第1話 黄昏の舘

しばらくして、古びた洋館の窓からオレンジ色の日差しが差し込む頃。

少女は自分の記憶を探ることを諦めて、近くに転がっていたリュックサックを調べることにした。


かなり大きめのリュックサックだ。

ベルトは革製で、他は麻布でできている。かなり使い込まれているようで、ところどころ汚れ、ほつれているが、それでも大切に扱われてきたことがわかる。


上にはロールマットが括られていた。

少女はその敷物を、くるくると床に広げる。

ロールマットについた砂埃を払っていると――遠くから、喧騒が聞こえた気がした。

気のせいか。 そう思った瞬間、再び遠くから喧騒が響く。

加えて眼の前がチリチリと白く焼けていくように、景色をとらえられなくなってゆく。

やがて目の前が闇に包まれた。


何も、ない。ただ、真っ黒な世界。

どこか、深い闇の中、深い海の底へ、静かに沈んでいくような感覚。


真っ暗な闇の中。 徐々に淡い光が少女のまわりを漂い始めた。

光の中に、断片的な光景が見える。 いくつも散らばった、これは――記憶だろうか。

ゆっくりと手を伸ばし、その光に触れようとした時、突然、少女の中で警鐘のような音が響いた。

少女は弾かれたように、伸ばした手を引っ込める。

たった少し、指先を伸ばせば届くのに、なぜか心がそれを拒んでいた。


触れることのできない無数の光を、ぼんやりと眺めていると、どこからか、小さな声が聞こえた。


『これは魔法の絨毯。お前は自由だ。好きな所へ行くといい』


懐かしいような、寂しいような、不思議な気持ち。 闇に沈んでゆく体に身を任せ、ふっと力を抜いた途端――目が覚めた。


古びた洋館の天井が見える。デジャヴのようだ。


少女はゆっくりと体を起こす。

時間は、それほど経っていないようだった。


「…探さないと」


ぽつりと自分の口から出た言葉に驚いて、口元に手を添える。


探さないと?何を?


理由はわからない。けれど、何かを強く求めるように、身体が勝手に動き出す。

少女の意思とは関係なく、手慣れた動作でロールマットを巻き、リュックへと括る。 大きなリュックは、背負ってみると思いのほか軽かった。

スカートの裾を払い、立ち上がる。 まるでこの洋館を熟知しているかのように、迷いなく外へと出た。



 *



日が傾いている。

洋館の目の前には大きな湖が広がり、その中心には深い霧が立ち込めていた。


霧の向こうに、影が見える。 ゆっくりと船を漕ぐ影。 その影は、何かに導かれるように少女の元までやってきた。


「あの……」


控えめに声をかける。 男は何も言わず、おもむろに船の中で座り直し、少しだけ空間を空けた。


乗れ、ということ?


ここにいても得られるものはない。 そんな確信に似た予感に押され、少女は船へと乗り込んだ。


船はゆっくりと、霧の濃い方へ進んでゆく。どこへ向かうのかもわからない。

乗り込んだことを少し後悔したが、もう岸は遠い。


「あの…どこへ、向かっているのでしょうか?」


男は何も答えない。 虚ろな目をして、ただ船を漕ぎ続ける。

霧はさらに深く、白く。もう周りの景色は、一切見えなくなっていた。


「あの」


もう一度声をかけようと、男の袖に触れた。その途端――また、あのチリチリと目の前が焼けていく感覚に襲われる。


ああ、だめだ。 また、沈む。


そう思ったのと同時に、少女の意識はパタリと途切れた。

男は船を漕ぎ続ける。少女のことなど見えていないような、虚ろな目のままで。

霧の中を、二人を乗せた船がゆっくりと進んでゆく。



 *



また、あの暗闇だ。

チラチラと舞っている、無数の光。


この光には触れられそう。


そう直感した少女は、ゆっくりと目の前の光に手を伸ばした。



 *



「―――っ!!!」


勢いよく、体を起こした。

その拍子に、体に掛けられていた麻布がずり落ちる。


ここは?


薄い布張りの天井。草の香りに混じった土の香り。近くに置かれた、リュックサック。

布の隙間から外を覗くと、湖に留められた船が見えた。

船の中で気を失い、いつの間にか陸に着いたらしい。 あの男が、ここまで運んでくれたのだろうか。



少し重い身体を起こし、天幕から出ると、先ほどの男がゆっくりとこちらへ向かってくるのが見えた。

礼を言おうと口を開くより早く。 男は、ずっしりと重みのある革袋を少女へと差し出した。


男は、相変わらず何も語らない。


戸惑いつつも革袋を受け取ると、中からカチリ、と硬質な音が響く。 袋の隙間から覗いたのは、淡い光を宿した魔法石だった。

男の視線が、少女の後ろへと注がれる。 つられて振り返ると、深い森の切れ間に、一台の馬車が静かに佇んでいた。


乗れ、ということだろうか?


さっきからずっとこの調子だ。 けれど、何か、本能のようなものが少女の足を動かす。


―――待って。


その“何か”に抗うように、少女は馬車へと向かっていた足を止めた。


「あの」


少女は足を止め、男の虚ろな顔を見つめた。


「……エルナさんは」


その名を呼んだ瞬間、男が勢いよく顔を上げる。


「エルナさんは、あなたがいつまでも岸辺に立ち尽くしていることを、望んでなどいませんでしたよ」


男は、はっとしたように目を見開いた。

数十年、あるいはもっと長い間。 誰も呼ぶことのなかったその名を、少女は口にした。


ヒヒーン、と。馬の鳴き声が響き、少女を呼んだ。

少女は、それ以上何も言わず、促されるように、馬車へと歩き出す。

背後で、男が何かを堪えるような、震える吐息が聞こえた気がした。


馬車の元へ行くと、御者は彫像のように動かず、ただ静かに、重厚な扉を開けた。

吸い込まれるように乗り込むと、広い車内には誰もいない。

少女が座席の端へ腰かけると、不自然なほど静かに、扉が閉じられた。


ガタ、と馬車が動き出す。 心地よい振動が、少女の背中に伝わってきた。



 *



馬車に揺られながら、少女は窓の外を見る。そこには、ルナタリアの深い夜と、零れ落ちそうな星の群れが広がっていた。


……悲しい、記憶だった。

先ほど触れた、あの光。あの記憶は、胸の奥に鋭い痛みが棘のように刺さっている。

少女はそっと、自分の胸に手を添えた。―――この祈りが届くように。


「どうか、あの人に」


独り言のように、静かに呟く。


「私を岸へと届けてくれた、あの優しい人に。……いつか、本当の幸せが訪れますように」


自分の名前さえ思い出せない少女の、それはあまりに純粋な祈りだった。


やがて、心地よい揺れが眠気を誘う。もう、抗う必要はない。

今度は“沈む”のではなく。 少女は自らの意思で、穏やかな眠りについた。

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