンナ、お前もか」

「だって、おかしいんだもん!」

アンナは、腹を抱えて笑った。


隣で、リリィも笑っている。

マルコの娘。アンナと同い年。

おっとりした性格で、いつもアンナの後をついて回る。

「アンナちゃん、待って〜」が口癖だ。

二人は、まるで姉妹のように育ってきた。


「ねえ、アンナ。今日は何して遊ぶ?」

「うーん、かくれんぼ!」

「また?昨日もやったじゃん」

「いいの!今日は絶対見つけてみせるから!」


二人は、手を繋いで庭に飛び出していった。

その後ろ姿を、俺は目を細めて見つめた。


「いい光景だな」

マルコが、隣に立った。

「ああ」

俺は、頷いた。

「こんな日が、ずっと続けばいいのにな」


マルコは、黙って頷いた。

その横顔に、一瞬だけ——影が差した気がした。


テーブルに、料理が並んだ。

焦げたソーセージ。

ソフィアが作ったシチュー。

俺の妻・エレナが焼いたパン。


「いただきます!」

子供たちの声が、重なる。


エリックだけは、黙って食べ始めた。

十四歳。俺の息子。

最近は反抗期で、家ではほとんど口をきかない。

しかし、マルコが話しかけると——少しだけ、表情が和らぐ。


「エリック、部活はどうだ」

マルコが聞いた。

「……まあまあ」

「来月の大会、見に行くからな」

「別に来なくていいけど」


エリックは、そっぽを向いた。

しかし——耳が、少し赤くなっている。

俺は、それを見て——小さく笑った。


マルコが、ワインを注いだ。

「今日は、いい日だ」

「何かあったのか?」

「いや——」

マルコは、グラスを掲げた。

「こうして、みんなで食卓を囲める。それだけで、十分だ」


ソフィアが、微笑んだ。

「あなた、今日は随分感傷的ね」

「たまには、いいだろう」


俺たちは、グラスを合わせた。

カイン、と軽い音が響く。

子供たちの笑い声。

妻たちの穏やかな会話。

窓の外には、夕焼け。


——幸せだった。

本当に、幸せだった。


—— ——


食事の後。

俺とマルコは、庭に出た。

ベンチに並んで座り、星空を見上げる。


「なあ、トーマス」

「ん?」

「来週から、合同演習がある」

「ああ、聞いてる」


マルコは、少し間を置いてから言った。

「嫌な噂を聞いた」

「噂?」

「演習じゃなく、本当の作戦になるかもしれない、と」


俺は、マルコを見た。

彼の横顔は、真剣だった。


「……本当か」

「まだ確定じゃない。でも——」

マルコは、星空を見上げた。

「覚悟だけは、しておこうと思ってな」


沈黙。

虫の声が、響いている。


「マルコ」

「ん?」

「俺たちは——帰ってくる」

俺は、マルコを見た。

「何があっても、必ず帰ってくる」


マルコは、俺を見た。

そして——笑った。

「ああ。当たり前だ」


彼は、拳を作った。

俺の胸に——軽く、当てる。

「任せたぜ、相棒」


俺も、拳を作った。

マルコの胸に、当てる。

「ああ。また、この星空を見よう」


それが——俺たちの、約束だった。

言葉はいらない。

拳を胸に当てる。

それだけで、分かり合える。

背中を預け合ってきた、十年以上の歳月。

マルコは——俺の上官であり、親友であり、兄弟だった。


  *


夏。両家族で、キャンプに行った。

山の中の、小さなキャンプ場。

テントを張り、火を起こし、星空の下で眠る。

子供たちにとっては、大冒険だった。


「親父、見ろよ!釣れた!」

エリックが、竿を振り上げた。

普段は仏頂面の息子が、子供のような笑顔を見せている。


「おお、大物じゃないか!」

マルコが、駆け寄る。

「エリック、いい腕してるな!」

「へへ、まあな」


エリックは、照れくさそうに笑った。

俺は——その笑顔を、目に焼き付けた。

家では見せない、無邪気な顔。

こういう時だけ、まだ子供なんだと思い出す。


「パパ!私も釣りたい!」

アンナが、駆け寄ってきた。

「よし、パパが教えてやる」

「やったー!」


