『道徳および立法の諸原理序説』ジェレミー・ベンサム著、間朗哲人訳
先端科学出版
Preface 序文(1789年)
見開きページ※の注記にもある通り、以下の文章が印刷されたのは、今からかなり昔の1780年のことであった。これらが書かれた当初の意図は、現在の表題によって予告されているほど広範なものではなかった。当時、この書は、同じ巻に続いて収録される予定であった「刑法典草案」の序論としての役割以外、何の目的も持っていなかったのである。
(※訳注:初版当時の書誌的状況を指す)
著者の当時の視野の範囲内において、本書の本体部分は完成を見ていた。ところが、発見したいとある不備について調査を進めていた際、著者は思いがけず、形而上学(メタフィジックス)という迷宮の予期せぬ一角に足を取られることとなった。当初は一時的なものと思われた中断であったが、必然的にそれは長引くこととなった。中断は情熱の冷却をもたらし、その冷却は他の様々な要因とも相まって、嫌悪感へと熟していった。
本書全体に浸透してしまっている不備については、厳格かつ明敏な友人たちの誠実さによってすでに指摘されており、著者の良心もまた、彼らの批判の正当性を証明していた。いくつかの章の過度な長さ、他の章の一見した無用さ、そして全体を覆う無味乾燥で形而上学的な傾向。これらは、もし現在の形のままで出版された場合、本書が読まれる機会、ひいては役に立つ機会を得る上で、大きな不利益を被るであろうという懸念を抱かせた。
しかし、このようにして本書を完成させるという考えがいつの間にか脇へ追いやられてしまったとはいえ、本書に取り組むきっかけとなった考察そのものが捨て置かれたわけでは決してなかった。必要とする知見をもたらしてくれそうなあらゆる可能性は依然として追求された。機会が生じるたびに、最初に取り組んだ分野に関連する他の諸部門が次々と探求された。その結果、ある部門あるいは別の部門での追求において、著者の研究は立法(legislation)のほぼ全領域を包括するに至ったのである。
いくつかの要因が重なり合い、当初の表題のもとでは人知れず、あたかも取り返しがつかないほど忘却の淵に沈められていたと思われた本書が、現在の新しい表題のもとで世に出ることとなった。8年の歳月の中で、立法の主題の様々な部門に対応する様々な著作のための材料が生み出され、その一部はほぼ形を成すに至った。そして、それらすべての著作において、本書で提示されている諸原理があまりにも必要不可欠であることが判明したのである。それゆえ、それらを断片的に書き写すか、あるいは一括(ランプ)して参照できる場所に提示するかのいずれかが、不可避であるとわかった。前者の方法は、不可避的に膨大となる計画の実行において、不必要に繰り返しの記述を増やし、あまりに嵩(かさ)張るものとなってしまう。したがって、後者が議論の余地なく好ましい方法であった。
すでに印刷された形で材料を公表するか、それとも新しい形に作り直すか、選択肢はその二つだけであった。後者は最初から著者の願いであり、もし時間と必要なだけの意欲が自由になったならば、確実に実現されていただろう。しかし、説得力のあるいくつかの事情が、その作業の煩わしさと相まって、現時点でのその完遂を、測り知れないほど遠い彼方へと押しやってしまったのである。
もう一つの事情として、本書の出版差し止めは、たとえそれがどれほど断固として望まれたとしても、もはや完全には著者の権限の及ぶところではなくなっていたという点がある。これほど長い期間の間に、様々な出来事を通じて本書の写しが様々な人の手に渡り、その一部は所有者の死やその他の事故によって、著者の知らぬ人々の手へと移転してしまった。さらには、断片的ではあるが相当な量の抜粋が、何ら不名誉な意図なしに(著者の名前は極めて正直に付記されていたため)、しかし著者のあずかり知らぬところで、著者の関知しない出版物の中で公表されてさえいたのである。
おそらく、著者の偏愛の目をもってしても見逃すことのできなかった欠点だらけの作品を世に問うことへの弁明を完結させるために、次のことを付け加える必要があるだろう。すなわち、その「形式(form)」に対して極めて正当に浴びせられた批判は、その「内容(matter)」にまでは及んでいなかったということである。
こうして、あらゆる不完全さをその身に負ったまま本書を広く世に送り出すにあたり、著者の成熟した見解と一致していない主要な点について、期待しうる数少ない読者に対し、手短に示唆を与えておくことは有益であろうと著者は考える。それによって、本書が当初の表題によって予告された計画といくつかの点で一致していないこと、また現在の表題によって予告された計画とも他の点で一致していないことが、理解されるであろう。
ある科学の全体を主題とする著作の「序説」であるならば、その科学のあらゆる個別の部門に共通する事項、あるいは少なくとも二つ以上の部門に共通する事項をすべて含み、かつそうした事項のみを含むべきである。現在の表題と比較した場合、本書はいずれの点においてもそのルールに適合していない。
「道徳(Morals)の諸原理」への序説として見るならば、本書が含んでいる「快楽(pleasure)」「苦痛(pain)」「動機(motive)」「傾向(disposition)」という用語によって意味される広範な概念の分析に加え、それらに劣らず広範ではあるがはるかに不明確な概念、すなわち「感情(emotion)」「情念(passion)」「欲求(appetite)」「美徳(virtue)」「悪徳(vice)」、そして特定の美徳や悪徳の名前を含むその他の用語についても、同様の分析を行うべきであった。しかし、著者の考えが正しければ、後者の用語群を展開するための真の、そして唯一の真なる土台は、前者の説明によってすでに築かれているため、そのような辞書(あえてそう呼ぶならば)を完成させることは、その開始と比較すれば、機械的な作業に過ぎないであろう。
また、「立法(Legislation)一般の諸原理」への序説として見るならば、本書は刑法的な事項よりも、むしろ民法(civil branch)に専ら属する事項を含むべきであった。なぜなら、刑法的なものは、民法的なものによって提示された目的を達成するための手段に過ぎないからである。したがって、刑罰に関連するいくつかの章よりも優先して、あるいは少なくともそれに先立って、所有権やその他の民事上の権利の創設と配分において政府が行う操作の基準となる一連の命題を提示すべきであった。著者が意味しているのは、関係者の感情と、前述の性質を持つ操作を必要とするか、あるいはそれによって生み出される出来事のいくつかのクラスとの間の関係を表現する、いわゆる「精神的感性論(メンタル・パソロジー)※」の公理のことである。
(※訳注:ここでのpathologyは「病理」というより、感情や感受性の機序・論理を指すベンサム独自の用語)
さらに、「違法行為(offences)の分割」および違法行為に属するその他すべてのことに関する考察は、刑罰に関する考察に先行すべきであった。なぜなら、刑罰の概念は違法行為の概念を前提としており、刑罰とは、違法行為を考慮して初めて科されるものだからである。
最後に、違法行為の分類に関する分析的な議論は、現在の著者の見解によれば、立法の体系をその「形式」に関してのみ、言い換えればその「方法と用語法」に関してのみ考察する別の論文へと移されるべきものであった。
これらの点において、本作は、著者が現在付与した表題、すなわち『道徳および立法の諸原理序説』という表題を持つ著作において提示されるべきであったと考える著者自身の理念に、追いついていない。しかし著者は、これよりも不適切でない表題を知らない。また特に、本書が書かれた際のより限定された意図、すなわち「刑法典への序説」として役立つという意図に対応した表題を付けたとしても、実際の内容を十分に示唆することにはならなかったであろう。
さらに言えば、本書に含まれる議論の大部分は、大半の読者にとって不可避的に無味乾燥で退屈なものと思われるだろうが、著者はそれらを書いたこと、さらにはそれらを公表したことを後悔してはいない。各項目の下で、その項目に含まれる議論が適用可能と思われる実用的な用途が示されている。また、権威あるものであれ非公式なものであれ、法典を構成する詳細な規定の条項を起草するにあたり、著者がその基礎として利用する機会を見出さなかった命題は、一つとしてないと信じている。 この観点から、特に「感受性」「行為」「意図性」「意識」「動機」「傾向」「帰結」という言葉で短く特徴づけられるいくつかの章を挙げたい。計画がいくつかの部分で強制的な圧縮を受けたにもかかわらず、104ページもの密に印刷された四つ折版のページ※を占める「違法行為の分割」に関する長大な章においてさえ、その最後の10ページは、そこで示された分類計画から得られる実用的な利点の記述に費やされている。
(※訳注:当時の印刷フォーマットでの分量)
『高利擁護論(Defence of Usury)』を好意的に受け止めてくれた人々は、その小さな論文で展開された原理の発見を、これらの利点の一例として数えることができるだろう。1776年という昔に出版された匿名の小論文の序文において、著者は、真正な違法行為と偽の違法行為を区別するためのテストとしての、違法行為の自然的分類の有用性をほのめかしていた。高利(usury)の事例は、その観察の真実性を示す多くの事例の一つである。本出版物の第16章第35節末尾の注釈は、その小論文で展開された意見が、その想像上の違法行為(高利)を体系の中に位置づける試みにおいて経験した困難に、いかにその起源を持っていたかを示すのに役立つであろう。このような長大な分析を読み進める疲労に耐える一助として、一部の読者には、これら最後の10ページから読み始めることをお勧めしたいほどである。
本出版物から少なくとも一つの利益が生じるかもしれない。すなわち、今回著者が読者の忍耐を侵害すればするほど、将来においてはその必要が少なくなるということである。純粋数学の書が、応用数学や自然哲学の書に対して果たす役割を、本書が果たすことになるかもしれない。本書が閉じこもることを余儀なくされる読者の輪が狭ければ狭いほど、著者の続く研究の成果にアクセスできる人々の数は、より限定されなくなるかもしれない。したがって、この点において著者は、大衆向けの教義と秘教的(オカルト)な教義という二つの教義体系を持っていたとされる古代の哲学者たちと同様の状況にある自分を見出すかもしれない。ただし、この違いがある。彼らの場合、その二つは矛盾していたが、著者の場合、秘教的なものと大衆的なものが一貫していることが見出されることを願っている。そして、著者の作品において秘教的な部分があるとしても、それは悲しき必要性の純粋な結果であり、決して選択の結果ではないのである。
本「序言」の中で、より広範で成熟した見解によって示唆されたものとして、異なる構成案に度々言及する機会があったため、それらの性質について短い示唆を与えることは、読者の満足に資するかもしれない。そうした説明なしに、未発表の著作への参照が散見されれば、当惑や誤解を生む可能性があるからである。以下に掲げるのは、著者の現在の計画を完成させることとなる著作の表題である。これらは理解のために最適と思われる順序で、また、もし全集が一斉に出版される準備が整っていたならば配置されたであろう順序で提示されている。しかし、最終的に出版される順序は、おそらく付随的かつ一時的な事情によって、ある程度影響を受けることになろう。
第1部: 民事法、より明確には私的配分法、あるいは短く配分法(distributive law)の事項における立法の諸原理。
第2部: 刑法(penal law)の事項における立法の諸原理。
第3部: 手続法(procedure)の事項における立法の諸原理。刑事部門と民事部門を一つの視点に統合する。両者の間には、非常に不明瞭で絶えず変動しやすい境界線しか引くことができないためである。
第4部: 報酬(reward)の事項における立法の諸原理。
第5部: 公的配分法、より簡潔かつ親しみやすく言えば憲法(constitutional law)の事項における立法の諸原理。
第6部: 政治的戦術(political tactics)、すなわち政治的集会の議事進行において秩序を維持し、その設立目的に向かわせる術(アート)の事項における立法の諸原理。これは、ある点において、手続法が民法や刑法に対して持つ関係と同じものを、憲法部門に対して持つ規則の体系によるものである。
第7部: 国家と国家の間の事項、あるいは新しいが表現力に富んだ名称を用いるなら、国際法(international law)の事項における立法の諸原理。
第8部: 財政(finance)の事項における立法の諸原理。
第9部: 政治経済学(political economy)の事項における立法の諸原理。
第10部: その形式に関して、言い換えればその方法と用語法に関して考察された、あらゆる部門において完全な法典の計画。これには、普遍的法学(universal jurisprudence)の項目に適切に属すると言えるすべての内容を含む用語の短いリストによって表現される概念の、起源と関連性の概観が含まれる。
上記の各項目の下で定められた諸原理の用途は、用語そのもの(in terminis)で提示される法典そのものへの道を準備することである。そしてその法典が完全であるためには、いかなる政治国家に関連する場合でも、その結果として、特定の国家の経度(meridian)に合わせて計算され、その事情に適応されていなければならない。
もし著者が時間とその他必要なすべての条件を無制限に引き出す力を持っていたならば、各部の出版を全体の完成まで延期することが願いであっただろう。特に、あらゆる行において「功利(utility)」の命令であると彼に見えるものを提示するこれら10部の用途は、法典そのものに含まれる個々の対応する規定に「理由」を提供することに他ならないからである。前者の正確な真理は、それらが適用される運命にある規定そのものが、用語そのもの(in terminis)において確定されるまでは、精密には確かめられないのである。 しかし、人間性の弱さは、計画が意図において広範であればあるほど、その実行を不安定なものにする。著者はすでに理論のいくつかの部門においてかなりの前進を遂げているが、実用的な適用においてはそれに対応する前進を遂げていない。そのため、実際の出版順序は、もし同様に実行可能であったなら最も望ましいと思われた順序とは、正確には一致しない可能性が高いと思われる。この不規則性の避けられない結果として、多数の不完全さが生じるだろう。もし用語そのものによる法典の作成が諸原理の展開と歩調を合わせて進み、各部分が互いに調整され修正されていたならば、これらは避けられたかもしれない。 しかし、著者の行動がこの不都合によって左右されることは少ないだろう。著者は、この不都合が、公衆の教育よりも著者の個人的な虚栄心にはるかに関わる類のものであると疑っているからである。なぜなら、諸原理の詳細において提案される修正が何であれ、それらが関連する規定の文字通りの確定によって示唆されるものは、後者の出版に続いて出される前者の修正版において容易に行うことができるからである。
続くページの中で、すでに示唆したように、本書がその序説となることを意図していた刑法典の計画への参照や、上記で言及した一般計画の他の部門への参照が、ここで言及されたものとは多少異なる表題の下で見つかるだろう。この警告を与えることが、まだ存在しないものを探すという当惑から読者を救うために著者にできるすべてである。計画の変更を想起することは、同様に、詳細に挙げるに値しないいくつかの類似した不一致を説明することになるだろう。
この「序言」の冒頭で、本書の当初の中断と未完成の様相の原因として、特定されていないいくつかの困難について言及した。敗北を恥じ、それを隠すこともできない著者は、そうした困難の性質を簡単にスケッチすることで得られるであろう弁明の利益を、自ら拒絶することはできない。
それらの困難の発見は、本書の巻末に見られるであろう問いを解決しようとする試みによってもたらされた。「法の同一性と完全性はどこにあるのか?」「刑法と民法の区別は何であり、その分離線はどこにあるのか?」「刑法と法の他の部門との区別は何であり、その分離線はどこにあるのか?」
これらの問いに完全かつ正確な答えを与えるためには、立法システムのあらゆる部分の、他のあらゆる部分に対する関係と依存関係が、包括され確認されていなければならないことはあまりにも明白である。しかし、そのような操作が可能となるのは、それらの部分そのものを概観することによってのみである。したがって、そのような調査の正確さのために必要な一つの条件は、調査されるべき構造物が完全に存在していることであろう。この条件の履行については、いまだどこにも例を見出すことができない。 イングランドにおいて自らを「コモン・ロー(Common law)」と称し、あらゆる場所で適切に「裁判官法(judiciary law)」と称されるかもしれないもの、著者が知られた人物ではなく、実体となる知られた言葉の集合体も持たないあの架空の構成物が、あらゆる場所で法的構造物の主要部分を形成している。それは、感覚可能な物質が欠如している際に宇宙の容積を埋めると空想されたエーテルのようなものである。その架空の基盤の上に貼り付けられた実定法(real law)の断片や切れ端が、あらゆる国家の法典の家具を構成している。 そこから何が帰結するか? ――前述の目的のためであれ、他の目的のためであれ、参照すべき完全な法体系の例を欲する者は、まず自らそれを作ることから始めなければならないということである。
理解(understanding)の論理学があるように、意志(will)の論理学というものがある、あるいはあるべきである。意志という能力の操作は、理解という能力の操作と同様に、規則によって描写される余地があり、またその価値がある。この深遠な技術の二つの部門のうち、アリストテレスは後者(理解の論理学)しか見ていなかった。偉大な創始者の足跡をたどった後継の論理学者たちも、それ以外の目を持つことにおいては一致していた。 しかし、これほど密接に関連した部門間に違いを認めるとすれば、重要性という点でのいかなる違いも、「意志の論理学」に有利に働く。なぜなら、理解の操作がいかなる重要性を持つとしても、それはひとえに、意志という能力の操作を指揮する能力によるものだからである。
この「意志の論理学」において、その形式に関して考察された「法の科学」は、最も重要な部門であり、最も重要な応用である。それは立法の術(アート)にとって、解剖学の科学が医学の術(アート)に対して持つ関係と同じである。ただし、次の違いがある。解剖学の対象は医師が手術を施す対象(患者)であるが、法の科学の対象は、芸術家(立法者)が仕事をするために使う道具(法そのもの)である。そして、政治的身体(国家)が一方の科学(法学)の欠如によって被る危険は、自然的身体(人体)が他方の科学(解剖学)への無知によって被る危険に劣らない。この主張の証拠として挙げられる千の例のうちの一つが、本巻を締めくくる注釈に見られるだろう。
