第2話 揺れる馬車と、追憶の宿屋

ガタン、と大きな衝撃が走り、少女は跳ねるように意識を取り戻した。


どうやら、馬車が停車したらしい。

小窓から見える空は、深い紺色に染まり未だ星々が瞬いている。


少女が重い扉を開けて外へ出ると、彫像のように動かなかった御者が、馬に乗ったままゆっくりとこちらへ向き直った。その姿には生気が感じられず、人間というよりは、夜の闇が形を成しているかのようだった。

御者は無言のまま、革紐のついた古びた金属製のネックレスを掲げると、少女の首へとそれをかけた。

表面には細かな紋様が刻まれ、中央には小さな魔法石が埋め込まれている。これが何を意味するものなのか、少女にはわからなかった。

御者は再び前を向き、礼を言う間もなく闇の中へと馬車を走らせ消えていった。蹄の音さえ聞こえない、不自然なほどの静寂を残して。


たどり着いた村は賑やかだった。

通りには、至る所に吊るされたオイルランプがゆらゆらと揺れ、人々の笑い声や活気を淡く照らし出している。

一人残された少女は、村の入り口にある宿屋の門を潜った。


「あの…」


薄暗い受付の奥からは、面倒そうに深く溜息をつく音が聞こえてくる。

カウンターに肘をつき、脂ぎった顔で帳簿を眺めていたのは、ひどくふてぶてしい態度の中年男だった。

小太りな身体を窮屈そうなベストに押し込み、男は顔も上げずに吐き捨てる。


「……ガキの泊まる場所なんてねえよ。他を当たりな」


追い払うように手を振る男に対し、少女は何も言わず、ただ静かにその場に立ち尽くした。

少女の沈黙に苛立ったのか、男はようやく顔を上げ、値踏みするような視線を投げかけてくる。


「耳が聞こえねえのか。ここは金のない奴が来る場所じゃ……」


男の言葉が途切れた。

少女が、腰に下げた革袋の紐を静かに解いたからだ。

あの男に手渡された革袋の中から、色とりどりの魔法石を一つ選び、カウンターへ置く。

主人はその魔法石を見た瞬間、目を剥いて絶句した。


「……これは、失礼いたしました! すぐに最上級のお部屋をご用意いたします。」


終始もみ手をしてへいこらする主人に案内され、少女は最上階の部屋へと通された。


主人が去ったあと、少女は首にかかったままのネックレスをよく見ようと、何気なくその紋様に指を触れた。

その瞬間、指先から冷たい火花が散るような感覚。

ふわり、と冷たい風が室内を吹き抜けたかと思うと、机に置かれたランプの炎をすべて消し去ってしまう。


——待って。まだ…!


暗闇に塗りつぶされた部屋の中、少女の意識は深い場所へと沈んでいく。

“私”の意思に反して沈んでゆく意識に抗うが、やはりその力には敵うはずも無く、プツリと————繋がっていた意識が切れた。



 *



ネックレスに微かに残っていたのは、あの御者の記憶。人ならざる者が過ごしてきた、果てのない時が雪崩れ込んでくる。

人間とは異なる時間の流れ中で切り取られた、色彩のない景色の欠片。

その中にある、底知れないほど深い静寂に触れ、少女は暗闇の中で静かに涙を流した。



 *



少女の瞼から溢れた一筋の涙が、古い木造の床にこぼれ落ちる。

木目にたたきつけられた雫は、跳ねた瞬間に無数に散らばり宙を舞った。まるで、夜を彷徨う蛍のように。


それとほぼ同時に、部屋のドアが音もなく開く気配がした。


——やはり来た。


侵入者は、無数に舞う不思議な光の粒に一瞬怯んだようだった。

しかし次の瞬間、欲に負けた足取りで、きしむ板張りを踏みしめ部屋へと入ってくる。

受付の男だ。

何かを探すように視線を彷徨わせ、やがてその醜い欲望の詰まった視線は少女の枕元にある革袋へと注がれる。

あの魔法石は、この小さな村の宿屋では一生お目にかかれないもの。


——愚かな人間だ。


欲に目が眩んだ者に力を使うことは、不思議なほど罪悪感が薄かった。

彼女は、男に命ずる。


——手を出すな。そして、誰にも口外してはならない。


主人はぼんやりとした表情のまま、吸い寄せられるように窓際へと歩み寄った。

小太りの身体で窓枠へ押し込み、


————彼は躊躇なく外の闇へと身を投げた。


夜の静寂を切り裂くような鈍い音が響き、そして再び静寂が訪れる。

この高さだ、もしかしたらまだ息があるかもしれない。

だが、男が落ちたのは人通りの少ない宿屋の裏側。朝にならないと発見はされないだろう。


——明日の朝ではもう手遅れだ。


彼女は一息つく。

ちょうどそのタイミングで、遠くへ離れていた意識がゆっくりと身体に戻ってくるのを感じた。


少女はぱちりと目を開くが、流石に疲れたようで、すぐに瞳を閉じて、そのままパタリと眠りこけてしまった。


翌朝。

窓から差し込む陽光に、少女は静かに目覚めた。どんな夢を見ていたかは、もう思い出せない。

それでも、少女の表情は昨夜よりも少しだけ晴れ晴れとしていた。この先に続く旅に、希望を見出したように。

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ルナタリア彷徨譚 Rilla. @rilla_kthb

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