後編
第三章 卑弥呼
一
オイの父はヤマダ国の2代目の王やったとです。
初代王のオオタは父の兄で、オイにとっては伯父にあたります。伯父は小さな村の若衆の長ば務めていて奴国の将にとりたてられ、奴国南部の国境とその地の米倉の防備を命じらました。
勇猛果敢だった伯父はクノ国の軍勢が北上してきたときには奮戦し、クノ軍を指揮していたクコチを討ちとりましたばってん、結局は国境ば破られ、奴国の敗戦を招きました。
しかしながら、これが伯父の転機となりました。
伯父が守っていた米倉には米ばかりじゃなく、鉄器や武具がふんだんにありまして、これがもとで伯父はその地域の頭となり、配下の兵士に推されて王になったとです。
父はその初代王の弟やったもんで、クノ軍が攻めてきたときゃ一緒に戦こうたとです。ばってん、伯父が王だったときには、これといった手柄はありませんでした。
父が二代目王として即位したのは人望があったからと言われておりますばってん、父はそぎゃん人物じゃなかです。父は自分の兄を殺して王位を奪いとったのです。父はそぎゃん男です。
そぎゃん男の国であるせいか、ヤマダ国には後ろ暗いことが多々あります。
オイの母は神の神託を皆に伝える巫女で、罪人の処遇なんかも決めていましたばってん、母に神の言葉が聞こえていたとは思われません。
ただ、容貌はすばらしく、だれが見てもウットリするよう顔立ちばしており、中年になっても細い腰をしておりました。ばってん、男にだらしなく、周囲の若い下戸に次々と手をつけ、自分よりも美しい少女が見習いで来ると必ずこれに神罰を与えました。
そぎゃん母が、自分の跡継ぎに選んだのは、誰もが目をそむけるような醜くいムスメだったとです。ムスメのときから年とったネズミのような顔ばしとって、肌にはツヤがなくて、手足はごつごつしとりました。
このムスメは見習いに来てすぐにどんどこ太りだし、神の神託を告げるようになった頃には男なのか女なのかわからんほどの体型になっとりました。
そして、その醜女はオイの妻となりました。
これは母が決めたことです。
オイは断れませんでした。
なお、世間にはその醜女がおいの妻とは言いませんでした。姉だということにしてあります。
名は、
ヒミコ
といいます。
ヒミコは顔が醜いだけじゃのうて、性分も普通じゃなかとです。気に入らん者にはものすごう苛烈です。
あるとき、ひとりの下戸がヒミコの寝所に呼ばれたとですが、この下戸は母の相手ばさせられたばっかしだったもので、ヒミコの相手がでけませんでした。そしたらヒミコは、その下戸のイチモツば噛み切ってしもたとです。
大人の女は、みんな、下の前歯ば抜いとります。ヒミコもそぎゃんです。下の歯がなくて、どうやって噛み切ったのかわからんですばってん、よっぽど強く噛んだのでしょう。あわれな下戸は、その後しばらくして下半身がえらく腫れあがって、そのまま死にました。
ばってん、ヒミコには他人にはない才能があったとです。
実際に神の言葉が聞こえるらしいのです。
とくに合戦についての神託がすばらしく、どぎゃん不利な戦況にあっても必ず勝機を見つけます。敵軍の弱点をみつけたり、戦場の地形から敵軍の死角をみつけたり、少数の兵を犠牲にすることで大軍を打ち負かしたりできるのです。
この才能はヒミコの地位を飛躍させました。
ヤマダ国は、伯父が王のときには四つの村を統合した程度の国でしかなく、人口は6千ほどでした。ばってん、父が王位につき、ヒミコが神託をくだすようになると近隣の村々を次々と傘下に入れ、あっと言う間に大国となりました。
クノ国軍が何度も攻めてきましたばってん、そのつど撃退し、そのつど領土を拡げました。今では人口10万です。
ヤマダ国にゃ神がついとる・・・・・・
と人々が言いはじめると、我が国に攻め込む国はなくなりました。
二
ある夜、オイはヒミコに呼ばれました。
ヒミコの館は本城のはなれにあり、常にひと晩中篝火を焚いとります。
奥に入ると女の下戸が数名出てきました。
ぶ厚い麻のムシロのうえにヒミコはあぐらをかいとりました。
大きく膨らんだ黒い乳房が鮮やかな絹織物のスキ間から見え、その上に土器のような顔が乗っており、獣の匂いがしました。
近づくと薄闇の中に鋭い眼光が輝いていて、オイは恐怖を覚えました。
「父王はもはやこん国ば治められん」
ヒミコはそぎゃん断じました。
「こんままじゃ兵は離反し、村々は散じ、ヤマダ国は滅びる。神が告げとる。オメが父王の首を刎ねよ、て」
オイのクチはカラカラに乾き、言葉を発することすらできませんでした。
ばってん、ヒミコはなおも迫ってきました。
「オメはウチの弟で、夫でもある。神ん選ばれし手だ。そん手で父ば討て」
オイはかろうじて声を発しました。
「御意」
その足でオイは父の寝所へ向かいました。
寝台の上で父は疲れ果てた様子で眠っとりまして、うめき声を漏らしておりました。
父はすでに初老でした。
王位についてからは連戦連勝してきましたばってん、その手柄はすべてヒミコのものと伝えられとりました。今では、ヒミコはヤマダ国の顔となり、父はただの飾りでしかなく、王として采配をふるうことはなくなっとりました。
オイが一歩近づいたとき、父は怯えて目を開けました。
「オメか・・・・・・」
かすれた声が闇に響きました。
「ヒミコん命令か?」
父は予期しておったようです。
オイは何も答えず、壁に飾られてあった青銅の矛を握りしめました。
すると、父は起き上がりました。
黒光りする額には深いシワがありましたが、身体はまだ屈強なままでした。
「オイば殺して王となるか? オイも兄を殺して王となった。自らの行いは自らにふりかかる」
父は覚悟を決めたようでした。
自分の顔をつるりとなでて微かに笑いました。
「今朝、ヒミコん様子がおかしかった。そんうち来るなち思うた」
その父の顔を見ましたら、オイの手はふるえました。
オイが怯えてるのを見た父は言いました。
「忘れな。ヒミコはオイたち父子に勝利をふるもうたが、そんだけだけん。他には何もふるもはせん」
その言葉がオイの胸をえぐりました。
オイがたじろぐところを父は見逃しませんでした。
隠し持っとった短剣を出して立ち上がりました。
ばってん、オイは父が立ち上がりきるまえに矛を振り下ろしました。
仰向けに倒れた父は、じっとオイの目を見たまま息絶えました。
ヒミコは、オイが戻るのを待っとりました。
真っ赤な瞳が輝いておりました。が、それは打算の色を帯びとりました。
「ようやった。これで穢れは取り除かれた」
と言い、うすく微笑みました。
三
葬儀は7日間で終わらせました。
王が死んだわりには短かいですが、だれもそのことを言いませんでした。
それで気づいたとです。
ヒミコが言ったことは的を射とったのです。
父はヤマダ国を強大な国にしました。ばってん領民たちからは好かれていなかったとです。ヒミコの神託どおりに合戦ば遂行すると味方の損害が多く、そのことが父のせいにされとりました。勝利はヒミコの功績で、損害は父の責任になってたのです。
兵も民も離れていく、と言ってたのはそのとおりだったと思いました。
葬儀が終わるとヒミコはオイに言いました。
「オメが王んなるとヤマダ国は滅びる。ウチが王んなる」
驚きました。
女の王などは聞いたことがありませんでした。
「そぎゃんこつはだれも受け容れんじゃろう」
と、オイは言いました。
オイが父を殺したのはヒミコを王にするためじゃなかとです。オイが王になるためだったとです。そのことは配下ん者も心得ていて、父の死因についてはひとことも言わず、皆、オイの即位式の段取りを着々とすすめとりました。
ばってん、ヒミコが言いました。
「心配すな。オメは黙って見ておれ。自然とそぎゃんなる」
そんときです。ヤマダ国の南西に位置する小国から連絡が入りました。
「クノ国ん軍勢が北上中。そん数はおおよそ5千。クコチん軍と合流するもよう」
「来たか」
と、ヒミコが言いました。
「王が死んだっち知ったら攻めて来るじゃろうち思うとった」
配下の者たちは皆うろたえとりました。ヤマダ国には1万に近い兵がおりましたばってん、それらは周辺国の監視のためにばらばらに配置されてあり、本城に集められるのは5千ほどでした。
西に陣を築いとったクコチの下には2千人ほどの武士がおりました。これに5千の軍団が合流してしまうとヤマダ国に勝ち目はありませんでした。
ちなみに、ヤマダ国の兵のほとんどは下戸やったとです。つまり百姓兵です。ところが、クノ国の武士はみんな大人です。体格も筋力も下戸たちとはまったく違います。
ヒミコは、はなれの館に戻ると甲冑を身につけて戻って来ました。
これにはだれもが驚きました。
青銅製のその甲冑は黄金のようにまばゆいものでした。それがヒミコの大きか腹と肩を覆い、岩のような頭を包み込んでおりました。
「そぎゃんもん、いつ?」
「オメが王を殺すまえだ。何事にも準備ば整えておくんがウチんやり方ばい」
配下の者たちは口をあけたままヒミコを見ました。
「よかとね。うろたえっ者は逃げようとすっ。ばってん、逃がすな。そんもんたちゃには、目にもんば見せにゃいかん。ウチば見せっとたい」
ヒミコはそぎゃん言うて輿を用意させ、大げさな行列をつくらせて本城の中庭をぐるりと回り、そのまま城門から外に出ていきました。
その後ろ姿を見送ったオイは、ヒミコを王にするほかに自分が生き延びる道はないと確信しました。
急ぎ、オイは自軍の兵を招集し、さらに使者を5方に走らせました。
トシ国、フミ国、イヤ国、ジナ国、ハカタ国――これらの小国とは盟約がありました。
「我が方にはマツラ国からも援軍がくっと」
と、使者には言わせました。
翌日の日暮れまでには各国の軍勢が集まりました。
ヤマダ国の兵が5千。五国の兵が2千。合わせて七千。
数字のうえではクノ国軍と互角になったとです。