これらが困難の正体であり、予備的な事情であった。すなわち、成し遂げるべき前例のない仕事があり、そして創造すべき新しい科学があった。最も難解な科学の一つに、新しい部門を追加しなければならなかったのである。
さらに言えば、提案された法体系は、いかに完全なものであっても、その一点一画に至るまで、継続的な伴奏、つまり「理由(reasons)※」の絶え間ない注釈によって説明され正当化されない限り、比較的役に立たず、教訓的でもないだろう。反対方向を指す理由の相対的な価値を推定し、同じ方向を指す理由の結合された力を感じるためには、それらの理由を整列させ、「原理(principles)」と呼ばれる広範で主導的なものに従属させなければならない。したがって、一つのシステムだけでなく、並行して走る二つの接続されたシステムが必要となる。一つは立法の規定のシステム、もう一つは政治的理由のシステムであり、それぞれが互いに修正と支持を与え合うのである。
(※訳注:ベンサムは法典に「理由書(Rationale)」を添付することを重視した)
このような企ては達成可能だろうか? 著者は知らない。ただこれだけは知っている。それらは着手され、進行し、そしてそれらすべてにおいて何らかの進歩がなされたということである。 あえて付け加えるならば、もし達成可能だとしても、続くページを占めるような乾燥無味な議論に注意を払う疲労を、無用なものと見なすか、あるいは耐え難いと感じるような人物によって、それが成されることは決してないだろう。 著者は大胆に繰り返す(なぜならそれは彼の前にも言われたことだから)。政治的および道徳的科学の基礎を形成する真理は、数学的なものと同様に厳格な、そして比較にならないほど複雑で広範な調査によってしか発見されない。用語に馴染みがあることは、内容が容易であることの推定根拠となるが、それは最も誤った推定である。
一般に、真理は「頑固なもの(stubborn things)」と呼ばれてきた。今述べた真理も、それ自身のやり方で頑固である。それらは、説明や例外を伴わない、分離された一般的な命題へと無理やり押し込められることを拒む。それらはエピグラム(警句)へと圧縮されることはない。それらは雄弁家の舌やペンからは後ずさりする。それらは感情(sentiment)と同じ土壌では繁栄しない。それらは茨(いばら)の中に育つものであり、幼児が走りながら摘むヒナギクのように摘み取れるものではない。 「労働」、この人類の避けられない運命は、ここにおいてほど避けられない道はない。アレクサンダー大王が王の虚栄心のために特別な道を要求しようとも、プトレマイオス王が王の怠惰のためにより平坦な道を要求しようとも、無駄である。 数学の科学に「王道」がないのと同様に、立法の科学にも「王道(King's Road)」も「総督の門(Stadtholder's Gate)」もありはしないのである。
翻訳者による解説と科学的・分析的視点
ベンサムのこの序言は、単なる言い訳ではなく、「近代的な法体系(Legal Code)をゼロから構築する」という、人類史上稀に見る巨大なエンジニアリング・プロジェクトの「仕様書」兼「難易度報告書」として読むべき科学的ドキュメントです。
「形而上学の迷宮」と科学的アプローチ ベンサムが嫌悪感(disgust)を示した「形而上学」とは、実態のない言葉遊びを指します。彼が目指したのは、ニュートン物理学のように、法と道徳を「快楽と苦痛」という計測可能な単位(原子論的アプローチ)で再構築することでした。彼が足を取られたのは、既存の法概念があまりに非科学的で、定義が曖昧だったため、まず「用語の定義(Terminis)」という基礎工事からやり直さねばならなかったという、科学者としての誠実さゆえの苦悩です。
「意志の論理学(Logic of the Will)」の発見 ベンサムはここで、アリストテレス以来の論理学(真偽を問う理解の論理学)とは異なる、「規範と命令の論理構造(どうあるべきか)」を体系化する必要性を説いています。これは現代の「義務論理(Deontic Logic)」の先駆的発想であり、法を「解剖学」のように構造的に分析しようとする姿勢は、現代の法科学(Legal Science)の基礎です。
コモン・ローへの挑戦 「エーテルのような架空の構成物」というコモン・ロー批判は痛烈です。裁判官がその場の判断で作る法(Judge-made law)は非科学的で予測不可能だと断じ、成文法(Code)によって社会を制御可能にするという思想は、近代国家の統治システムの根幹をなす設計図と言えます。
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