アンナの小さな手に、竿を持たせる。

糸を垂らし、待つ。


「パパ、いつ釣れるの?」

「魚が来るまで、じっと待つんだ」

「えー、待つの苦手……」

「我慢だ、我慢」


アンナは、膨れっ面をした。

しかし、俺の隣に座り、じっと水面を見つめた。


「……パパ」

「ん?」

「パパは、お仕事好き?」

「仕事?」

「うん。兵隊さんのお仕事」


俺は、少し考えた。

「好きか嫌いかで言えば——好きじゃないな」

「じゃあ、なんでやってるの?」

「大切な人を、守るためだ」

「大切な人?」

「ああ。お前や、エリックや、ママや——みんなを」


アンナは、しばらく黙っていた。

そして——俺の腕にしがみついた。

「パパ、ずっと一緒にいてね」

「……ああ」

俺は、アンナの頭を撫でた。

「約束する」


その時——竿が、大きく引っ張られた。

「わ!パパ、来た!来たよ!」

「よし、ゆっくり引け!」


アンナは、必死に竿を握った。

俺は、後ろから支える。

そして——小さな魚が、水面から飛び出した。


「釣れた!パパ、釣れたよ!」

「よくやった、アンナ!」


アンナは、飛び跳ねて喜んだ。

リリィも駆け寄ってきて、「すごい、すごい!」と手を叩いている。

その笑顔を、俺は——今でも、覚えている。


—— ——


夜。

焚き火を囲んで、みんなで歌を歌った。

子供たちは、はしゃぎ疲れて眠ってしまった。

テントの中で、寄り添って眠る四人の子供たち。

アンナとリリィは手を繋いだまま、エリックは少し離れて——それでも、妹たちを守るような位置で眠っている。


「平和だな」

マルコが、呟いた。

「ああ」

「この時間が、永遠に続けばいい」

「……ああ」


俺たちは、黙って焚き火を見つめた。

炎が、パチパチと音を立てている。

星空が、頭上に広がっている。


——この時、俺たちは知らなかった。

これが、最後の家族キャンプになることを。


  *


出征の朝。噂は、本当だった。


「トーマス」

エレナが、俺の軍服を整えながら言った。

「必ず、帰ってきてね」

「ああ」

俺は、妻を抱きしめた。

「必ず帰る。約束する」


エレナは、俺の胸に顔を埋めた。

震えている。泣いている。

しかし、声は出さなかった。


「……待ってる」

「ああ」


俺は、エレナの頬に手を当てた。

涙を、親指で拭う。

「すぐに、帰ってくるから」


階段を下りると、アンナが立っていた。

目が、真っ赤だ。


「パパ……」

「アンナ」

俺は、膝をついて、アンナと目線を合わせた。

「パパ、行かないで……」

「すぐに帰ってくる」

「嘘だよ……みんな、そう言って——」

アンナの声が、震えた。

「帰ってこないんだよ……」


俺は、アンナを抱きしめた。

小さな体が、震えている。


「アンナ。パパは、必ず帰ってくる」

「……本当?」

「ああ。約束する」

俺は、小指を差し出した。

「指切りだ」


アンナは、涙を拭いながら、小指を絡めた。

「指切りげんまん、嘘ついたら……」

「針千本、飲ます」

「指切った」


アンナは、少しだけ笑った。

「パパ、約束だよ」

「ああ。約束だ」


俺は、アンナの頭を撫でた。

——この小さな手を、もう一度握るために。

必ず、帰ってくる。


玄関に向かうと、エリックが立っていた。

壁にもたれ、腕を組んでいる。

俺と目が合うと、すぐに逸らした。


「エリック」

「……」

「留守の間、家を頼む」

「……分かってる」


エリックは、ぶっきらぼうに答えた。

しかし、その声は——わずかに、震えていた。


「エリック」

「何だよ」

「お前は——俺の自慢の息子だ」


エリックは、顔を上げた。

目が、潤んでいる。

しかし、すぐに顔を背けた。


「……さっさと行けよ、親父」

「ああ」


俺は、玄関を出た。

振り返ると——エリックが、小さく手を振っていた。

すぐに引っ込めたが、俺は見ていた。


「行ってくる」