ばってん、手勢の兵の顔は暗く、士気はあがっておりませんでした。百姓兵たちは逃げることばかり考えとるようでした。
「マツラ国は遠かけん、援軍はまだ来とらんばってん、必ずくっと」
と、オイは言いました。
しかし、あまり反応はありませんでした。
ばってん、
そんとき、輿に乗ったヒミコが外回りから帰って来ました。
球形のような胴がまばゆく輝いておって、肩には新しくひらひらした絹の布がついとりました。腕は普通の男の3倍の太さで、兜の内側からは土器のような顎とゴツゴツとした鼻が突き出てまして、およそ人とは思われない姿でした。
それを見た兵士たちは大いに驚き、城内はどよめきました。
ほいで、だれかが叫ぶと喚声があがりました。 マツラの援軍のことはどうでもよくなりました。
四
その夜は、濃い霧がでました。鳥も鳴かない気味の悪い静けさのなか、連合軍は城を出ました。
戦場は稲を刈り取ったばっかりの田んぼでした。
霧の向こうで太陽が昇りはじめると、軍団の全容がおぼろげに見えてきました。
我々は太陽を背にしとりました。
霧があるなか、これは有利でした。我々にはクノ軍の姿がよく見えましたが、向こうからはまったく見えとらんかったでしょう。
最初の弓矢が飛ぶと雷鳴のごとく鬨があがりました。
クノの武士団は密集せず、めいめい距離を保ちながら近づいてきました。弓隊と槍隊の区別はなく、弓と槍の両方を持っとるもんが多くいるようでした。ばってん、甲冑をつけている者は少なく、ほとんど丸裸のような者ばかりでした。
ヒミコの作戦は包囲討ちでした。
弓隊を中央に置き、槍隊を二手に分けて左右に回り込ませ、それぞれ地形の凹凸をつかって身を隠させたとです。イネは刈り取られてましたが、畦の草がぼうぼうだったので隠れる場所はいくらでもありました。中央軍は弓矢でクノ軍を引き寄せ、クノ軍が突進してきたところに左右から槍隊を突っ込ませる、という計画だったとです。
クノの武士団は奇声をあげながら突進してきました。クノの弓矢は射程距離が長く、こちらの矢は届かんのにクノの矢はどんどんこちらに降ってくるという状況がしばらく続きました。
弓隊は次々と倒れましたばってん踏みとどまり、地面に落ちたクノ軍の矢を射返しました。 クノの矢はクノ軍にも打撃になったとです。
左右から槍隊が攻めかかるとクノ軍は足を止め、あたりは敵味方が入り乱れる混戦となりました。
しばらくすると霧がはれました。
裸同然のクノの武士たちは素速く動いとりました。重い甲冑をつけている我が軍の兵士たちはノロノロしとりました。
接近戦ではどちらが有利とは言えない雰囲気でしたばってん、そんときは甲冑をつけとる方が有利なはずだと思っとりました。
どちらが優勢かわからん状態が昼すぎまでつづき、やがて双方の動きが鈍くなりました。皆、ノドが渇き、腹が減り、疲労困憊して動けなくなったとでした。
そんとき、ヒミコのしゃがれた声が聞こえました。 「前へ!」
という号令だったとです。
これにより、ヒミコの輿が持ち上げられ、前に出ました。 周囲を守る兵士は20人ほどでした。 仕方なくオイも後について行きました。
どんどん前進していくとクノの武士が次々と起きあがっとるのが見えました。
光り輝くヒミコに向かってクノの矢が集中しました。 ひらひらした絹織物はヒミコの身体にからみつきました。
ヒミコの甲冑はたちまち巨大なイガ栗のごとくなりました。
ばってん、輿は止まりませんでした。
いくら矢を受けてもヒミコは号令をかけつづけました。
「進め! 進め!」
という声はだんだんとかん高くなりました。 進むうちに味方の兵がどんどん集まってきました。
合戦が再開され、周囲で叫び声があがりました。
ヒミコの輿はどんどん進みました。
やがて、我々はクノ軍の本陣にたどりつきました。
そこには百名ほどの武者がクコチを守っとりました。
ヒミコの号令で周囲の兵士が突撃しました。人数は2百人くらいだったと思います。
何が起っとるのか、オイのところからはよく見えませんでしたばってん、しばらくすると鬨の声があがりました。
クノ軍を指揮しとったクコチは脳天に矛を受けたそうでした。
そのことに気づくと、クノの武士たちは戦意を失い、死傷者を背負って戦場を去っていきました。
我々にはそのあとを追う気力も体力も残っとりませんでした。
尚、指揮官が死んでも攻撃をやめないのがクノ軍の怖ろしいところでしたが、このときはそうではありませんでした。
イガ栗のようになっとったヒミコが不気味だったからかもしれません。
尚、ヒミコは甲冑のおかげで頭部や胴や背にはさほど傷がなかったようですばってん、両腕や腿には深傷ばぎょうさん負ったとです。腕や脚はイノシシの皮で覆っていただけだったのです。ばってん、肉がぶ厚かったもんで、どの傷も致命傷にはならんかったとです。
勝ち鬨があがったのは、しばらくたってからでした。 ヒミコは神とあがめらるるごつなりました。
五
ヒミコの勝利は大げさに広まりました。 ばってん、戦闘の結果は惨憺たるものでした。
我が軍の兵は半数ちかくが死傷しとりました。クノ軍側の損害はわかりませんでしたばってん、戦場には死体も怪我人も残さなかったので、半数が死傷するというようなことはなかったはずです。おそらく死傷者は1割か多くて2割だったと思います。 我々は実は負けとったとです。
「こんままではウチらはクノ軍ん餌食になるばい」
と、ヒミコは言いました。
実際、クノ国の王は新しいクコチを任命し、それをクコチ領に送り、再度の総攻撃を準備しとったとです。
下戸たちは怯え、逃げ出す者が出て来ました。
ヒミコはそこで盛大な葬儀を催しました。戦死者のための葬儀です。
百将兵の葬儀などは前代未聞でしたが、下戸を逃がさないためには効果がありました。
その葬儀では、ヒミコは貯蔵してあった酒をすべて放出して下戸たちを歓待しました。
ちなみに、下戸たちはほとんど酒が飲めません。酒は貴重なものですから、太古の昔から下戸たちには与えられてきませんでした。酒を飲みたがる下戸は排除されてきました。それで、酒が飲める下戸はめったにいませんでした。
このため葬儀はえんえんと続きました。酒がなくならんかったからです。
葬儀が10日目をすぎたころ、驚くべきことが起きました。
マツラ国や奴国やトマ国など30もの国々から使者が来ました。そして、ヒミコの勝利を称えました。
それまでヒミコははなれの館で寝とりましたが、使者が来ると起き上がりました。腕や腿の傷はまだ癒えとりませんでしたが、尻には傷がなかったので起き上がることはできたとです。
使者たちがヒミコを囲んで酒を飲み出すと、ヒミコは饒舌になりました。
宴は盛り上がりました。
ヒミコはそこで使者たちに同盟を呼びかけました。
「団結してクノ国ば攻め、その領土ば奪うべし」
ということでした。
クノ国は広大な領地をもってたとです。我々が住んでいるツクシの島(九州)の南半分はクノ国の領地でした。ばってん、クノの民は領地に対する執着はさほどありませんでした。稲作がそれほど普及しとらず、半農半狩猟で暮らしとったからだと思われます。
ちなみに、クノ国がヤマダ国に攻めてくるのは領地が欲しいからではありません。ヤマダ国にクコチを殺されたことがあるためです。つまり、名誉のためでした。
同盟の話は紆余曲折がありましたが、とんとん拍子で進みました。
それで、ヒミコの即位式の日に30カ国同盟の儀式が行われることになりました。
同盟の盟主はヒミコとなり、30の国々はそれぞれヒミコのもとに人質を出し、互いに争わぬことを約束しました。
マツラ国と奴国の合戦以来、ツクシの北部は領土争いが絶えない状況が続いとりました。この頃は、合戦は農閑期の祭りのようなものとなっとりまして、毎年どこの国も必ず隣国と小競り合いをしとりました。合戦によって田の面積が大きくなったり小さくなったりするわけで、合戦は大人たちの才覚の見せ場となっとりました。
ちなみに、合戦の度に百将兵が死ぬわけですが、下戸は放っておくとどんどん増えるもんで、合戦で下戸の数を減らすのは必要不可欠なことでした。なので王たちは、最初は30カ国同盟に難色を示しました。隣国と合戦ができなくなるからです。そこで、オイは何度も使者を往復させ、
「小さな合戦ばやめてクノ国と大きな合戦ばやるべし」
と説きました。
隣国と小競り合いをしても得られる領土は知れたもんでしたばってん、クノ国の領土をとるとなれば得られる領土は破格のものとなるはずでした。
とりあえずは、クコチ領を奪う話をしました。
同盟軍がクコチ領を攻めたのは、同盟が成立した直後でした。
兵数は5万以上となりました。用意した矢の数は数えきれません。対するクノ軍の武士の数は前回同様に7千前後でした。
同盟軍はここぞとばかりに激しく攻めました。
ばってん、クコチ領を征圧することはできませんでした。
クノの武士たちはこのときも裸同然でしたが、盾(たて)を持ってきとりました。そして、この盾が我々の攻撃をはね返しました。弓矢が役に立たず、接近戦では百姓兵はクノの武士団にかないませんでした。同盟軍は苦戦し、大人の将もぎょうさん命を落としました。
ばってん、この後、さすがのクノ国も我が国に攻めかかることがなくなりました。同盟国もクノの武士たちの強さに面食らってしまい、さらなる攻撃には踏み切れんようなりました。
問題となったのは下戸の人数の件でした。
同盟国の王たちは下戸の子どもがどんどん増えるのをなんとかせねばならなくなりました。
下戸を生口として東方の国々に売りとばすのは以前から行われておりましたが、このときからその人数がどっと増えました。
イヨの島(四国)やヤマト(畿内)の大人たちは下戸のムスメを歓迎しました。そして、そっちの方では下戸のムスメが産んだ子を統領にするようなクニも現れました。
六
タイファンキュン(帯方郡)というところから魏王朝の使者が来たのはクコチ領を攻めた五年後の夏でした。
