第7話:忘却術師になった日
夜。
俺は、自室で資料を読んでいた。
トーマス・ヴェルナー。四十二歳。退役軍人。 戦場でのトラウマに苦しんでいる。 親友を置き去りにした罪悪感。 家族と向き合えない苦しみ。
「……」
資料を、閉じた。 窓の外を見る。 月が、出ていた。
戦場。 親友。 置き去り。
——俺も、同じだ。
左手首の、青いリボンに触れた。 温かい。 いつも——温かい。
目を閉じると——あの夜が、蘇ってくる。
*
——三年前。
鉄製の簡易ベッドが並ぶ休憩室。壁に掛けられた時計は、22時を過ぎていた。
明日の作戦を控え、誰も眠れずにいた。 俺も、その一人だった。
簡易キッチンでコーヒーを淹れていると、背後から声がかかる。
「また、お前が淹れるのか」
振り返ると、ガロウが腕を組んで立っていた。
スキンヘッドに筋肉質。 無骨な風貌だが、表情は柔らかい。
「文句があるなら、自分で淹れろ」
俺は苦笑しながら、二つ目のカップを取り出した。 ガロウは黙って隣に座る。 二人で、黙々とコーヒーを啜った。
「……お前のコーヒーは不味いな」
ガロウが呟く。
「だから自分で淹れろと言っただろう」
「いや」
ガロウは続けた。
「不味いが……なぜか、落ち着く」
俺は何も言わず、窓の外を見た。 星空が、広がっている。
「……明日、終わったら」
ガロウが口を開いた。
「お前の故郷の話を聞かせてくれ」
「故郷?」
俺は首を傾げる。
「特に語るようなこともないが……」
「いや、お前がたまに見せる、あの穏やかな表情」
ガロウは、星空を見上げた。
「何か、大切なものを思い出してるような顔だ」
俺は、自分の左手首を見た。
青いリボンが、街灯の光を受けて微かに光っている。
いつから、これを身につけているのか、思い出せない。でも——外せなかった。
「……そうだな。明日が終わったら、話すよ」
「約束だぞ」
ガロウは、拳を差し出した。
俺は笑って、その拳に自分の拳を合わせる。
「ああ、約束だ」
*
部屋の奥で、若い兵士が話していた。
「明日で、この任務も最後だ」
一人が言う。
「故郷に帰ったら、何する?」
「俺は……妹に会いに行く」
もう一人——マークが答えた。
まだ二十歳。部隊で一番若い。
「三年も会ってないからな。もう、すっかり大きくなってるだろうな」
マークは、懐から小さな写真を取り出した。
妹と一緒に写った、古い写真。
「レオン先輩、見てくださいよ」
マークが、俺に写真を見せる。
「可愛いでしょう、俺の妹」
写真の中で、小さな女の子が笑っていた。
マークと同じ、茶色い髪。
「ああ、可愛いな」
俺は、微笑んだ。
「早く会いに行ってやれ」
「はい!」
マークは、嬉しそうに笑った。
「絶対、帰りますから。妹に、お土産買って帰るんです」
*
「レオン」
ガロウが、立ち上がった。
「明日、お前を必ず守る」
「何を言ってるんだ」
俺も立ち上がる。
「俺がお前を守る、だろう」
「両方だ」
ガロウは、俺の肩を叩いた。
「互いに守り合う。それが仲間ってもんだ」
「……ああ」
俺たちは、互いに頷き合った。
明日が、地獄の始まりになるとは——。まだ、知らなかった。
*
夜明けと共に、作戦は開始された。
俺たち「ガロウ隊」は、敵の防衛線を突破する任務を負っていた。
当初、作戦は順調だった。
「第一防衛線、突破!」
無線から報告が入る。
俺は前進しながら、周囲を確認した。 ガロウは右翼。マークは左翼。みんな無事だ。
しかし——
「待て!何か……」
ガロウの声。
次の瞬間。地面が、爆発した。
視界が、爆煙で覆われる。
耳を劈く轟音。 鉄錆と硝煙の匂い。
「罠だ!退避!退避!」
誰かが叫ぶ。
俺は身を伏せながら、周囲を確認しようとした。
「右翼、壊滅!」
「後方も!囲まれた!」
無線から、絶望の報告が続く。
爆煙が晴れると——。
地獄が、広がっていた。
倒れた仲間たち。
動かない体。
昨夜、笑いながら話していた兵士が、瓦礫の下敷きになっている。
「いや……」
俺は、必死に前進した。
仲間を、一人でも多く——。
*
