第6話:色を失った絵描き
数日後——新しい依頼が入った。
その家は、街の東区にあった。
古いレンガ造りの一軒家。
壁には蔦が絡まり、窓辺には枯れかけた花が置かれている。
かつては——美しい家だったのだろう。
今は、どこか寂しげだった。
「ここですね」
ミラが、静かに言った。
「ああ」
俺は、扉の前に立った。
ノックする。
しばらくして——扉が開いた。
*
「忘却術師の方ですね」
女性が、俺たちを見た。
四十代半ば。
疲れた目。
でも、どこか優しい雰囲気。
「妻のヘレナです。主人が……お世話になります」
「レオンです。こちらはミラ」
「どうぞ、中へ」
「娘さんは……」
「リーゼは学校です。帰ってくる前に……お願いしたくて」
ヘレナは、少し目を伏せた。
「あの子の前では……主人も気を張ってしまうので」
*
家の中に入ると——絵があった。
壁一面に風景画、人物画、静物画。
どれも——美しかった。
柔らかな色彩。
温かな光。
見ているだけで、心が穏やかになる。
「主人が描いたものです」
ヘレナが、絵を見つめた。
「昔は……街で一番の画家だと言われていました」
その声には——誇りと、悲しみが混じっていた。
—— ——
奥の部屋に案内された。
椅子に——男が座っていた。
痩せた体。
深い皺。
疲れた目。
そして——右腕の袖が、空っぽだった。
「マルセル・ヴァンホーフェンだ」
男は、俺を見た。
「あんたが……忘却術師か」
「はい。レオンといいます。」
俺は、向かいの椅子に座った。
ミラは、少し離れた場所に立っている。
「……話は聞いてるな」
マルセルは、空っぽの袖を見た。
「三年前だ。戦争で……腕を失った」
「……」
「砲撃だった。避難中に……瓦礫に埋まった」
マルセルの声が、かすかに震えた。
「気づいた時には……もう、なかった」
沈黙。
ヘレナが、夫の肩にそっと手を置いた。
マルセルは、続けた。
「腕がなくても……絵は描ける。左手があるからな」
「そう思った」
「でも——」
マルセルは、部屋の隅を見た。
そこには——画材があった。
イーゼル、キャンバス、絵筆、絵の具。
全てに、埃が積もっている。
「絵筆を握ると……あの日が蘇るんだ」
マルセルの手が、震えた。
「爆発の音。血の匂い。千切れた腕の——」
言葉が、途切れた。
「描こうとするたびに……体が動かなくなる」
「手が震えて、息ができなくなる」
「三年間……一度も、描けていない」
俺は、壁の絵を見た。
風景画の中に——家族の絵があった。
若いマルセル。
ヘレナ。
そして——小さな女の子。
「娘さんですか」
「ああ……リーゼだ。今は十二歳になった」
マルセルの目が、少しだけ柔らかくなった。
「あの絵は……リーゼが三歳の時に描いた」
「娘の成長を……全部、絵に残したかった」
「七歳の誕生日も、十歳の誕生日も……描きたかったんだ」
マルセルは、俯いた。
「でも、描けなかった」
「絵筆を握るたびに……あの日が」
俺は——少し、考えた。
そして、口を開いた。
「マルセルさん」
「ん?」
「切り離せるのは……記憶の一部だけです」
「右腕を失った事実は、消えません」
「でも——」
俺は、マルセルを真っ直ぐ見た。
「絵筆を握る時に蘇る……生々しい記憶を、切り離すことができます」
マルセルの目が、わずかに揺れた。
「それで……また、描けるようになるのか」
「分かりません」
正直に、答えた。
「でも……描こうとするたびに、苦しむことは——なくなります」
長い沈黙。
マルセルは、壁の絵を見た。
娘の絵を。
「……頼む」
低い声。
「俺は……また、描きたい」
「下手でもいい。左手でもいい」
「ただ——あの恐怖なしに、絵筆を握りたいんだ」
「リーゼの……十三歳の誕生日を、描きたい」
俺は、頷いた。
「分かりました」
—— ——
ミラが、準備を始めた。
俺は、記憶増幅器を手に取った。
マルセルの額に、手を翳す。
「目を閉じてください」
「ああ……」
意識を——集中させる。
視界が、暗くなっていく。
そして——。
マルセルの記憶の世界に、入った。
*
最初に見えたのは——色彩だった。
無数の糸が、空間を満たしている。
しかし——普通の記憶とは、違った。
糸の一本一本が——絵の具のように、鮮やかに色づいている。
青、緑、黄色、オレンジ、紫。
画家の記憶は——こんなにも、美しいものなのか。
俺は、その中を歩いた。
金色に輝く糸に、触れた。
映像が、流れ込んでくる。
—— ——
若いマルセルが、キャンバスに向かっている。
筆を動かす。
色が重なり、形になっていく。
その顔には——喜びが溢れていた。
—— ——
別の糸に、触れる。
ヘレナの笑顔。
「素敵な絵ね」
マルセルが、照れくさそうに笑う。
「まだまだだよ」
—— ——
また別の糸。
小さなリーゼが、マルセルの膝に乗っている。
「パパ、絵、描いて!」
「何を描こうか?」
「リーゼ!」