「この度、スゥマイ(司馬懿)がクンスン(公孫)のシアンピェン(襄平城)を攻め落とし、タイファンキュン(帯方郡)をンウェイ(魏)の領土とした。今、タイファンキュン(帯方郡)で近隣諸国の王たちの朝貢を受け付けている。オーラ(倭)の王も来るがよい」
というのが、その使者の口上でした。
ヒミコはこれにはまったく興味を示しませんでした。
「なんば言いよるかわからんヤツらめ!」
と言い、
「斬って捨てんね」
と指示しました。 このとき、
「ちと待っときんしゃい」
と言ったのは奴国から来ていた人質のもんでした。
奴国王は魏からの金印が欲しくて魏王朝が成立するとすぐに朝貢しました。ばってん、漢の金印をもらっていたために魏は奴国王に冷淡でした。漢の時代は終わったのだということでした。それで奴国王はついに魏から金印を受けとれず、そのことで権威を失い、配下の将たちに離反されました。
「魏の方から招待されるごたぁこつは本来あり得んとですばい。こん朝貢がうまくいけば30カ国同盟ばもっと強固なもんにできっとです。朝貢ばすれば高価な返礼品ばもらえますし、ひょっとしたら金印も・・・・・・」
ばってん、オイもヒミコも田舎もんでした。
洛陽がどのような都市かも知りませんでしたし、洛陽に朝貢していた奴国がみじめな状態になったことしか知りませんでした。
それでも、ヒミコは奴国のもんの話を無下にできないと考え、生口10人と木綿の織物を献上品として楽浪郡に持って行かせることにしました。織物は2匹2丈(幅1.3m×6mほどの布が2枚)で、これにはちょっとした模様がついとりましたばってん粗末な品でした。その品を魏の皇帝に献上する役目には2名の官吏ば選び、人足と数名の護衛もつけ、魏の使者の船に乗せました。 奴国の者はこの使節の規模があまりにも小さかったことに何事か言いたいようでしたばってん、はっきりとは言いませんでした。
官吏2名と護衛の者たちが戻ってきたのは、翌年の年末になってからでした。これには帯方郡の役人2名もついて来ました。
そして、多大な返礼品が届きました。
錦の織物8匹(1.3m×6mほどのものが8枚)、毛織物一五張(1.3m×6mほどのものが15枚)、絹150匹、金八両(30g×8)、長刀2ふり、銅鏡100枚、真珠、鉛丹(赤い顔料)が各50斤(250g×50)、というのがその返礼品でした。
また、官吏2名はおのおの魏の役人にとりたてられ、銀印をさずけられとりました。
そして、ヒミコには金印が届きました。
魏の皇帝からの書状もあり、帯方郡の役人が読み上げました。
奴国の者はこれらの品に腰ば抜かしました。
奴国は190年ほど前から何度も洛陽に朝貢していたのですが、こぎゃん返礼品をもらったことはなかったようです。しかも、ヒミコに授けられた金印は奴国王に授けられた金印とはまるっきり違うもんだったようです。奴国の者の話では、まず、その大きさが3倍以上だそうです。
そればかりではなかです。
ヒミコは、魏の西方にある大月氏(クシャーナ朝)という国の王と同格のあつかいになっとったようです。その大月氏という国の領土は魏の領土よりもずっと大きかったらしいです。
さすがのヒミコもそれらの返礼品には驚いたようでした。
オラは、こちらが献上した品物があまりに粗末であったことに引け目を感じました。
それで、再度、この3年後に魏への使節団を派遣しました。官吏は2名から8名に増やし、献上品は、倭錦、勾玉、丹、短弓矢などで、最初の献上品よりずっと豪華にしました。ただ、生口の数は初回と同様の10人になりました。生口はイヨの島(四国)やヤマト(畿内)に送れば高値で売れるようになっていたので、ヒミコは出し惜しんだとです。
尚、すぐに派遣しなかったのは、魏のしきたりで朝貢は3年に1度という決め事があったためです。
この2回目の朝貢の返礼には種々の貴重な品の他に黄色い旗が届けられました。ばってん、これは初回に朝貢したときの官吏に対して与えられたもんでした。
ヒミコはその官吏が自分を裏切って魏と通じとるのかと疑い、これば誅殺しました。
ヒミコが魏に使節団を派遣したのはこのあとの3回目が最後です。
このとき、返礼に来た魏の使節団はマツラ国を訪問したいと申し出ました。
ばってん、ヒミコはそれを拒否しました。
「魏ん皇帝はウチとん関係ばやめてマツラち手ば組む気ばい」
と言っておりました。
ばってん、魏の使節団の申し出を拒否するわけにはいきません。
オラは、仕方なく魏の使節団をマツラ付近の砂浜に上陸させ、案内人に命じてそこから山道ばえんえんと歩かせました。山道というよりも獣道と言ったほうがいいような箇所がぎょうさんあったようです。案内人は使節団をさんざん連れ歩いたあげく、マツラの都に立ち寄ることなくそのままイト国の港に行ったようです。
使節団は疲れきり、汗と泥で衣服が汚れたこともあり、そのままイト国の港から引き返して行ったようです。
ヒミコが死んだのはその直後でした。
死因は公表されてません。
殺されたのです。
殺したのはオイでした。
これ以前から、30カ国の同盟は女王を中心とした連合に変わっとりました。ヒミコの立ち場は同盟の盟主から連合国の総帥に変わっとりました。
神とあがめらるる女王となったヒミコはそれまでとは別人になりました。
巨大な館を造営させ、千人もの女官をかしずかせ、贅をこらした着物ばかりを着るようになったヒミコは、だれとも会おうとしなくなりました。まれに命令を下したと思うと、それは過酷なものばかりでした。
マテラという国の領土を勝手にとりあげてしまったり、マツラ王の息子を暗殺させたり、弁韓で鉄をつくっていた国々を直轄領にしようとしたりしました。
このためマツラ国や奴国やトマ国などは離反しかかっていました。連合の絆を維持するためにはヒミコば殺すしかなかったとです。
ばってん、それだけのことならばオイは何もせんかったでしょう。
あるとき、ヒミコはオイがヒミコと一緒に暮らさず、他の女たちと暮らしていることを責めはじめました。
「オメはウチん夫ばい」
と言うのです。
オラは驚きました。そぎゃんことを不満に思っていたとは夢にも思いませんでした。
「世間には弟ち言ってある。別々に暮らすんはあたりまえではないか」
と、オラは言いました。
すると、ヒミコはそこに置かれとった小さな銅鐸を鳴らして女官たちを呼び集めました。
「こん男はウチんこつば姉だと言っとるが、実は夫っちね。どぎゃん思う?」 と、ヒミコは言いました。
女官たちは閉口し、なにを言えばいいのかわからんようでした。
するとヒミコは言いました。
「ウチはこん男に抱かれたことがなか。どうして夫ち言うとか?」
女官たちのうちのひとりが思わず言いました。
「そいはひどうございます。夫には夫のつとめがありんしゃる」
それは冗談でした。
ばってん、ヒミコには冗談ではなかとでした。
「オメはウチばないがしろにしとる」
と、ヒミコは言いました。
「なんば言う。オイがおるからオメはこぎゃん大きな館で暮らして、贅沢んかぎりばつくしとっと」
と、オイは言いました。
すると、ヒミコは、
「オメはもういらぬ。別の男ば夫ちする」
と、言いました。
ヤマダ国では、男は複数のオナゴを妻や妾にすることができましたばってん、オナゴにはそういうことが許されてませんでした。ヒミコにはそれが気に入らんようでした。
そして、そのため、オラは自分の地位を奪われることになりました。
オラは、その夜、心に決めました。
眠っていたヒミコの太い首に手をかけたとき、ヒミコは目を開けました。
殺そうとしとるんがオイだと気づくと不敵に笑い、
「生まれ変わっちゃる」
と言いました。
オラは渾身の力ば込めてヒミコの首を締め上げました。
すると、ヒミコは枕元にあった小さな銅鐸をつかみ、鳴らしました。
女官たちが集まってきたときにはヒミコは息絶えとりました。
翌朝、オラは王になり、30カ国連合の総帥になったとですが、やった仕事といえばヒミコの墓ばつくったことくらいでした。
ヒミコが生まれ変わらんよう、深く穴を掘らせ、ヒミコが気に入っとった鏡や勾玉などばすべて一緒に埋めさせ、さらにヒミコが気にいっとった女官を百人余り殺して一緒に埋めさせました。これに大量の土をかぶせると、その墓はこんもりとした小山のようなものになりました。その上にはいくつも大きな石ば乗せました。
すると、その墓はかつて見たことのない立派なものになりました。
その墓ができあがった翌日、奴国の軍団が攻めてきました。
あっと言う間のできごとでした。
ヤマダの本城は焼かれ、オイははりつけにされました。
ヒミコが生きとったらヤマダ国が負けることはなかったち思います。
第四章 ヤマト朝廷の成立
一
ワレはカハチ(河内)の百姓でございま。父は大人で、母はノの国(奴国)から売られてきた下戸でおま。父の父はイヨの島(四国)からやってきた武士団のひとりやったそうですが、顔は知りまへん。聞いたところでは、この地にやってきて王家をつくったゆうことですが、その王家は滅亡しよったそうです。 ちなみに、その祖父の王家を滅亡させよったのもイヨの島からやってきた武士団やったそうで、その武士団がつくった王家はまだ残っておます。
せやけど、王家と言いましても大層貧乏な王家なようで、屋敷なんかはワレんとことなんも変わらしまへん。ちいとばかし大きよってなんぼか見栄えはしてますが、しょせんは藁でふいた屋根だけの屋敷でおま。柱かて細い細い。
その王さんは、
「ワレはカハチ王や」
ゆうてますけど、そのカハチゆうのんはワレの母親の出身地でおます。ノの国(奴国)にある村の名前やそうで、母親がここに売られて来よってから勝手に自分んとこの村の名前をつけよったんですわ。
それまでは皆、
ヤマト
