第2話:届かなかった言葉
ドアが、開いた。
「……忘却術師の、方ですか」
若い女性。
柔らかな茶色の髪。
優しそうな顔立ち。
しかし——その目の下には、深い隈があった。
頬もこけている。
眠れていない。食事も取れていない。
一目で分かった。
胸元に、小さなブローチが付いていた。
不格好な、花の形。
手作りのような、素朴なブローチ。
彼女は、それを大切そうに——握りしめていた。
「はい。レオンです。こちらはミラ」
「……エリカ・ハートフィールドです」
「どうぞ、中へ」
—— ——
小さなリビングに通された。
棚には、子供たちの絵が飾られている。
"エリカせんせい だいすき"
そう書かれた絵があった。
カラフルな、クレヨンの絵。
エリカは、その絵を見て——目を逸らした。
辛そうに、顔を歪めて。
ソファに座る。
俺とミラは、向かいに座った。
「……助けて、ください」
エリカの声は、震えていた。
「もう……限界なんです」
「少し……聞いてもらえますか」
エリカは、俯いたまま言った。
「……はい」
俺は、頷いた。
「私……保育士なんです」
「子供たちが……大好きで……」
エリカの声は、かすれていた。
「でも……今は……行けなくなりました」
「『ありがとう』という言葉を……聞くのが……怖いんです」
「ありがとう……?」
俺は、静かに聞いた。
「先週……保育園で……子供がおやつを受け取って……」
「『ありがとう、エリカせんせい!』って……笑顔で言ってくれて……」
エリカの目が、虚ろになった。
「その瞬間……あの日のことが……蘇ってきて……」
「気がついたら……床に倒れていました」
俺は、黙って聞いていた。
「ありがとう」という言葉。
人が最も多く口にする、感謝の言葉。
それが——彼女にとっては、地獄への扉になっている。
「カイルは……幼馴染でした」
エリカは、胸元のブローチに触れた。
「小さい頃、迷子になって泣いていた男の子を……私が助けたんです」
「それから……ずっと一緒でした」
「『今度は俺がお前を守る』って……いつも言ってくれて……」
——俺も、知っている。
そういう奴を。
マークが——同じことを言っていた。
「お前は俺が守る」と。
あいつは——本当に、そうした。
俺を庇って——死んだ。
「このブローチも……カイルがくれたんです」
エリカは、涙を流しながら言った。
「子供の頃……不格好だけど、自分で作ったって……」
「私……ずっと、大切にしてきました」
「あの日の朝……カイルが言ったんです」
エリカの声が、震えた。
「『今日の夜、話したいことがある』って……」
「耳まで真っ赤にして……」
俺は、胸が締め付けられるのを感じた。
告白しようとしていたのだろう。
ずっと一緒にいた幼馴染に——想いを伝えようとしていた。
「私……分かってたんです」
「だから……『待ってる』って言いました」
涙が、止まらなくなった。
「でも……カイルは……来なかった……」
——来れなかった。
その夜を、迎えられなかった。
俺は——マークの最後を思い出した。
あいつも——何か、言おうとしていた。
でも——俺は、それを聞けなかった。
「あの日の昼……爆撃がありました」
エリカは、震える声で続けた。
「私は……子供たちを避難させていて……」
「建物が……崩れてきて……」
「カイルが……私を、突き飛ばして……」
エリカの全身が、震えていた。
「瓦礫の下で……カイルは……血だらけで……」
「でも……笑ってたんです……」
——マークも、笑っていた。
俺を庇って倒れた時。
血だらけで——それでも、笑っていた。
「そして……最後に……」
声が、掠れた。
「『ありがとう、エリカ』って……」
「『俺……お前のこと——』って……」
「そこで……途切れて……」
俺は——息を呑んだ。
最後の言葉が、途切れる。
その苦しみを——俺は、知っている。
マークも——何かを言っていた。
「妹に……」
その先を——俺は、聞けなかった。
何を伝えてほしかったのか——今でも、分からない。
「カイルは……最後に、何を言おうとしたんだろう……」
エリカは、崩れ落ちるように泣いた。
「分かってるのに……聞きたかった……」
「カイルの声で……聞きたかった……」
——分かる。
その苦しみが、分かる。
答えは分かっているのに——本人の声で聞きたかった。
その想いを、確かめたかった。
でも——もう、聞けない。
永遠に、聞けない。
俺は、静かにエリカの話を聞いていた。
胸が、締め付けられる。
俺も——同じだ。
大切な人を、目の前で失った。
庇われて——生き残った。
最後の言葉が——ずっと、胸に刺さっている。
だから——分かる。
エリカの苦しみが。
言葉にできない、この重さが。
「カイルのことは……忘れたくないんです」
エリカは、涙を流しながら言った。
「彼との思い出は……消したくない」
「このブローチも……ずっと、大切にしたい……」
「全部……大切な、思い出だから……」
エリカは、俺を見た。
縋るような、目。
「でも……この苦しみだけは……」
「『ありがとう』を聞くたびに……壊れていく、この苦しみだけは……」
「お願いします……」
「消して……ください……」
「私……また、子供たちに会いたいんです……」
「お願いします……」
「助けて……ください……」
俺は、立ち上がった。
エリカの前に、膝をついた。
「分かりました」
静かに、言った。
「あなたの痛みを——取り除きます」
「カイルとの思い出は、残します」
「彼があなたを大切に思っていた気持ちも」
「あなたが彼を愛していた気持ちも」
「全て、残します」
エリカの目から、涙が溢れた。
「ただ——あの瞬間の苦しみだけを」
「俺が、引き受けます」
俺は、記憶増幅器を取り出した。
「目を閉じてください」
エリカは、頷いた。
ブローチを握りしめたまま——ゆっくりと、目を閉じる。
俺は、彼女の額に手を翳した。
意識を——集中させる。
視界が、暗くなっていく。
そして——。
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