「助けて……!助けてください!」
若い声。 マークだ。前方で、マークが倒れていた。
足を負傷している。動けない。
そして、その背後から、敵兵が、銃口をマークに向けていた。
「マーク!」
俺は、走った。間に合わない。
それでも、走った。
敵兵の指が、引き金にかかる。
俺は——マークの前に飛び込んだ。
銃声。 弾丸が、俺の右肩を貫いた。
「ぐっ……!」
痛みが、全身を駆け巡る。
しかし、俺は倒れながらも渾身の力で銃を構え、敵兵に反撃した。
敵兵が、倒れる。
「先輩!先輩!」
マークの声。 俺は、地面に倒れた。
視界が、霞む。
「マーク……逃げろ……」
「嫌です!先輩を置いていけません!」
マークは、俺を引きずろうとした。
しかし、彼自身も負傷している。動けない。
その時——。
轟音。 爆発。
マークの体が、吹き飛んだ。
「マーク!」
俺は、手を伸ばす。届かない。
マークは、瓦礫の中に叩きつけられた。
血が、地面に広がっていく。
「マーク……!」
俺は、這いながらマークに近づいた。
マークは、まだ息があった。
しかし——明らかに、致命傷だ。
「先輩……妹に……会いたかった、な……」
マークの目から、涙がこぼれた。
「約束、したのに……お土産、買って帰るって……」
「喋るな!今、助けを——」
「先輩……」
マークの手が、俺の腕を掴んだ。 弱々しい、力。
「俺の分まで……生きて……」
「マーク……!」
「妹に……伝えて……」
「兄ちゃんは……最後まで……」
マークの手が——力なく、落ちた。
写真が、地面に落ちる。
妹と一緒に写った、笑顔の写真。
血に、染まっていく。
「マーク……!」
俺は、叫んだ。
しかし、マークは——もう、答えなかった。
*
右翼の方向から、大きな爆発音が聞こえた。
ガロウがいた、方向。
一瞬——空が、昼のように白く光った。
「ガロウ……!」
叫ぼうとしたが、声が出ない。
体が、動かない。
右肩の傷から、血が流れ続けている。
視界が、暗くなっていく。
——誰も守れなかった…。
最後に見えたのは、自分の左手首の、青いリボンだった。血に染まった、青いリボン。
そして——俺の意識は、途絶えた。
*
白い天井。 消毒液の匂い。
俺は、医療テントのベッドで目を覚ました。
体中に、包帯。 右肩が、特に痛む。
「目が覚めましたか」
看護師が、近づいてきた。
「ここは……」
「後方の医療施設です。あなたは重傷で運ばれてきました」
俺は、周囲を見渡した。
他のベッドには、負傷した兵士たちが横たわっている。
しかし——その数は、少ない。
あまりにも、少ない。
「他の……仲間は」
看護師は、目を伏せた。
「生存者は……五名です」
五名。 俺たちの隊は、三十名以上いたはずだ。
「そんな……」
「あなたは、本当に幸運でした」
幸運。その言葉が、胸に突き刺さる。
ベッドの脇に、小さな袋が置かれていた。
「あなたの近くにあったものです」
看護師は、そう言って去っていった。
俺は、袋を開けた。 中身は——。
認識タグ。数枚。汚れた手帳。
そして——血に染まった、小さな写真。
マークの、妹との写真。
「……マーク」
俺の手が、震えた。
「なぜ……」
涙が、こぼれた。
「なぜ、俺だけが……」
そして、ガロウ。
彼の名前は、生存者リストにない。
右翼で、最後に空が白く光った。あの時——。
「ガロウも……」
俺は、拳を握りしめた。あの約束。
故郷の話をする、という約束。
もう——果たせない。
*
夜になった。
一人になった俺は、医療テントの外に出た。
夜空には、星が見えた。美しい、星空。
「……」
生きていることそのものが、罪のように感じられた。
マークは、妹に会いたがっていた。
ガロウとは、約束をしていた。
みんなには、生きる理由があった。
でも、俺は——。
「俺には……何があるんだ」
左手首を見る。
血が洗い流されて、青いリボンがまた見える。
いつから、なぜ身につけているのか。思い出せない。でも——これだけは、外せなかった。
「俺は……何のために生き残ったんだ」
その問いに、答えは出ない。