いうてたそうですが、ヤマトいうたらそこらじゅうみんなヤマトやさかい、だれかに場所を訊かれて「うちはヤマトや」言いましてもヤマトのどこやらわからしまへん。そんで、「うちはヤマトのカハチや」ゆうてたそうです。そうしましたらみんなここをカハチて言うようになったそうです。
カハチいう土地は湖に面しとりまして、川筋をたどれば海にも出られます。海に出ればアフツ(淡路島)が目と鼻の先やし、アフツを超えたらアフ(阿波)に渡れますし、ウチウミ(瀬戸内海)をずうっと行けばキピ(吉備)にも通じとりま。
せやからカハチ王は貧乏やけど、あちこちの国に仲間や親戚を持っとりまして、鉄も手に入ります。
鉄はツクシ(九州)の方からも来ますんが、アフツ(淡路島)でもつくっておま。
カハチ王の何代か前はその鉄をつくる職人やったらしいです。
アフツに来るまえは、ずうっと遠くのクノ国ゆうところにおったそうで、そのまえはツクシの北のカの国(夏国)ゆうところの王家の者やったと言うてはります。
そのカハチ王の名前ですけどな、
イバレ、
言うそうです。
ひとり息子だす。兄弟はおまへん。
二
イバレ王が嫁はんをもろたんは、五年まえのことだす。嫁はんは湖の東側で鍛冶屋を営んでおった家の娘だす。
イソゾ、
ゆう名前ですわ。
ここらへんでは鉄の入った砂はとれんさかい、イソゾの家は鉄のかたまりをアフツ(淡路島)から取り寄せておりました。イバレ王の何代か前のもんはそのアフツの鉄職人をやってたらしいので、そのすじの縁がありましたんやろな。
ちなみに、イソゾの父親の名前は、なんぼ聞いても思い出せまへん。けったいな名前だす。せやけど、働き者で朝から晩までタタラを踏んどりま。
あるとき、イバレ王は、
「鉄の鋤・鍬つこて、もっと田を増やすべし」
て、言わはりました。
カハチでは、鉄は貴重品やさかい、農作業にはみんな木でつくった道具をつこてます。
せやから、鉄の鋤・鍬をつこて、なんて話はまともに聞いとりまへんでした。せやけど、しばらくするとイバレ王はワレの村に鉄の鋤や鍬を5本ずつ置いていかはりました。隣の村にも配ったそうだす。
女房の実家につくらせたんでしょうな。
貧乏な王さんやのに、えらいこっちゃと思いまして、それからみんな開墾作業に励みましたわ。
そうして米がぎょうさんでけるようなりましたらな、どこからともなく強盗団がやって来よりました。
人数は20人ほどやったんですが、みんな怖いので黙っとりました。
言葉がワテらとはちごうてましてな、何言うとるんかわからしまへん。着てるもんはえろう高価な絹織物みたいなもんを着とりまして、持ってる武具も高価なもんなんですわ。
せやけど顔が怖い。それに、おなごを見ると犯します。腹にすえかねて、やめや、ゆうたら殺されます。
えらいことになりました。
そうすると、イバレ王が出て来はりましてな、
「皆で戦うぞ」
言いますねん。
王には手下になる武士が5名ほどおったんですが、それだけでは足らんので、ワレら百姓も戦え、ゆうんですわ。ワレなんかは怖いもんでぐずぐずしとりました。そうすると、
「ワレ何さらしとんねん!」
言われましてな。しゃあないからワレも武士団に入りました。
せやけど、百姓には槍も矛もあらしまへん。
王さんにもろた鉄の鋤や鍬があるだけですがな。
そうしましたら、イバレ王は、
「そんでええから、やれ」
言わはるんですわ。
そうするうちに人数がけっこう集まりましてな、
みんなで囲んで盗賊団ば叩き殺しました。
ただ、イバレ王は盗賊団の統領だけは生かしておきましてな、
「あちこちで盗んだ金品を出せ。出せば殺しはせん」
言わはりました。
強盗団の統領はなんとなく言葉がわかったらしく、宝の隠し場所を吐きよりました。
それで、その隠し場所からぎょうさんいろんなもんをみつけました。
せやけど、イバレ王は、まだもっとあるはずや、言わはりましてな、
「別の隠し場所についても言え」
言わはるんですわ。
しかし、盗賊団の統領はシラをきりよりました。
「他にはない」
みたいなことを言いよりました。
そうしましたらイバレ王は鍋に湯をぐらぐら沸かしよりまして、その鍋のなかに石を落としまして、
「拾え」
言わはるんですわ。
「拾ろたら信じたる」
いうことですわ。
隠し場所をゆうたら殺さん、ってゆうてしもうたさかい、殺すぞ、とは言われんもんで、それで石を拾え、ゆうことになったんですな。
せやけど、ぐらぐら沸いた鍋の石なんぞよう拾いませんがな。
だいたい、そげな拷問は初めて見ました。みんな驚きましたわ。
統領は結局、もうひとつの隠し場所を吐きよりました。
そこにはけっこうな銭がありましてな。ツクシの先の大陸から持ってきたもんのようでした。
それで、貧乏やったイバレ王はけっこうなカネ持ちになりよりました。
そうしましたらな、イバレ王はまた鉄の鋤や鍬を皆に配りましてな。おかげで、カハチの田はしばらくすると3倍ほどに増えました。
ほいで、みんな人手が足らんようになりましてな、ツクシの方やらキピの方やらあちこちから下戸を買うてきましたわ。
カハチは人の数も増えて、田も増えて、えろう大きな国になりよりました。
しばらくすると、カハチ王はヤマト王と名乗りを変えまして、カハチの奥のカシハラゆうとこに都をつくりはりました。こんときも現地の者と小競り合いがあったようです。
第五章 秦氏
一
ワタクシは、クチャ国の生まれです。
漢語では亀茲国と書きます。
これはタクラマカン砂漠の北側にあるオアシス国家です。
父はユダヤ人です。
ハドリアヌス(76年~138年)というローマ皇帝に攻められて故郷を追われた者の末裔です。
で、父の祖先はクチャ国のさらに北の山脈を越えたところに村をつくってました。
ゴンユエ(弓月)、
という村です。
父はその村からクチャ国に移住してきました。
クチャ国では葡萄酒やら鉄やら銅やら塩なんかを商っており、それなりの財をなしました。母はソグド人で、父の第二夫人でした。
クチャ国では、あちこちから商人や職人が集まりまして、皆、暮らしぶりはよかったです。黄金をたっぷり貯め込んだ者も多数ありました。葡萄酒は高級なものもよく売れました。
しかしながら、ワタクシは第二夫人の子でしたので父の商売を継ぐような境遇にはなく、王家の奉公人として子どものうちに家を出されました。
ワタクシが王宮に召された日のことは、今でも鮮明に覚えております。8歳のワタクシは長いヒゲをのばした侍従長に連れられて奥へと進みました。
青や緑の鮮やかな色彩で彩られた回廊には仏陀が教えを説いている図などがいくつもありました。何度も角を曲がり、やがて小さな庭園に面した部屋に通されました。
そこにはワタクシと同じようにして召し出された子が5人ほどありました。正面には、高貴な衣装をまとった姫さまが金と銀の細工をほどこした椅子に腰かけておられました。
姫さまがワタクシを指さすと、侍従長はワタクシ以外の子どもたちを下がらせました。
「近う寄れ」
姫さまは澄んだ声を出されました。ワタクシは言われるままに前に進み出ました。
まばゆいお顔が目にやきつきました。
「名を申せ」
「父からはヨセフと、母からはユースフと呼ばれております」
姫さまはそれで、ワタクシがユダヤ人とソグド人の子であることがわかったようでした。それで、
「言葉はいくつ話せる?」
と、おっしゃいました。
「3つのみです」
と答えると、
「そうか、あと4つは覚えよ」
と、おっしゃられ、ニッコリと微笑まれました。
ワタクシはどうしてよいやらわからず、その場にひれ伏しました。
このとき、ワタクシは姫さまに気に入られたようです。
姫さまは後のクチャ王陛下の妹君でした。当時は23歳でいらっしゃいました。そして、すでにお子様がいらっしゃいました。その子こそ、ワタクシが生涯つき従うことになりましたお方でございます。
名は、
クマラジーヴァ、
と、おっしゃいます。
漢語では鳩摩羅什と書きます。
二
姫さまは18歳でご結婚なされました。
お相手は留学僧でした。カシミール(罽賓)という国のバラモン貴族の家の方で、姫さまより10歳は年上だったと思います。
姫さまはけっして旦那さまのお世話をおろそかにすることはありませんでしたが、しかし、旦那さまは、ワタクシが姫さまにお仕えするようになった翌年にカシミールに戻られました。
僧であられましたから修行をせねばならなかったのですが、もともとクチャ国で結婚するつもりはなかったようです。
漢土へ仏法を広めるための旅の途中でクチャ国に立ち寄ったところ、陛下に歓待を受け、陛下の要請で姫さまとご結婚されたのでした。
旦那さまが帰国されると姫さまは悲しまれましたが、それでも息子を育てることを生きがいになされました。
そして、クマラジーヴァさまが七歳になられると、姫さまは息子ともども出家されました。
そして、その翌年、姫さまはクマラジーヴァさまとカシミールに遊学することをお決めになられました。
旦那さまに息子の姿をお見せしたかったのだと思います。
しかしながら、カシミールまでは遠ございました。
姫さまは30名からなるラクダ隊を編成されて、水や食糧などを念入りに手配されましたが、崑崙(クンルン)山脈の北側を越えるときには水も食糧も尽きかけました。高山病で倒れる者もありました。行き会った行商人から高額の銭を支払って食べものを買うことがありましたが、水を売ってくれる者はおらず、難渋しました。
それでも姫さまは気丈にふるまわれ、ラクダ隊の皆をはげまし、なんとかカシミールにたどり着きました。
しかしながら、旦那さまはカシミールにはいらっしゃいませんでした。家財を売り払って修行の旅に出られたそうです。
姫さまは気落ちされましたが、それでも、息子のことに専念されました。
クマラジーヴァさまはバンドゥダッタ(槃頭達多)という高僧の弟子になられ、3年間ほど修行され、主にテーラワーダ仏教を学ばれました。これはパーリー語で書かれたもので、仏陀の弟子たちが仏陀の教えに従い仏陀の教えを口語で伝えたものです。パーリー語はサンスクリット語のような古語ではなく、一般民衆が使っていた俗語なので子どもにもわかりやくかったかもしれません。
