第1話:ありがとうが言えなくなった日


【エリカ視点】


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——忘却術師が、私の部屋を訪れる前日のこと。


—— ——



私は、子供たちが大好きだ。


「エリカせんせい!」

「せんせい、見て見て!」

「せんせい、だっこ!」


小さな手が、私の服を引っ張る。

キラキラした瞳が、私を見上げる。

この子たちの笑顔を見ると、胸が温かくなる。


保育士になって、本当によかった。

毎日そう思う。


  *


「エリカ先生、今日もお疲れ様」

園長先生が、声をかけてくれた。

「いえ、子供たちと過ごす時間は楽しいですから」

「本当に、エリカ先生は子供たちに好かれるわね」

「ありがとうございます」

私は、笑顔で答えた。


窓の外には、夕焼け空が広がっている。

今日も、いい一日だった。


  *


保育園を出ると、見慣れた姿が門の前に立っていた。

茶色い髪。

少し照れくさそうな笑顔。

軍服姿が、夕日に照らされている。


「カイル」

「よう、エリカ。お疲れ」

「迎えに来てくれたの?」

「たまたま近くを通っただけだ」

カイルは、そっぽを向いた。

耳が、少し赤い。


「……嘘つき」

「うるせえな」


私は、笑った。

カイルは、昔からこうだ。

不器用で、素直じゃなくて。

でも、いつも私のことを気にかけてくれる。


「一緒に帰ろう」

「……ああ」


私たちは、並んで歩き始めた。


  *


「今日はどうだった?」

「うん、楽しかったよ。ユウキくんがね、初めて一人でトイレに行けたの」

「へえ」

「すごいでしょ?昨日まで怖がってたのに」

「お前が付き添ってたんだろ」

「うん。『大丈夫だよ、一緒にいるからね』って言ったら、勇気出してくれて」


カイルが、ふっと笑った。


「何?」

「いや……お前らしいなって」

「どういう意味?」

「昔から変わんねえなって思っただけだ」

カイルは、空を見上げた。


「お前は昔から、そうやって誰かの手を握ってた」

「……」

「俺も、そうだったからな」


私は、カイルの横顔を見た。

夕日に照らされた、その顔。

私たちの、最初の出会いを思い出す。


  *


あれは、私たちがまだ小さかった頃。

近所の広場で遊んでいたら、男の子が泣いていた。

一人で、しゃがみこんで。

周りの大人たちは、忙しそうに通り過ぎていく。

私は、その子のところに行った。


「どうしたの?」


男の子は、顔を上げた。

涙でぐしゃぐしゃの顔。


「……おかあさんが、いない……」

「迷子になっちゃったの?」


男の子は、こくりと頷いた。

また、涙が溢れる。


私も、怖かった。

どうしたらいいか、分からなかった。

でも——この子を、一人にはできなかった。

私は、その子の隣にしゃがんだ。

そして、小さな手を握った。


「大丈夫だよ」

「一緒にいるからね」


男の子は、私を見た。

涙で濡れた目。

でも、少しだけ——安心したような顔。


「おねえちゃん……」

「お母さん、きっと来るよ。それまで一緒にいよう」


私は、ずっとその子の手を握っていた。

しばらくして、お母さんが走ってきた。


「カイル!」

「おかあさん!」


男の子は、お母さんに飛びついた。

泣きながら、抱きついた。

お母さんも、泣いていた。


「ごめんね、ごめんね……探したのよ……」

「おかあさん……」


お母さんは、私を見た。


「あなたが、一緒にいてくれたの?」

「はい」

「ありがとう……本当に、ありがとう……」


お母さんは、何度も頭を下げた。

男の子——カイルも、私を見た。

涙で濡れた顔。

でも、笑っていた。


「おねえちゃん、ありがとう」


その笑顔が——今でも、忘れられない。


  *


それから、私たちは友達になった。

カイルは、私より一つ年下だった。

でも、いつも私の後をついてきた。


「エリカ、遊ぼう!」

「エリカ、見て、虫捕まえた!」

「エリカ、今日も一緒に帰ろう」


最初は「おねえちゃん」と呼んでいたのに、いつの間にか「エリカ」になっていた。

私も、それが嬉しかった。


  *


ある日、カイルが私のところに来た。

手に、何か持っている。


「エリカ、これ……やる」

「何?」


差し出されたのは——小さなブローチだった。

不格好な、花の形。

木を削って作ったような、手作りのブローチ。


「カイル、これ……」

「俺が作った」

カイルは、顔を真っ赤にしていた。


「あの時のお礼。お前が手を握ってくれたから……俺、泣き止めたから」

「……」

「下手くそだけど……いらなかったら、捨てていい」

「いらなくなんかない!」


私は、ブローチを受け取った。

確かに、不格好だった。

花びらの形は歪んでいるし、表面もでこぼこしている。

でも——。


「すごく嬉しい」

「……ほんとか?」

「うん。大切にする」

「……そうか」

カイルは、照れくさそうに笑った。


その日から——私はずっと、このブローチを持っている。


  *


ある日、カイルが言った。


「俺、あの時すごく怖かった」

「迷子になった時?」

「うん。お母さんがいなくなって、周りに誰もいなくて」

「……」

「でも、エリカが手を握ってくれて……すごく安心した」


カイルは、照れくさそうに頭を掻いた。


「だから……俺、今度はエリカを守りたいって思ったんだ」

「え?」

「お前が誰かを助ける時、俺がお前を守る」

「……カイル」

「だから、俺は強くなる。絶対に」


その目は、真っ直ぐだった。

子供の頃から——カイルは、いつも真っ直ぐだった。


  *


「エリカ」

カイルの声で、私ははっと我に帰った。

「ん?」

「今日の夜、時間あるか?」

「夜?」

「話したいことがあるんだ」


カイルは、私を見た。

真っ直ぐな目。

少し、緊張しているような。


「……何の話?」

「それは、夜に」

「気になるんだけど」

「駄目だ。夜まで待て」


カイルは、そっぽを向いた。

でも——耳が、真っ赤だった。

私は、胸が高鳴るのを感じた。

もしかして——。


「……分かった。待ってる」

「ああ」

「夜、待ってるから」


カイルは、頷いた。

そして——少しだけ、笑った。

その笑顔が、夕日に照らされて。

とても綺麗だった。


  *


翌朝。

私は、いつもより早く目が覚めた。

昨夜、カイルは来なかった。

急な仕事が入ったと、連絡があった。


「ごめん、明日の夜に延期させてくれ」

「うん、分かった」

「絶対に話すから。待っててくれ」

「待ってる」

少し残念だったけど、仕方ない。


カイルは軍人だ。

街を守る仕事は、急な呼び出しも多い。


私は、鏡の前に立った。

保育士の制服を着る。

そして——あのブローチを、胸元に付けた。

不格好な、花の形。

カイルが、私のために作ってくれたブローチ。

子供の頃から——ずっと、大切にしている。


「よし」

私は、保育園に向かった。

今日も、子供たちが待っている。


  *


「エリカせんせい、おはよう!」

「おはよう、みんな」


園庭で、子供たちが駆け寄ってきた。


「せんせい、今日は何して遊ぶ?」

「今日はね、お絵かきしようか」

「やったー!」


子供たちの歓声。

私は、笑顔になった。

この子たちの笑顔を見ると、幸せな気持ちになる。

昼まで、あと少し。

昼からは、おやつの時間。

そして夕方には、カイルに会える。

今日も、いい一日になる。

そう思っていた。


  *


それは、昼過ぎのことだった。

突然——空が、轟音で震えた。


「え……?」


窓の外を見る。

煙が、上がっている。

街の方角から。

「爆撃……!?」

サイレンが鳴り響く。

子供たちが、怯え始めた。

「せんせい、怖い……」

「大丈夫よ、大丈夫」

私は、子供たちを抱きしめた。

「みんな、先生と一緒に避難しようね」

「うん……」

子供たちの手を引いて、園庭に出る。

避難場所へ向かおうとした、その時——。


また、轟音。

今度は——近い。

すぐ近くの建物が、爆発した。

「きゃあああ!」

子供たちの悲鳴。

私は、必死に子供たちを庇った。

「大丈夫、大丈夫よ……!」

煙が、立ち込める。

瓦礫が、降ってくる。

「みんな、こっちに!」

子供たちを、安全な場所へ誘導する。

その時——。


「エリカ!」


聞き慣れた声。

振り返ると——カイルがいた。

軍服姿で、走ってきた。


「カイル……!」

「無事か!?」

「うん、子供たちも——」


その瞬間——。

建物が、崩れ始めた。

私の、真上に。


「エリカ!!」

カイルが、叫んだ。

走ってきた。

私を——突き飛ばした。


そして——。


瓦礫が、カイルの上に降り注いだ。


  *


「カイル!!」

私は、叫んだ。

瓦礫の下から——カイルの手が見えている。


「カイル!カイル!」

必死に、瓦礫をどかそうとした。

手が、血だらけになる。

爪が、剥がれる。

それでも——どかせない。


「待ってて、今助けるから……!」

瓦礫の隙間から——カイルの顔が見えた。

血まみれだった。


でも——笑っていた。

まっすぐに——私を、見ていた。


「エリカ……」

「喋らないで!すぐに——」

「よかった……無事で……」

「カイル……」

「子供たちも……無事か……?」

「うん……うん、みんな無事よ……」

「そうか……よかった……」


カイルは、微笑んだ。

血に濡れた顔で。

でも——優しい、笑顔で。


「エリカ……」

「何……?」

「ありがとう……」

「え……?」

「ありがとう、エリカ……」


カイルの声が、小さくなっていく。


「俺……お前のこと……」

「カイル……?」

「ずっと……」


声が——途切れた。

カイルの目が——閉じていく。


「カイル……?」


笑ったまま。

私を、見たまま。


「カイル!!」


返事は、なかった。