地面に座り込む。涙が、止まらなかった。
*
「自殺は、勧められないな」
背後から、声。
振り返ると、白髪混じりの男が立っていた。軍服。 鋭い目。階級章は、大佐。
いつからそこにいたのか——気配すら感じなかった。
「……あなたは」
「カイだ。君を戦場で見つけた者だ」
カイは、俺の隣に座った。
「生き残ったことを、責めているのか」
「……」
「それは、愚かなことだ」
カイの声は、冷静だった。
「生き残ったということは、まだ君には、果たすべき何かがあるということだ」
「果たすべき……こと?」
俺は、顔を上げた。
「俺に、一体何が……」
「それは、これから見つければいい」
カイは、星空を見上げた。
「この戦争は、もうすぐ終わる」
「……終わる?」
「ああ。長い戦いだったが——終結は近い」
カイは、静かに続けた。
「しかし、戦争が終わっても——人々の心の傷は、消えない」
「平和な時代が訪れても、戦場の記憶に苦しみ続ける者がいる」
「日常に戻れず、悪夢に怯え、生きることすら辛くなる者が」
俺は、自分の胸に手を当てた。
今、まさに——俺がそうだ。
「レオン。君に提案がある」
「提案……?」
「忘却術、という技術を知っているか」
聞いたことのない言葉だった。
「記憶を……扱う技術だ」
カイは、説明を始めた。
「人は、辛い記憶に縛られて生きることがある。忘却術は、その記憶を糸のように視覚化し、切り離すことができる。トラウマ、後悔、喪失の痛み。それらが、人を蝕み、未来を奪う。忘却術は、そうした記憶の苦しみを取り除き、人々を解放する。平和になった世界で、トラウマに囚われた人々を——」
カイは、俺を見た。
「それが——忘却術師の役割だ」
「記憶を……消す、ということですか」
「正確には、記憶の『苦しみ』を切り離す」
俺は、驚いた。
「そんなことが……できるのか」
「できる。私が開発した」
カイは、俺を見た。
「もちろん、代償はある」
「代償……?」
「術を使うたびに、術師自身の存在が——薄れていく」
「……どういう意味ですか」
「文字通りだ」
カイは、続けた。
「記憶に干渉する行為は、世界の認識構造に影響を与える。術師は、使えば使うほど、他者から認識されにくくなる。最終的には——誰からも認識されなくなる」
「それは……」
「消えるということだ」
消える。俺は、その言葉を反芻した。
「忘却術師になれ、レオン。平和になった世界で、苦しむ人々の記憶を——彼らを解放しろ。それが——お前の果たすべき役割だ」
俺は、自分の手を見た。
マークを庇った手。それでも、守れなかった手。
「……」
顔を上げた。
「……やります」
「俺に、忘却術を教えてください」
カイは、わずかに微笑んだ。
「いい決断だ、レオン」
そして——彼は付け加えた。
「これから、お前は多くの人を救うだろう。だが……」
カイの表情が、一瞬だけ曇った。
「お前自身が救われるかどうかは……わからない」
その言葉の意味を、俺はまだ理解していなかった。
「それでも、いいんです」
俺は、答えた。
「あの時……守れなかった」
俺は、呟いた。
「だから——今度こそ、救いたい」
カイは、複雑な表情で俺を見つめた。
「……そうか」
そして、小さく呟いた。
「君は、やはり——」
その言葉は、風に消えた。
*
——そして、現在。
俺は、窓の外を見ていた。月が、静かに輝いている。あの夜と、同じ月。
左手首の、青いリボンに触れた。
温かい。いつも——温かい。
「マーク……ガロウ……」
お前たちの分まで、俺は——。
机の上の資料を見た。
トーマス・ヴェルナー。
戦場でのトラウマ。親友を置き去りにした罪悪感。 家族と向き合えない苦しみ。
俺には——分かる。その苦しみが。
同じ地獄を見た者にしか、分からない痛みがある。
だから——俺が行く。
「……」
俺は、立ち上がった。窓に映った自分の顔を見た。 まだ——消えていない。まだ——ここにいる。
明日——トーマスの元へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます