第1章:功利性の原理について

I. 自然は、人類を「苦痛(pain)」と「快楽(pleasure)」という二人の主権者による支配のもとに置いた。私たちが何を「しなければならない」かを指示し、また私たちが実際に何を「することになる」かを決定するのは、ただこの二人の主君だけである。一方には「善悪の基準」が、他方には「因果の連鎖」が、彼らの玉座にしっかりと結び付けられている。 彼らは、私たちのすべての行為、すべての言葉、すべての思考において私たちを支配している。私たちがその従属を振り払おうといかなる努力をしても、それはその従属を証明し、確認することにしかならないだろう。言葉の上では、人は彼らの帝国を放棄したふりをすることもできよう。しかし現実には、人は終始その支配下にあり続けるのである。 「功利性の原理(The principle of utility)[1]」はこの従属関係を認識しており、理性と法のこの手によって「幸福(felicity)」という建造物を築き上げようとするシステムの基礎として、これを想定している。この原理に疑義を呈しようとするシステムは、意味の代わりに騒音を、理性の代わりに気まぐれを、光の代わりに闇を扱っているに過ぎない。


しかし、比喩や美辞麗句はもう十分だ。道徳科学(moral science)はそのような手段によって改良されるものではない。


II. 功利性の原理は、本著作の基礎である。したがって、冒頭において、それが意味するところを明確かつ確定的に説明しておくことが適切であろう。 「功利性の原理[2]」とは、その利益が問題となっている当事者の幸福を増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるか、その傾向に従って、あらゆる行為を是認したり否認したりする原理を意味する。言い換えれば、その幸福を促進するように見えるか、対立するように見えるかによって判断する原理である。私は「あらゆる行為」と言った。したがってそれは、私個人のあらゆる行為だけでなく、政府のあらゆる施策に対しても適用される。


III. 「功利性(utility)」とは、ある対象が持つ性質であって、それによってその利益が考慮されるべき当事者に対して、便益、利益、快楽、善、あるいは幸福(現在のケースではこれらはすべて同じ意味になる)を生み出す傾向、あるいは(これも同じことだが)危害、苦痛、悪、あるいは不幸が起こるのを防ぐ傾向を持つものを意味する。もしその当事者が社会全体(コミュニティ)であるならば、それは社会の幸福であり、特定の個人であるならば、その個人の幸福である。


IV. 「社会(コミュニティ)の利益」という言葉は、道徳の用語法において最も一般的な表現の一つである。それゆえ、その意味がしばしば見失われるのも不思議ではない。それが意味を持つとすれば、次のようなものである。 社会とは、その構成員であると考えられる個々の人間から構成される「擬制体(fictitious body)」である。では、社会の利益とは何か? ——それは、社会を構成する個々のメンバーの利益の「総和」である。


V. 個人の利益とは何か[3]を理解せずに、社会の利益を語っても無駄である。ある物事が、個人の快楽の総計を増大させる傾向を持つとき、あるいは同じことだが、苦痛の総計を減少させる傾向を持つとき、その物事は、ある個人の利益を促進する、あるいはその個人の利益「のためになる」と言われる。


VI. ある行為が社会の幸福を増大させる傾向が、それを減少させる傾向よりも大きいとき、その行為は功利性の原理に、あるいは短く言えば(社会全体に関するという意味で)功利性に「適合している」と言うことができる。


VII. 政府の施策(これは特定の個人または人々によって行われる特定の種類の行為に過ぎないが)についても同様に、社会の幸福を増大させる傾向が減少させる傾向よりも大きいとき、それは功利性の原理に適合している、あるいは功利性の原理によって指令されていると言うことができる。


VIII. ある行為、あるいは特に政府の施策が、ある人によって功利性の原理に適合していると想定される場合、議論の便宜上、「功利性の法(律)」あるいは「功利性の命令」と呼ばれる一種の法や命令を想定し、問題の行為をそのような法や命令に適合しているものとして語ることは便利であろう。


IX. ある人が、ある行為や施策に対して付与する是認や否認が、その行為や施策が社会の幸福を増大あるいは減少させると彼が考える傾向によって決定され、かつその傾向に比例している場合、その人は功利性の原理の「支持者(パルチザン)」であると言える。言い換えれば、功利性の法や命令への適合・不適合によって判断する場合である。


X. 功利性の原理に適合する行為については、常に、それは行われる「べき」ものである、あるいは少なくとも行われる「べきではない」ものではない、と言うことができる。また、それがなされるのは「正しい」、少なくともなされることは「誤り(wrong)」ではない、それは「正しい」行為である、少なくとも「誤った」行為ではない、と言うこともできる。このように解釈されたとき、「べき(ought)」「正しい(right)」「誤り(wrong)」といった言葉、およびその種の他の言葉は意味を持つ。そうでない場合、それらは何の意味も持たない。


XI. この原理の正当性が、これまでに正式に論争されたことはあるだろうか? 自分が何を意味しているのかを知らない人々によって、論争されたことはあるようである。 この原理は何らかの直接的な証明を受け入れる余地があるか? ないように思われる。なぜなら、他のすべてのものを証明するために使用されるものは、それ自体を証明することはできないからである。証明の連鎖は、どこかに始点を持たねばならない。そのような証明を与えることは不可能であると同時に、不必要である。


XII. とはいえ、いかに愚かであろうと、いかに偏屈(perverse)であろうと、人生の多くの、おそらくは大半の場面において、この原理に従わなかった人間は、かつて存在したこともなければ、今も存在しない。人間の構造の自然な構成によって、一般的に人間は、自分の行為の整理のためではないにせよ、自分の行為や他人の行為を吟味するために、意識することなく人生の大部分でこの原理を受け入れている。 同時に、最も知的な人々であっても、純粋に、かつ留保なくこの原理を受け入れようとする傾向を持つ者は多くなかったかもしれない。この原理の適用方法を常に理解しているわけではないために、あるいは、吟味することを恐れたり手放すに忍びなかったりする何らかの偏見のために、何らかの機会にこの原理と争おうとしなかった者は少ない。そのようなものこそが人間の材料なのである。原理においても実践においても、正しい道においても誤った道においても、あらゆる人間の性質の中で最も稀なのが「一貫性」である。


XIII. ある人が功利性の原理と戦おうとするとき、彼は自分でも気づかぬうちに、まさにその原理そのものから引き出された理由を用いているのである[4]。彼の議論は、もし何かを証明するとすれば、その原理が誤っているということではなく、彼が想定している適用法によれば、その原理が誤って適用されているということである。人間が地球を動かすことは可能か? ——可能だ。しかし、そのためには彼はまず、立つための「別の地球」を見つけなければならない。


XIV. 議論によってこの原理の適切さを反証することは不可能である。しかし、前述の原因から、あるいはこの原理に対する混乱した、あるいは部分的な見解から、ある人はこの原理を好まない傾向を持つかもしれない。 もしそうであるなら、またもしその人が、そのような主題について自分の意見を確定させることを手間に値すると考えるなら、彼に次の手順を踏ませてみよう。そうすれば最終的に、おそらく彼は自分自身をこの原理と和解させることができるだろう。


まず、この原理を完全に捨て去りたいかどうか、自分自身で決着をつけさせよ。もしそうなら、彼のあらゆる推論(特に政治に関する事項において)は何に帰着するのかを考えさせよ。


もし捨て去りたいなら、彼は何の原理もなしに判断し行動したいのか、それとも判断と行動の基準となる他の原理があるのか、自分自身で決着をつけさせよ。


もし他の原理があるなら、彼が見つけたと思うその原理が、本当に何か独立した理解可能な原理なのか、それとも単なる言葉上の原理、つまり根本においては「彼自身の根拠のない感情の単なる断言」以上のものでも以下のものでもない一種のフレーズに過ぎないのではないか(つまり、他の人であれば「気まぐれ」と呼ぶようなものではないか)、吟味し納得させよ。


もし彼が、結果を一切考慮せず、ある行為の概念に付随する彼自身の是認や否認こそが、彼が判断し行動するための十分な基礎であると考える傾向があるなら、彼のその「感情」は他のすべての人にとっても善悪の基準となるべきなのか、それともすべての人の感情がそれぞれにとっての基準となる同じ特権を持っているのか、自分自身に問わせよ。


最初のケース(自分の感情が万人の基準)ならば、彼の原理は専制的(despotical)であり、人類の他のすべてに対して敵対的ではないか、問わせよ。


第二のケース(各人の感情が各人の基準)ならば、それは無政府的(anarchial)ではないか? この割合でいけば、人間の数だけ異なる善悪の基準が存在することにならないか? さらには同じ人間にとっても、今日正しいことが(その性質が少しも変わらないのに)明日は誤りとなるのではないか? 同じ事柄が、同じ場所、同じ時間に正しくもあり誤りでもあることにならないか? いずれにせよ、すべての議論は終わりを告げるのではないか? 二人の人間が「私はこれが好きだ」「私はこれが嫌いだ」と言ったとき、(そのような原理の上では)彼らはそれ以上言い合うべきことを持てるだろうか?


もし彼が「いや、私が基準として提案する感情は『省察(reflection)』に基づいているはずだ」と自分に言いきかせるなら、その省察はいかなる詳細事項に向けられるのかを言わせよ。もしその詳細事項が、行為の「功利性」に関連するものであるなら、それは彼自身の原理を放棄し、彼が対立させているまさにその原理(功利性)からの助けを借りているのではないか? もし功利性に関する詳細事項でないなら、他のいかなる詳細事項なのか?


もし彼が、事柄を折衷して、自分の原理を部分的に採用し、功利性の原理を部分的に採用しようとするなら、どの程度まで自分の原理を採用するのかを言わせよ。


彼がどこで止まるかを自分で決めたなら、そこまで採用することをどうやって自分に正当化するのか、そしてなぜそれ以上採用しないのかを自分自身に問わせよ。


功利性の原理以外の原理を正しい原理、人が追求するのが正しい原理であると認めたとして、また(真実ではないが)「正しい」という言葉が功利性への参照なしに意味を持ちうると認めたとして、その原理の命令を追求するような「動機」なるものが人間にあるのかどうかを言わせよ。もしあるなら、その動機とは何か、そしてそれは功利性の命令を強制する動機とどう区別されるのかを言わせよ。もしないなら、最後に、この「他の原理」は何の役に立つのかを言わせよ。


脚注

[1] 著者による注記(1822年7月) この名称に対して、最近では「最大幸福(greatest happiness)」あるいは「最大至福(greatest felicity)」の原理という名称が追加、あるいは代用されている。これは、「利益が問題となっているすべての人々の最大幸福こそが、人間行動の(あらゆる状況における人間行動、特に行政府の権力を行使する公務員や公務員団体の行動の)正しく適切な、そして唯一正しく適切で普遍的に望ましい目的である」と長々と述べる代わりに、短縮して表現するためである。 「功利性(utility)」という言葉は、「幸福(happiness)」や「至福(felicity)」という言葉ほど明確に快楽と苦痛の観念を指し示さない。また、影響を受ける利益の「数(number)」についての考慮へと私たちを導かない。しかしこの「数」こそが、ここで問題となっている基準、すなわちあらゆる状況における人間行動の適切さを唯一適切に試すことのできる「善悪の基準」の形成に、最大級の割合で寄与する事情なのである。 一方における幸福と快楽の観念、他方における功利性の観念、この両者の間に十分に明白な関連性が欠けていることが、この原理が受け入れられるのを妨げる障壁として、時折、あまりにも効率的に作用しているのを私は見出してきた。


[2] 「原理(principle)」という言葉は、ラテン語の principium に由来する。これは primus(最初の、あるいは主要な)と cipium(capio「取る」に由来する語尾。mancipium, municipium などに見られ、auceps, forceps なども類似する)の二語から合成されていると思われる。これは非常に曖昧で、非常に広範な意味を持つ用語である。それは、一連の操作の基礎や始まりとして機能すると考えられるあらゆるものに適用される。ある場合は物理的な操作、現在のケースでは精神的な操作の基礎である。 ここで問題となっている原理は、精神の行為、感情、是認の感情、すなわちある行為に適用されたとき、その行為に与えられる是認や否認の尺度を支配すべき性質として、その「功利性」を是認する感情と解釈してもよい。


[3] 「利益(Interest)」は、上位の類概念を持たないため、通常の方法では定義できない言葉の一つである。


[4] 「功利性の原理は(と誰かが言うのを私は聞いたことがある)、危険な原理である。ある種の機会にこれを参照するのは危険である」と。これは、何を言うに等しいか? ——功利性を参照することは、功利性に適合しない、と言うに等しい。要するに、それを参照することは、それを参照しないことである、と。


著者による追記(1822年7月) 1776年、『統治論断片(Fragment on Government)』が出版されて間もなくのことである(同書では、すべてを包括しすべてを命令する原理として、功利性の原理が提示された)。上記のような趣旨の意見を述べた人物の一人に、アレクサンダー・ウェダーバーンがいた。彼は当時、法務長官(Attorney General)または法務次官(Solicitor General)であり、その後、コモン・プレイズ裁判所首席裁判官、そしてイングランド大法官を歴任し、ラフボロー卿、ロスリン伯爵の称号を順次受けた人物である。この発言は、私の面前でなされたわけではないが、それを聞いた人物によってほぼ即座に私に伝えられた。 「自己矛盾している」どころか、それは鋭く、そして完全に真実な発言であった。この卓越した公務員(ウェダーバーン)によって、政府の状態は完全に理解されていたが、無名の個人(ベンサム)によってはおよそ理解されているとは想定されていなかった。当時の私の論考は、まだ憲法(Constitutional Law)の分野には包括的な視点をもって適用されておらず、したがってイギリス政府の特徴にも適用されていなかった。今ではあまりにも明白に見えることだが、イギリス政府のコースがいかなる時も向けられてきた唯一の目的とは、統治者個人の最大幸福(お気に入りの少数の幸福を伴うかどうかにかかわらず)だったのである。 功利性の原理は、当時私によって(他の人々によってもそうであったが)、より明晰かつ教育的な方法で上記の通り「最大幸福の原理」という名で指し示されうるものを指すための呼称として用いられていた。 「この原理は(とウェダーバーンは言った)、危険なものである」と。そう言うことによって、彼はある範囲において厳密に真実であることを言ったのである。 統治の唯一正しく正当化できる目的として「最大多数の最大幸福」を定める原理——これが危険な原理であることを、どうして否定できようか? 実際的な目的あるいは対象として、「ある特定の一人の最大幸福」(彼がその関心事の分け前を与えることを快楽や便宜とする比較的少数の人々、言ってみれば多くのジュニア・パートナーたちを加えるかどうかにかかわらず)を持つあらゆる政府にとって、この原理は疑いようもなく危険である。 したがって、それは、司法やその他の手続において遅延、苛立ち、費用を最大化し、その費用から利益を引き出すことを利益としていたすべての公務員(彼自身を含む)の利益——すなわち「邪悪な利益(シニスター・インタレスト)」——にとって、本当に危険だったのである。 もし「最大多数の最大幸福」を目的とする政府であったなら、アレクサンダー・ウェダーバーンは法務長官になり、その後大法官になったかもしれない。しかし、年俸1万5000ポンドの法務長官にはなれなかっただろうし、すべての正義に対する拒否権を持つ貴族位付きの大法官として年俸2万5000ポンドを得ることも、教会の聖職禄という名目で自由に処分できる500もの閑職(sinecures)や、その他もろもろ(et cæteras)を手にすることも、決してできなかったであろう。

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『道徳および立法の諸原理序説』ジェレミー・ベンサム著、間朗哲人訳 先端科学出版 @SentanKagaku

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