マルセルが笑う。
「よし、世界一可愛いリーゼを描くぞ」
—— ——
温かい——。
この記憶は、温かい。
絵を描くことへの愛。
家族への愛。
それが、どの糸にも満ちていた。
しかし——奥に、異質なものがあった。
黒い糸の——塊。
他の糸を、侵食している。
近づいてみると——分かった。
黒い絵の具が滲んだように、周囲の糸を染めている。
まるで——美しい絵に、墨汁をこぼしたように。
金色の糸に絡みつき、色を奪っている。
俺は、その黒く染まった糸に触れた。
—— ——
爆発、轟音、瓦礫、血、マルセルの悲鳴。
右腕が——。
俺は、息を呑んだ。
これが——あの日か。
黒い糸は、太い線となって、他の記憶に伸びている。
「絵筆を握る」記憶。
「キャンバスに向かう」記憶。
「絵の具の匂いを嗅ぐ」記憶。
全てに——黒が滲んでいる。
絵を描こうとするたび、この黒が蘇る。
だから——描けない。
俺は、慎重に作業を始めた。
黒く染まった糸に——手を伸ばす。
金色の糸を傷つけないように。
絵を描く喜びの記憶は、残す。
家族への愛も、残す。
右腕を失った事実も——消さない。
ただ——生々しい記憶だけを。
血の匂い、恐怖、千切れた腕の映像。
絵筆を握る時に蘇るフラッシュバックの連想回路。
それだけを——切り離していく。
一本ずつ、丁寧に。
黒い糸が——少しずつ、離れていく。
周囲の糸が——本来の色を、取り戻していく。
最後の一筋を切り離した時——。
空間が、わずかに明るくなった。
色彩が——戻った。
*
意識が、戻った。
俺は、目を開けた。
マルセルも——目を開けていた。
沈黙。
マルセルは、ゆっくりと自分の左手を見た。
「……」
立ち上がる。
ふらつきながら、部屋の隅へ歩いていく。
埃をかぶった画材の前で、立ち止まった。
絵筆が——置いてある。
マルセルは、左手を伸ばした。
絵筆を——握った。
…… 震えて……いない。
マルセルは、絵筆を見つめた。
長い、長い沈黙。
「……握れる」
声が、震えている。
でも、それは——恐怖の震えではなかった。
「絵筆を……握れる……」
マルセルの目から、涙が溢れた。
「怖くない……」
ヘレナが、口元を押さえた。
その目にも、涙。
マルセルは、キャンバスを引っ張り出した。
イーゼルに立てかける。
左手で、絵の具を出す。
ぎこちない動き。
でも——。
筆を、キャンバスに走らせた。
線は、歪んでいる。
色は、はみ出している。
三年間——一度も描いていなかった。
しかも——利き手じゃない、左手なら尚更だ。
マルセルは、笑っていた。
泣きながら、笑っていた。
「下手だ……」
「左手じゃ……三年前のようには描けない……」
でも——。
「描ける」
マルセルは、また筆を動かした。
「俺は……また、描ける」
ヘレナが、夫の傍に歩み寄った。
そっと、肩を抱く。
「おかえりなさい……」
小さな声。
「あなた……おかえりなさい……」
マルセルは、筆を止めた。
妻を見る。
「……ただいま」
二人とも、泣いていた。
俺は、静かにその場を離れようとした。
「待ってくれ」
マルセルの声に、足を止めた。
振り返る。
マルセルは、涙を拭いながら、俺を見た。
「ありがとう」
「俺は……また、描ける」
「リーゼの……十三歳の誕生日を、描ける」
「本当に……ありがとう」
俺は——少しだけ、頷いた。
「絵、楽しみにしてます」
*
家を出た。
夕暮れの街を、歩く。
ミラが、隣にいる。
「……マルセルさん、笑っていましたね」
「ああ」
「でも、絵は……とても下手でした」
「……そうだな」
俺は、少し笑った。
「でも、あの人は描きたかったんだ」
「上手く描きたかったんじゃない」
「ただ……描きたかった」
「娘の成長を、絵に残したかった」
「それができるようになった」
ミラは、俺を見た。
「……はい」
「それで……十分なんですね」
「ああ」
俺は、自分の手を見た。
指先が——また少し、揺らいでいる。
代償は、進んでいる。
でも——。
マルセルの笑顔を思い出す。
泣きながら、歪んだ線を描いていた姿。
ヘレナの「おかえりなさい」。
悪くない。
これは——悪くない仕事だ。
「レオン伍長」
ミラの声で、我に返った。
「次の依頼が、入りました」
「どんな依頼だ」
「退役軍人の方です。トーマスさんという……」
ミラは、少し間を置いた。
「戦場でのトラウマに、苦しんでいるそうです」
俺は、立ち止まった。
戦場のトラウマ。
それは——。
俺も、知っている苦しみだ。
仲間を失った夜。
血と、煙と、叫び声。
ガロウの顔が——ぼやけている、あの夢。
「……分かった」
俺は、歩き出した。
「行こう」
夕日が、街を染めている。
オレンジ色の光が、長い影を作っている。
俺は——歩き続ける。
次の依頼へ。
次の、依頼人の元へ。
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