俺は、そう言って——歩き出した。




集合場所に着くと、マルコがいた。

軍服姿。

背筋を伸ばし、部下たちに指示を出している。

小隊長としての顔。

俺の知る「親友」とは、また違う顔だ。


「トーマス、来たか」

「ああ」

俺は、マルコの隣に立った。

「家族は?」

「見送ってもらった」

「そうか」


マルコは、懐から小さな袋を取り出した。

「これ——ソフィアから」

「何だ?」

「お守りだ。俺とお前の分」


袋の中には、二つの小さな石が入っていた。

青い石と、赤い石。

紐で結ばれている。


「青がお前。赤が俺だ」

「……ソフィアらしいな」

「ああ」


マルコは、青い石を俺に渡した。

「『二人とも、必ず帰ってきて』——だそうだ」

「……」

俺は、青い石を握りしめた。


「マルコ」

「ん?」

「帰ってきたら——また、みんなでキャンプに行こう」

「ああ」

マルコは、笑った。

「約束だ」


彼は、拳を作った。

俺の胸に、当てる。

俺も、拳を作った。

マルコの胸に、当てる。


「行くぞ、副長」

「了解、小隊長」


俺たちは、部隊と共に——出発した。


  *


前線基地。

作戦前夜。


テントの中で、俺たちは最終確認をしていた。

明日の作戦は、敵の補給線を断つこと。

危険度は——高い。


「全員、装備の確認を怠るな」

マルコが、部下たちに指示を出す。

「明日は、激戦になる。しかし——俺たちは、必ず帰る」


部下たちが、頷く。

若い兵士たちの目には、不安と——決意が宿っていた。


夜。

俺とマルコは、テントの外に出た。

星空が、広がっている。


「なあ、トーマス」

「ん?」

「俺たちは——何のために戦ってるんだろうな」


俺は、マルコを見た。

彼の横顔は、いつになく真剣だった。


「何のためって——」

「国のためか?正義のためか?」

マルコは、首を振った。

「俺には——分からなくなってきた」


沈黙。

風が、草原を撫でていく。


「俺は——」

俺は、懐の青い石を握りしめた。

「家族のために、戦ってる」

「家族……」

「ああ。エレナや、アンナや、エリックのために。あいつらが笑って暮らせる世界を守るために——俺は、ここにいる」


マルコは、俺を見た。

そして——笑った。

「そうだな。俺も——同じだ」


彼は、懐から赤い石を取り出した。

「ソフィアと、リリィのために。あいつらの元に——必ず、帰る」


俺たちは、並んで星空を見上げた。

同じ星を——家族も、見ているだろうか。


「トーマス」

「ん?」

「明日——何があっても、お前は生き残れ」

「……何を言ってる」

「俺は小隊長だ。部下を守るのが、俺の仕事だ」

「馬鹿言うな。俺たちは——」


俺は、マルコの胸に拳を当てた。


「二人で、帰るんだ」


マルコは、俺を見つめた。

そして——俺の胸に、拳を当てた。


「……ああ。二人で、帰ろう」


—— ——


テントに戻る前。

マルコが、振り返った。


「なあ、トーマス」

「ん?」

「帰ったら——エリックに、釣りを教えてやれ」

「釣り?」

「ああ。あいつ、才能あるぞ。俺が見込んでやる」


俺は、笑った。

「お前に言われなくても、そのつもりだ」

「そうか」


マルコも、笑った。

「じゃあ——明日、頼むぞ」

「ああ。お前もな」


俺たちは、それぞれのテントに戻った。

懐の青い石が——温かかった。


  *


夜明け前。

作戦開始の時刻が、迫っていた。


俺は、装備を確認しながら——家族のことを考えていた。

エレナの笑顔。

アンナの小指。

エリックの、照れくさそうな手。


「……必ず、帰る」


俺は、青い石を握りしめた。

外から、マルコの声が聞こえた。


「全員、集合!」


俺は、テントを出た。

東の空が、白み始めている。

新しい一日が——始まろうとしていた。

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