3年間のカシミール滞在はあっという間でした。
クマラジーヴァさまはなんでもすぐに覚えてしまわれ、論理だった思考に長けておられたのでバンドゥダッタさまからよく褒められていましたが、この頃はまだ有名人ではありませんでした。
ちなみに、僧院などではよく問答を行います。
これは学業における真剣勝負です。
クマラジーヴァさまはその問答がお得意でした。
何を訊かれても即座にお答えになられ、バチンと手を打って相手を指さしながら質問を返す姿はだれの目にもまぶしいものでした。
3年間はあっと言う間でした。
帰国の途は大変でした。
大量の書物を持ち帰ることになったからです。
なのに、途中で立ち寄ったカシュガル(疏勒国)でクマラジーヴァさまが新しい教えに触れてしまい、そこに1年間も滞在することとなりました。
その新しい教えとはマハーヤーナ(大乗仏教)です。
それをご教示されたのはヤルカンド国(莎車国)の王子のスーリヤソーマ(須利耶蘇摩)という高僧でした。
カシミールで小乗仏教を学ばれたクマラジーヴァさまは、ここで思想転換されました。
後に、クマラジーヴァさまはこのときのことを弟子たちに語るにあたり、
「小乗を学んでいたころは、金の存在を知らずに銅を最上のものと思い込んでいたようなものであった」
などと語られました。
その1年は、ワタクシにとっても貴重な時間となりました。
カシュガルは東西の交易の中心地で、カシミールよりも美味しいものが食べられましたし、いろいろな国の人間を観ることができました。漢人の友人もできまして、漢語を学ぶこともできました。
姫さまに言われたとおり、4つの言葉を新たに覚え、7つの言葉を話せるようになったのはこのときでした。
そして、父が話していたアラム語も読めるようになりました。
これにより、ユダヤの律法(トーラー)、預言書(ネビイム)、諸書(ケトビム)を読めるようになりました。
帰国後のクマラジーヴァさまはクチャ国の僧院にはいられました。
持ち帰った膨大な経典の写本づくりをすすめるかたわら、若い僧を集めて講義をされることもありました。
それから問答もよく行われました。
クチャ国にはいくつも僧院がありまして、それらのなかから挑戦者がときどき現れました。遠い異国からの挑戦者も希にありました。相手がみつからないときにはワタクシがお相手をすることもありました。千回に一度くらいはワタクシも勝つことがあり、そういうときはこっそり大酒を飲んで祝いました。
三
クマラジーヴァさまが40歳になられたときのことです。
大秦(前秦)を名乗る王朝の騎馬軍団がクチャ国に攻めてまいりました。兵士の多くは羌(チィァン)族でしたが、漢人や鮮卑(シェンペイ)族なども混じっていました。
クチャの王は勝てると考え、投降せずに戦うことを宣言しました。
すると、大秦軍は陣地を築き、溝を深く掘り、土塁を高く積んで多数の兵をその土塁の上に立たせました。
クチャの王はこれに気後れし、城内に兵を入れて籠城の構えに入り、私財を放出して西方の遊牧民に援軍をたのみました。
援軍は70万に達したと聞きましたが、この数字は誇張されていると思います。それでも、とにかく、クチャ国は兵数で大秦軍をしのぎました。
あとでわかったのですが、大秦が防塁の上に立たせた兵士たちのほとんどは木の人形に甲冑を着せただけのものだったそうです。
しかしながら、決戦してみますと、クチャ国側の惨敗となりました。
王は珍品や宝物を持って逃走しました。
このとき以来、姫さまにはお目にかかっておりませんが、兄さまと一緒に逃げられたのならよかったと思っております。
大秦の軍が城の中に入ってきたとき、ワタクシはクマラジーヴァさまとともに僧院におりました。
窓から覗き見ていると、軍団はすぐに酒盛りをはじめました。
彼ら蛮族にも高級な葡萄酒の味はわかったようで、兵士たちは浴びるように酒を飲み、その日はそのまま何も起こりませんでした。
大秦の軍団を指揮していた者は、
呂光(リョコウ)、
という名前の者でした。
テイ(氐)族の出身でした。
呂光はクチャ王の弟君を新たなクチャの王としました。
これにより、クチャ国の民はもとより、クチャ国の周辺国の王たちも安心し、呂光への忠誠を誓う者が続々と出てきました。
ただし、呂光はワタクシやクマラジーヴァさまにとっては大変なお方でした。彼は大秦の王からクマラジーヴァさまを捕虜として連れ帰ることを命じられていたのです。
そして、その件については問答無用でした。
「来い」
と言われて、ワタクシも一緒にそのまま捕虜となりました。
このとき、呂光はさらなる西征を考えていたようですが、クマラジーヴァさまは呂光のまえに出られ、
「ここは不吉な土地です」
と、おっしゃられ、長安(チャンアン)に引き返すよう提言されました。
呂光はクマラジーヴァさまのことを小ばかにしておりましたが、配下の兵たちも帰りたがっており、このときはクマラジーヴァさまの提言を入れて引き返すことにしました。
ところが、東方のターパン(高昌)まで行き、そこで合戦になり、呂光がターパンを征圧したときに驚くべき知らせが入りました。
大秦王の苻堅(プーケン)が淝水(ベイシュイ)に陣を張り、そこで晋(ツィン)と戦ったのですが、百万の軍勢を擁しながらたった8万の軍勢に負けた・・・・・・
ということでした。
このため、長安は混乱状態に陥り、苻堅政権は時間の問題となった・・・という予測が飛び交っているようでした。
呂光はそれでもドゥンフアン(敦煌)で補給を行い、涼州(リャンチョー)まで行きました。しかし、そこで行軍を止め、涼州の城に腰を降ろすと独立を宣言いたしました。
呂光が涼州に入ろうとした際、これを阻止しようとした大秦の将軍がおりましたが、呂光はその軍勢を破り、将軍を殺しました。
この後、呂光はまず、涼州牧(リャンチューモク)を名乗りました。これは大秦が地方支配を任せた者へ与える官職名です。
が、呂光は翌年には酒泉公(ツェウツィエンクン)を名乗りました。これは王に次ぐ爵位です。
そして、呂光はその翌々年に三河王(サムグァフアン)を名乗りました。これは黄河西岸地域を統治する王ということでした。
そして、呂光はその七年後には天王(ティエンフアン)を称します。これは皇帝に次ぐ称号です。
クマラジーヴァさまは、この間、ずっと城の中に幽閉されておりました。
呂光は閑を見てはクマラジーヴァさまのところを訪ねられ、
「僧をやめよ」
と言い続けました。
そして、戒律を破ることを強制し、酒を飲ませたり、妻帯させたりしました。
クマラジーヴァさまにとってはひどい仕打ちでした。飲酒や妻帯は戒律を破ることですから、クマラジーヴァさまはこれによって破戒僧となりました。
しかし、クマラジーヴァさまは破戒僧となったことよりも、父上のことをしきりにおっしゃられました。
「父も母と結婚した。しかし、父の結婚は菩薩行であったにちがいない。わたしの結婚はそうではない」
ということでした。
女人との合歓は快楽に通じますが、そこに大義があれば他者の利益になります。他者の利益が大きければ個人の快楽はあってなきがごとしです。しかし、クマラジーヴァさまの結婚にはその大義がなかったのです。大義のない快楽は心を溶かします。僧としては、恥ずべきところの極みでした。
クマラジーヴァさまは幼いときに見た父上のことしかご存知ありません。立派な僧であられたと信じておられ、そのこともあってご自分の気持ちを整理することに苦悩されておられたようです。
ただ、呂光はクマラジーヴァさまがクチャ国から運んできた経典や種々の書物を取り上げるようなことはいたしませんでした。それが唯一の救いで、クマラジーヴァさまは勉学に打ち込まれました。
ワタクシは、ユダヤの書を所持しておりましたが、それらも取り上げられるようなことはありませんでした。
幽閉は17年間におよびました。
呂光は14年目に病没し、その後継者争いで涼州は弱体化しました。
そして、そこに姚興(イエウヒエン)さまが軍を派遣され、クマラジーヴァさまは解放されました。
姚興さまは羌族の者で、仏教徒でした。
大秦(後秦)の天王を称していましたが、苻堅の後継者ではありません。苻堅を殺して大秦の皇帝を称された姚萇さまの息子でございます。
四
姚興さまは我々を長安(チャンアン)に招き、来賓としてあつかわれました。
そこで、クマラジーヴァさまは国師(クゥオクスリ)となられました。
国師とは、皇帝の師でございます。
漢土ではすでに仏教が隆盛となりつつあり、多数の僧が活躍していました。
その漢土の第一の都市であった長安は大都会でございまして、その規模はクチャ国とは比べものになりません。
城壁の内側には数十万の民が暮らし、市場には世界中の品物が集まり、夜になっても灯火が絶えることはありませんでした。
姚興さまは、その長安の郊外にクマラジーヴァさまのための庭園をつくられ、その中に寺院を建立されました。庭園の名前は逍遥園(シァウイエウユエン)で、寺院は草堂寺(ツァウダウズィー)と名づけられました。草堂となったのは屋根が草でふかれていたからです。質素で風通しがよく、気持ちのいい僧院でした。この草堂寺は漢土で初めてつくられた国立の訳経所でございます。
クマラジーヴァさまはすでに仏法世界では有名人でしたが、長安に来て国師となられてからは天人のようになられました。
そして、経典の漢訳を開始されると世界中から門弟が集まってきまして、その数は百名を超えました。訳経事業に参加された者たちの総数はクマラジーヴァさまが亡くなられた時点では3千以上であったでしょう。
門弟が増える度に草堂寺は何度も増築され、やがて城のようになりました。
多数の門弟のうち世に名前が響いたのは4名で、それらは、
四哲(シィーツァト)、
と呼ばれました。
それら4名のうちのひとりに道融(ドゥリウン)という僧がおり、これはクマラジーヴァさまが老いると、その訳経事業の中心人物となりました。他の3名はそれぞれ名を成して独立して行きましたが、道融は最後までクマラジーヴァさまの下で事業を継続しました。
しかし、クマラジーヴァさまも永遠には生きられず、弘始15年(413年)、入滅されました。
享年70でした。
末期の水をさしあげたのはワタクシでした。
遺体は火葬しました。
骨灰は黄金でできた蔵骨器に納め、新たに立てられた舎利塔に保管しました。
入滅間際のクマラジーヴァさまは、
「火葬してもワタシの舌だけは焼けずに残るかもしれない」
と、おっしゃられましたが、そのようなことはありませんでした。
葬儀はかつて見たことがないほど盛大なもので、百名をこえる僧が集まりまして昼夜を問わず読経が続けられ、これが10日以上催されました。
焚かれた香の量は千斤(約222kg)を超えました。
炊かれた米は9千斤(約2t)でした。
葬儀が終わると、草堂寺には米が2千斤、銭が2千貫残りました。
この後、道融は訳経事業の中心人物ではなくなり、クマラジーヴァさまが残された膨大な量の巻子本の整理をはじめられました。
ただ、草堂寺での訳経事業は継続され、建物の増築も続きました。
しかしながら、弘始18年(416年)、姚興さまが逝去されました。
長安はこのときから不穏な状態になり、大秦国内では内紛が絶えなくなり、南側の国境で接していた晋国も国境を脅かすようになりました。
ワタクシは、王を失った国がいかに脆いかを何度も見ておりました。
なので、草堂寺に居つづけることに危険を感じておりました。呂光のような野蛮人が王となって長安を征圧したりすれば、我々のような者がどんな目にあうかを簡単に想像できました。
五
「逃げましょう」
と、道融に言ったのは姚興さまが逝去された翌年でした。
ワタクシは、74歳になっていましたが、まだしばらくは動けそうでした。
道融も歳をとっておりましたが、ワタクシよりはずっと若く、壮健でした。
「しかし、文書の整理がまだ終わっておりませぬ」
と、道融は言いました。
道融はそのとき書庫で巻子本の整理をしていました。仕事に打ち込むことで不安な気持ちをそらしているようでした。
「このままここで一生をすごすつもりですか?」
と、訊ねると、道融は自分のつま先に目をやりました。
巻子本などはいくらきちんと保管していても、建物が焼かれればそれまでです。
そのことを言うと、道融は言いました。
「逃げる先のあてがあるのですか?」
あてはありませんでした。クチャ国は遠すぎました。兵団の援護もなしに行くのは危険でした。
ただ、銭がありました。クマラジーヴァさまの葬儀で残った銭がそのままになっておりました。
で、ちょっとだけ小耳にはさんでいたことがありました。
ウアイ(倭)という国の王が文字を使える者を欲しがっているというのです。
道融のように名のある僧ならば国師待遇で受け容れてくれるかもしれないと思いました。
「ウアイですか?」
と、道融はわたくしの顔を見ました。
「そういえば・・・」
と、道融は言いながら書庫の奥へと歩き出しました。
草堂寺の蔵書は経本が主でしたが、そればかりではありませんでした。西方の歴史や文化や地理に関するものもあり、我々はそういうものを漢語に訳す仕事もしておりました。そして、参考資料として古い歴史書などもありました。それらが奥の棚にまとめて置かれていました。
古い書物は紙ではなくて竹簡に書かれてありました。
道融は大汗をかきながらそれらの中から大きなひと束を降ろし、
「これは、魏の時代の書物のうちの東夷伝です」
と、言いました。
広げてみるとウアイについての記事がありました。
女王国に内乱があったが収まったというようなことが書かれてあり、草深い田舎であるような記述があり、水人は沈没して魚や蛤を捕る、とか、薑(しょうが)、橘、山椒、襄荷(みょうが)があるが、それを使って滋味(うまみ)を出すことを知らない、とあり、また、婦人は貞節で嫉妬しない、とか、窃盗せず、訴訟も少ない、というような記述もありました。
質素で穏やかに暮らす人々が、いざとなると果敢に戦うという情景が浮かびました。
「仏法を伝えるには理想的な国ですな」
と、ワタクシは言いました。
道融の目にも輝きが現れました。
場所については、帯方郡から南東に向かって1万2千里で都に着くとなっていました。
「帯方郡とはどこだろう?」
と、ワタクシが言いますと、道融は、
「昔の地名です。もうありません。百済(ペクツェイ)のあたりです」
と、言いました。
「船を用意して黄河を下り、百済までたどり着けば、あとはなんとかなりそうです。ウアイは百済と同盟しています」
と、ワタクシは自分が知っていることを言いました。
道融は、
「遠いですなあ」
と、言いました。
ワタクシは笑いました。
ワタクシにとってはすぐ隣の国に思えました。
クチャ国からの旅を思えば1万2千里などは旅のうちには入りません。
その夜、長安の城郭内で騒乱がありました。多くの家屋が焼け、死人も多数でているようでした。草堂寺は城郭の外にあったので騒ぎにまきこまれることはありませんでしたが、僧たちはみな不安な顔をしておりました。
翌朝、ワタクシは手の者を集め、ウアイ(倭)について調べさせました。
王の名はホムタ(品陀)となっていました。国号は、
ダァイウアイ(大倭)
となっていました。
強大な兵力を持っており、高句麗(カウクウリイ)や新羅(シンラァ)と戦っているようで、鴨緑江(アプルククアン)まで攻め登ったことがあるようでした。
金官伽耶(キムクワンゲヤ)に大きな拠点があり、本拠地は細長い南の島の奥の方にあるようでした。
高句麗と戦えるほどなら大変な強国だ、
と、皆が言いました。
ただ、気になることがありました。そこには二つの王朝があるようで、金官伽耶の対岸にも別の王がいました。その王の国は、
ツクシ、
と呼ばれていました。
しかし、ツクシはすでに文字をつかっていたようでした。
我々を高く買ってくれそうなのはダァイウアイのホムタ王でした。
ホムタ王の国は軍事的には優れていても、まだ文字をもっておらず、暮らしぶりは未開のままのようでした。
六
ワタクシは50名の僧を選びました。
「残りの者は現地の様子を見てからあとで呼び寄せる」
と言いました。
皆、不安そうな顔でした。
50名の代表者は道融としました。
道融はワタクシに代表になってもらいたかったようですが、わたくしは僧ではありませんでした。
ホムタ王への土産には織物や紙や酒を用意しました。
同行者には酒づくりの職人や鍛冶の技術者や馬具の技術者や養蚕の技術者なども加え、護衛の者も含めると人数は百名以上になりました。
運び出す巻子本の数は千を超え、これには経典以外のものも多数ありました。この他の大きな荷物としては錦を織る機械がありました。
尚、我々が長安を出ることは内密にしておきました。
新たに即位した姚泓(イァウフワン)は弟たちとの争いで忙しく、我々を支援することはできなかったでしょうし、我々の脱出を喜ぶはずがありませんでした。
我々はまず黄河に出ねばなりませんでした。蒲州(プゥチョー)というのがもっとも近い黄河の港で、そこまでは400里でした。
馬や駱駝を使い10日間かかりました。
この陸路のためだけに百人の兵士を雇いましたが、それらにも僧服を着せました。そして、先頭の兵には仏教のハン(幡)を持たせました。これは、三角形の旗の下に帯状の飾りを垂らしたものです。仏に仕える者を襲う者は少ないだろうと思われたからです。
途中、何度か秦の兵士たちの検閲を受けましたが、道融の名前を出すと通されました。
事前に手配しておいた船はかなり大きなものでしたが、すべての荷と人員を乗せるためには10隻でも足りませんでした。各船には船員も乗るからです。
船員たちはあらくれ者が多くいましたが、我々に害をなす者はおりませんでした。
百済までの船旅は20日ほどかかりました。
途中、何度か雨が降りましたが、嵐には遭いませんでした。
百済にはいくつか大きな港がありましたが、ワタクシは漢江(ハンガン)に向かうよう指示しました。
漢江が見えてくると、多数の小舟が寄ってきました。乗っていたのは百済人ではなく、ウアイ人(倭人)でした。
「何者だ?」
と問われたとき、船頭は、
「晋(ツィン)だ」
と、答えました。
百済は秦(チン)とは交流がなく、晋(ツィン)との関係が深かったからでした。
船を降りると、驚くべきことが耳に入りました。
・・・・・・秦が滅んだ、
というのです。
我々が黄河を抜けた直後に晋の将軍が黄河に軍を入れ、秦の軍と激突し、秦軍を破って長安に攻め込み、秦の王を捕らえた、ということでした。
「草堂寺はどうなりましたか?」
と訊ねてみましたが、そこまでの情報をもっている者はおりませんでした。
ただ、我々は大歓迎を受けました。晋から来たと言ってしまったからです。
道融とワタクシは首都の漢城(ハンゼン)に招かれ、久爾辛王(クイシンワン)の謁見を受けることになりました。王は祖父の代から仏教を保護していました。
しかし、道融の名前を出すと秦国から来たことばれるので、その名は伏せました。
道融は代表として王に何を言うべきか迷っていました。
ワタクシは、その様子を見て、
「すべて正直に伝えましょう」
と言いました。
秦の者だとわかっても僧を殺すようなことはないだろうと思ったのです。
広間に通されますと、久爾辛王は一段高くなった床の上の玉座に座っておられました。耳には黄金の飾りがついていました。頭にも金属の飾りがありました。
まだ若く、おどおどしたような態度でした。あとでわかったのですが、この王の母はウアイ人(倭人)でした。
王は道融の話を聞き、声をあげました。