「嘘でしょ……?カイル……!」


私は、叫んだ。

何度も、何度も。

カイルの名前を。


でも——彼は、もう答えなかった。



—— ——


あの日から——私の世界は、変わった。


—— ——



最初は、泣くことしかできなかった。

カイルの葬儀にも、まともに参列できなかった。

ずっと、泣いていた。


「カイル……カイル……」


彼の名前を、呼び続けた。

返事がないと、分かっていても。

胸元のブローチを、握りしめる。

カイルが——私のために作ってくれた、ブローチ。


「カイル……」


これだけが——彼との繋がり。


  *


一週間後。


私は、保育園に戻った。

子供たちが、待っているから。

カイルが守ってくれた私が、倒れているわけにはいかない。

そう思った。


「エリカせんせい、おかえり!」

「せんせい、会いたかった!」


子供たちが、駆け寄ってきた。

私は、笑顔を作った。


「ただいま、みんな」


大丈夫。

私は、大丈夫。

子供たちのために、頑張らないと。

胸元のブローチに、そっと触れる。

カイル、見守っていてね。


   *


おやつの時間。

私は、子供たちにおやつを配っていた。


「はい、どうぞ」

「わーい!」


子供たちの笑顔。

私も、笑顔で応える。

大丈夫。

大丈夫——。


「エリカせんせい!」


ユウキくんが、私を見上げた。

満面の笑みで。


「ありがとう!」


その瞬間——。

世界が、止まった。


  *


『ありがとう、エリカ……』


カイルの声が、頭の中で響いた。


『俺……お前のこと……』


血だらけの顔。

笑っている。

私を、見ている。

瓦礫の下で——。


「あ……」


視界が、歪む。

心臓が、破裂しそうなくらい鳴っている。

息が——できない。


「せんせい……?」


ユウキくんの声が、遠くに聞こえる。


「せんせい、だいじょうぶ……?」

「あ……あ……」


膝が、崩れた。

床に、倒れ込む。


「せんせい!!」


子供たちの悲鳴が、聞こえる。

でも——私には、カイルの声しか聞こえなかった。


『ありがとう、エリカ……』


何度も、何度も。

繰り返し、響いてくる。


「やめて……やめて……」


私は、頭を抱えた。


「カイル……カイル……」


涙が、止まらない。

息が、できない。


「せんせい、怖いよ……」


子供たちの泣き声が、聞こえた。

私のせいで——この子たちが、泣いている。

守るべき子供たちを——私が、怖がらせている。


「ごめん……ごめんなさい……」


謝ることしか、できなかった。


  *


その日から——私は、保育園に行けなくなった。


「ありがとう」


その言葉を聞くのが、怖い。

街を歩いていても。

店で買い物をしていても。

誰かが「ありがとう」と言うたびに——カイルの顔が、蘇る。


血だらけの顔。

最後の、笑顔。

途切れた、言葉。


「やめて……お願い……」


私は、部屋に閉じこもった。

カーテンを閉めて。

誰とも、会わないように。

でも——頭の中では、ずっとカイルの声が響いている。


『ありがとう、エリカ……』


『俺……お前のこと……』


「カイル……」


私は、毎日泣いた。

眠れない夜が、続いた。

食事も、喉を通らない。

胸元のブローチだけを——握りしめて。


  *


ある夜。

私は、窓の外を見ていた。

暗い夜空。

カイルと一緒に見た、夕焼け空とは違う。


「カイル……」

あなたは、何を言おうとしていたの。


『俺、お前のこと——』


その先を——聞きたかった。

あなたの声で、聞きたかった。

でも——もう、聞けない。

永遠に、聞けない。

涙が、頬を伝った。


「私……どうしたらいいの……」


子供たちに、会いたい。

あの子たちの笑顔を、また見たい。

でも——「ありがとう」を聞くのが、怖い。

このままじゃ——私は、壊れてしまう。

カイルが守ってくれた命なのに。

こんな風に、壊れていくなんて。


「ごめんね、カイル……」


私は、ブローチを握りしめた。

不格好な、花の形。

カイルの——温もり。


「……私、どうしたらいい……」


何も、できない自分が、情けなかった。


  *


翌日。

一通の手紙が届いた。


『忘却術師』


記憶を消すことで、人の苦しみを取り除く。

そういう人がいると、書いてあった。


「記憶を……消す……」


カイルのことを、忘れたいわけじゃない。

彼との思い出を、消したいわけじゃない。

このブローチも——ずっと、大切にしたい。

でも——この苦しみだけは。

「ありがとう」を聞くたびに、壊れていくこの苦しみだけは。

消して——ほしい。

私は、手紙を握りしめた。


「お願いします……」

「助けて……ください……」



—— ——


翌日——。

私の部屋のドアを、誰かがノックした。


—— ——

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