「ウソを申したか!」
しかし、案の定、我々に害をなすことはありませんでした。
道融の名前は王も知っておられたようで、援助を申し出ていただけました。
そして、
「晋の者には黙っておくから、今すぐここを出ろ」
と、言いました。
ただ、このとき、
「おまえたちは秦の者ではない。どこから来たのかをもう一度申せ」
と言われました。
王としては、秦の者をかくまったと言われることが怖かったようです。
わたくしは、クチャ国から来たとは言いませんでした。クマラジーヴァさまの門弟であるとなれば秦から来たことになるからです。
それで、自分の父の出身地を言いました。
ゴンユエ(弓月道)です。
百済人にはその発音が聞き取れませんでしたので、漢語で文字にして渡しました。
ワタクシと道融が港に戻ると、そこにはウアイ人が待っていました。
多数の武士を指揮していたひとりのウアイ人は我々に気づくと、
「ヤマトに連れて行ってやる」
と言いました。
港に残った者たちがウアイ国に行きたいのだとウアイ人たちに話してしまっていたのです。
しかし、ワタクシはヤマトという地名を知りませんでした。
「それはどこですか?」
と問いますと、
「ダエワェの都だ」
と言いました。
そのダエワェは百済の発音でした。それが「大倭(大和)」のことだとわかるまでにはしばらくかかりました。
ワタクシたちの船団は漢江を出たあと、海岸線沿いに南下し、半島を東にまわりこんだところで金官伽耶(カラカヤ)という国の港に停泊しました。この間、何度か港に寄り、水や食糧を補給しましたので、金官伽耶でも水や食糧を補給するだけだと思っておりました。しかしながら、我々はそこで船を降ろされました。
新羅(シンラァ)と金官伽耶との間に紛争が起きており、これを平定するためにホムタ王の軍が来ていて、港の人員はそのホムタ王の軍への補給で忙しく、ワタクシたちの船への補給ができないということでした。
ヤマトへ向かうにはまだ数千里の航海をせねばならず、補給をせずに出発することはできませんでした。
足留めを食ったのは10日間ほどでした。
突然、ホムタ王の軍勢がヤマトに戻ることとなり、これと一緒にワタクシたちの船団もヤマトに向かうこととなりました。
何が起きていたのかはよくわかりませんでしたが、新羅に寝返って金官伽耶に軍勢を出していたヤマトの将のひとりが逃走した、ということだったようです。
その将の名は、
サチヒコ、
というようでした。
ツシマ(対馬)、オキシマ(隠岐の島)を経由して、我々はウァカサ(若狭)という港に着きました。
港にはホムタ王の使者が出迎えてくれておりました。
草堂寺を出てから55日が経過しておりました。
七
ホムタ王の宮殿はカハチ(河内)というところにありました。ウァカサから陸路を3日ほど歩くと大きな湖に出ました。海のように大きいためか、アハウミ(琵琶湖)と呼ばれていました。そこから船に乗り、カハチには翌日着きました。荷物はすべてホムタ王の配下の者に運んでいただきました。
王の宮殿は質素なものでした。
茅葺きの屋根を支える柱には礎石がなく、地面に穴を掘って直接そこに立てられており、床は舗装されておらず、板をはっただけのものでした。部屋数も少なく、壁にはなんの装飾もありませんでした。
王の座は一段高くなっていましたが、椅子がありません。敷かれてあった敷物は木綿のようでした。ホムタ王はその木綿の敷物の上に直に座っておられました。
服装も質素で、頭からすっぽりかぶったような衣を着ておられ、その生地には模様はありませんでした。首からは研いた石をぶら下げておられ、これは玉(ギョク)のようでした。耳たぶに百済王のものとよく似た金属の飾りがついていましたが、頭には何もかぶっておられませんでした。耳飾りだけが光っていて、それが奇異な感じでした。
ホムタ王のお顔は武人でした。
怖ろしい表情をされておりました。
ただ、意味もなく周囲の者に暴力を振るうようなお方ではないようでした。
「よく来た」
というようなことをおっしゃられましたが、言葉はわかりませんでした。
ただ、ワタクシたちを大いに歓迎してくださりました。
期待外れだったのは、ダエワェ国には国師という地位は存在せず、仏教についての知識を持っている者もなく、道融もワタクシも客人というあつかい以上のものにはならなかったことでした。
それでもホムタ王は我々がダエワェ国に居住することをゆるしてくださいました。
我々に与えられた村には名前がありましたが、ワタクシたちはクマラジーヴァ(鳩摩羅什)さまの名前から一文字をいただき、
斑鳩
という文字をあてました。純粋な弟子以外にも様々な者が混じっていたので「斑(まだら)」という文字を足しました。
尚、ホムタ王には百済から手紙が届けられてあり、それにはワタクシたちの出身地が、
弓月国、
と記されておりました。
のちに、ワタクシたちがダエワェ国の記録を書くことになったときには、百済王のことを思い、自分たちの出身地を、弓月国、と記しました。
しかしながら、我々が秦から来たことは周知のこととなっており、ホムタ王は我々のことを、
秦(チン)の衆、
と呼ばれました。
ちなみに、ホムタ王の国にはまだ上質な酒をつくる者がおりませんでした。
ワタクシは、秦国から連れてきた職人に米の酒をつくらせまして、それを王に献上しましたら大層よろこばれました。
あるとき、ホムタ王はひょっこりワタクシたちの村を訪ねられました。
護衛の兵も連れず、裸足であられました。
一同、大いに驚きまして、草履をお渡ししましたら嬉しそうでございました。
このとき、王は、
「秦なる国はいつごろからあるんや?」
と、おっしゃられました。
それで、ワタクシは姚興(イエウヒエン)さまの名前を出し、その父の代に興した国だと答えましたが、ホムタ王は姚興さまをご存知ありませんでした。
それで、苻堅(プーケン)の名前を出しましたが、これもだれだかわからぬようでした。
そこで、
「始皇帝(シー・ホアン・ディー)はご存知でしょうか?」
とお尋ねしましたが、これも通じませんでした。
それで、
「シコーテー」
と、発音を倭語風にしてみましたら、
「聞いたことがある」
と、おっしゃられました。
それで、ワタクシたちはこのときから始皇帝の末裔を称することとしました。
第六章 国譲り
一
ワテの祖先はヤマトの大王(おおきみ)の配下でした。
氏(うじ)はカヅラキ(葛城)を名乗っとりました。
姓(かばね)はオミ(臣)でした。ちなみに、オミの下はムラジ(連)やトモノミヤツコ(伴造)となります。
当時のカヅラキはえらく立派やったみたいです。今でもそのときの大きな古墳がたくさん残っとります。ほやけど、没落しよりまして、ヤマトには住んでられんようになりまして、ツクシ(筑紫)に移り住みましたが、カヅラキを名乗るんがかなわんくなって、「ラ」を抜いて、カツキ(香月)に変えたようです。ところが、なんやかんやあってヲホド王(継体天皇)のときにワカサ(福井)に引っ越しまして、今は勝木て名乗っとります。
はじめの頃のカヅラキの衆ちゅうのは、ヤマトのカヅラキ山(葛城山)の麓に住んどりました。その頃は、まだ氏も姓もなかった時代でした。
イバレ王の孫が王になったときに、ヤマト川で大規模な治水工事がありまして、その工事を手伝ったことで王家の仕事をするようになったようです。
ほいで、だんだん大きな仕事を請け負うようになりまして、ホムタ王(応神天皇)のときに秦(ハタ)の衆の世話係を頼まれまして、秦の者たちをつこうて治水工事をやりましたら、難しい工事がどんどん片付きまして、そのおかげで平野部に広い土地をもろたそうです。
ほいで、王家のために錦の織物を秦の衆に織らしまして、それを王に献上しましたら「氏」をもろたそうで、そこからカヅラキ氏(葛城氏)になったそうです。
今では氏を名乗る一族はようけありますが、最初の氏はイミベ氏(忌部氏)やったらしいです。この家は、イバレ王と一緒にヤマトに入った一族で、王家の祖先を祭る儀式を取り仕切る役目をしとりますさかい、もともとは王家の分家やったんかもしれません。
イミベ氏のあとに氏をもろたのはモノノベ氏(物部氏)やったらしいです。モノノベ氏は兵をあつかう家で、ヤマト地方の土着の家やったらしいです。
カヅラキの衆は、おそらく、それらのあとで氏をもろたと思います。ほやけど、カヅラキ氏は娘を王家に嫁がせるようになりました。もともとは大王の家と互角の家だったのかもしれません。
朝廷で大王の次の最高位は大臣(おおおみ)でした。最初にその役についたんはカヅラキ氏やったらしいです。名前は、
ツブラ(円)、
てゆうたらしいです。
カヅラキ氏の天下は、このツブラのときが絶頂やったようで、そのあと一気に力を失ったらしいです。
何があったかといいますと、
獲加多支鹵(ワカタケル=雄略天皇)、
ていう者が出てきたんですわ。
ワカタケルは、ワクゴ大王(允恭天皇)の息子で、アナホ大王(安康天皇)の弟でした。
強烈な性格のお方で、自分より力を持つもんをゆるさんかったようです。
ほやで、カヅラキ氏をつぶす機会を狙ろとったようです。
ほいで、あるとき、王家ん中で事件が起きました。
大王の暗殺事件です。
ワカタケルの兄君のアナホ大王が、夜寝とるときに刀で刺されたらしいです。
下手人は子どもやったそうです。
アナホ大王には妻の連れ子のマヨワていう王子がおったのですが、このマヨワがやったらしいです。
ほいでな、マヨワの母はツブラの娘やったんですな。
そいで、マヨワはツブラの館へ逃げ込んだそうです。
これがカヅラキ氏をつぶすためには、二度とない機会になったようです。
ワカタケルは、マヨワを殺すためていうて、ツブラの館を兵に囲まさせて、焼き討ちしてツブラを殺したらしいです。
ちなみに、ワカタケルはカヅラキ氏の者ばっかり殺したわけではないです。自分の兄を2人も殺しとりますし、従兄弟も2人殺しとります。
ほいで、大王になりました。
で、大王になるとワカタケルは自分が殺したツブラの娘を后妃にしとります。
これは、カヅラキ氏の権威や技術者たちを自分のものにするための婚姻やったと言われとります。
二
ワカタケルはヤマトでの王権を固めると、当時の有力豪族であったキビ氏(吉備氏)の征圧にとっかかります。
まず、キビ氏の有力者のタサという者を任那(ミマナ)に派遣します。ほいで、その留守を狙ろてタサの妻を奪って妃にします。タサはワカタケルへの反乱を企てますが、果たせず、逆にワカタケルが派遣した軍勢に討たれました。
殺した相手の妻を奪うというのはツブラのときと同じですな。
キビ氏にはタサの他にサキツヤゆう有力者がおりました。ワカタケルはこのサキツヤも殺します。サキツヤが不敬なことをしとるとしたんですが、これは虚言ですな。サキツヤはワカタケルが送ったモノノベ氏の兵に討たれました。
その他の豪族たちは、これらのことに怯えたようで、西はツクシ(筑紫)の肥の国から東はムサシ(武蔵)の国まで、おのおのワカタケルの名前を象嵌した刀をつくり、それを自らの権威の象徴としよりました。裏をかえしますと、不敬な態度がないことの証拠にしよったんですな。
しかし、このことはワカタケル大王の気に障りました。
なにせ、自分以外の者が自分以上の力を持つことがゆるせないわけで、自分と対等な力を持つことも気に入らんのですな。ヤマト以外の国のもんが古墳をつくることもゆるさんかったほどですさかいな。
こんとき問題になったんは、各地の豪族たちの配下にいた秦の衆のことでした。
秦の衆は土木工事や機織りの技が上等だったばかりでなく、上等な酒もつくりましたし、鉱山を掘って銅や金などをつくりましたし、上等な鉄の刀もつくりました。そういう技術を買われてあちこちの豪族が秦の者をひきとって自分んとこの仕事をさせておりました。各地で獲加多支鹵(ワカタケル)の名前の入った刀をつくったんも秦の者でした。
ほいで、ワカタケルはこれが気に障ったようです。
ワカタケルはカヅラキ氏の下で働いていた秦の衆を自分の手のなかに納めておりましたんで秦の衆の力を知っとりました。それらが各地で自分の刀と同等のもんをつくってることに腹を立てました。
ほいで、
「各地に分散してまいよった秦の衆をヤマトに集め」
ゆいました。
そん仕事をしたんは秦のサケゆう者でした。サケは酒やったみたいです。姓はキミ(公)でしたので、秦酒公(ハタのサケのキミ)となりますが、文字はあとからついたんかもしれません。
秦酒公は酒をつくっとった家の者でしたが、あちこちから秦の者を集めましたら、まず、絹織物をぎょうさんつくりよりました。それをワカタケルの宮廷の前にうずたかく積み上げたそうです。秦酒公はこの功により「氏」をいただき、「禹豆麻佐(うずまさ)」ゆう姓をもらいよりました。
こないして、ワカタケルは多数の国や豪族を支配下に置き、その仕上げとしてイセの社(伊勢神宮)の外宮をつくりました。その工事は設計から秦氏が取り仕切りよりました。構造はそれまでだれも見たことのないものでした。それは、秦氏の祖先が移動して歩いとったときの神を祭る儀式のやり方を模したもんで、幕をはりめぐらせた囲みの中に神殿を置く形になっとります。幕では弱いので木の柵にしたようですが・・・・・・。
三
ワテの祖先の話でした。
ワテの祖先はカヅラキ氏のツブラの息子のひとりやったそうです。
ヤマトにおってはワカタケルに殺される思いましてな、それでツクシ国に逃げたそうです。
ツクシ国の南側のヒの国(肥後)あたりはワカタケルに怖れおののいてへり下っておりましたし、ヤマトから鏡をもろたりしてましたが、ツクシ国はまだまだ独自にやっておって、ヤマトには負けておりませんでした。
ツブラの息子にすれば、ツクシ国なら匿ってもらえると思ったんでしょうな。
ほいで、チヌの海(大阪湾)に船を用意して、かなりの人数を引き連れてツクシ国に入ったようです。
ツクシ国もこの一行は朝廷の大臣(おおおみ)をしていた者の息子の一族やさかい、ぞんざいにはできず、それなりのあつかいをしてくれたようです。
ほやけども、ツクシ国の領主からもろた土地はツクシ国の中でも一番辺鄙なところやったみたいです。ツクシ海(玄界灘)に面しとるのは多少便利やったでしょうが、オカのミナト(遠賀川)に沿ってけっこう奥に入ったところで、西も東も南も山に囲まれた行き止まりの細長い土地(筑豊平野)です。東に行けばカミツミケ(みやこ町)があって、東の海(瀬戸内海)に出ますが、峠を越えねばなりません。西に行けばパカタ(博多)がありますけども、けっこうな距離があります。しかし、隠れるにはちょうどいい場所やったでしょうな。
その村には名前があったようですが、これ以後その村はカヅラキと呼ばれるようになったそうです。
尚、ツブラの息子はその村ではヤマトにいたときの名前をつかわず、
コサダ(小狭田)、
ゆう名前にしたようです。ヤマトにおったときの領地から比べたらずっと狭まなってしもて、それでそんな名前にしたんでしょうな。
村の東側にはカヅラキ山という小さい山がありましたが、その山のあたりまでがオサダの領地になったみたいです。
四
カヅラキ(葛城)がカツキ(香月)にかわったのは、ツクシ国の領主の、
イワイ(磐井)、
ゆう者がヤマトのモノノベ(物部)氏と戦うことになったときです。
ゆうときますが、イワイは王ではなく、キミ(君)でした。
ヤマトの大王はヒの国(火国=肥国)や、ミヌマの国(水沼国)などの領主に姓(かばね)の「君」を与えとりましたが、ツクシの「君」はそれではありません。それは、ツクシ国の王から与えられた称号でした。ヤマトの大王が与える姓(かばね)の「君」はツクシ国のやり方を真似たもんです。
イワイは何代か前まではツクシの南西部のヤメ(八女)ゆうところの小さな領主でしかなかったみたいですが、大陸との交易で財をなして大きな領主になりよったんですな。周辺の領主にも顔が利いたようです。
ほいで、ツクシ王から君の称号をもろたんです。
尚、ツクシ国は新羅(シラギ)を配下においとりました。
新羅が金官伽耶や百済といざこざをおこしておったんは、ツクシの王の指示やったみたいです。金官加耶国とその周辺の小国は全部ひっくるめて任那(ミマナ)ゆわれてましたが、それらはもともとツクシの王の配下でした。そこにヤマトのホムタ王が大軍を入れて自分の領地にしたんですが、ツクシ国の王はそれを認めておりませんでした。
そんときのツクシ国の王の名は、
ホホデミ、
ゆうたそうです。
マツラ国(末盧国)の王やったウガヤゆう者の末裔やそうです。
マツラ国はイト国(伊都国)やらノの国(奴国)やらパカタ国(好古都国)を合併してツクシゆう国になっとったんですが、王家の宮はもとのマツラ国のあたりにまだあったようです。そこにはワテらのような百姓は入られんようになっとりましたさかい、どんなお宮やったんかはわかりません。
話を戻しますが、任那は鉄をつくっとる重要拠点やったもんで、ツクシ国王もそれをヤマトに明け渡すつもりはなく、新羅をけしかけて何度も紛争を起こしておりました。北の方から高句麗が攻めてきとりましたんで話がややこしいなってましたが、高句麗も任那が欲しかったんでしょうな。
ほいで、ツクシの君のイワイはヤマトにもええ顔しつつマツラの宮の王にもええ顔しとったようです。大きな領主になるまえはヤマトの宮殿に息子を入れて小間使いみたいなことをさしてた時期があったようです。ほいで、新羅や百済とうまいこと折り合いをつけながら任那の鉄をどんどん持ち込みよって、それで大きなったんですな。
ところが、ヤマトの大王にこれまでとは全然ちがうスジの者が即位しよりましてな、これが任那の鉄を全面的に支配することにしたようです。ほいで、
イワイが邪魔や、
ゆうことになったみたいです。
その大王は、
ヲホド、
ゆう名前でした。
ホムタ王(応神天皇)の五代目の子孫だそうですが、ウソやと言われております。
ヲホド王(継体天皇)がヤマトに入ったんはもう老人になってからのことで、それまではワカサ(若狭)におりました。ワカサ周辺の国々を支配下に入れて力はかなりつけとったようです。
ほいで大王に即位することになったみたいです。
ワテの親父はそのヲホド王とマツラの宮の王との戦いにまきこまれました。
五
「あんたんとこは百人ほど出しんしゃい」
とイワイの使者はゆうたそうです。
親父は、
「わかったで」
ゆうて酒を出したそうです。
村にはおそらく2千人くらいはおったんでしょうな。親父はそこの統領やったようですが、ワテはまだ子どもやったさかい詳しいことは覚えておりません。
合戦は、不知火の海(有明海)の方ではじまったそうです。
海が真っ黒くなるほどぎょうさんヤマトの船が来よったそうです。
イワイはその海側の領主のミヌマの君(水沼君)からも兵を出してもろて2万くらいの軍勢を整えたそうです。
モノノベ氏はオオトモ氏(大伴氏)の軍と合わせて1万ほどの兵をヤマトから連れて来ており、ヒの国の君やらスオウのオオシタのアタイの君(周防凡直の君)やらからも兵を出させてまして、3万くらいの兵を用意したそうです。
ただし、馬の数はイワイ軍の方が圧倒的に多かったようです。
ヤマトにはまだ馬がほとんどいなかったらしく、ヤマト軍はみんな歩いとったそうです。ほやから、地の利も考えればイワイのほうが有利やったかもしれません。
さて、合戦の模様ですが、これがよくわかりません。
ヤマト軍を討つならば、兵が船から降りるところを弓でねらうのがよかったわけですが、イワイはこれができませんでした。
ヒの国の軍勢がヤマト軍を援護したそうです。ほいで、イワイ・ミヌマ軍は手を出せず、ヤマト軍が船から降りるのを黙って見ておったそうです。
おそらくイワイは、
「かかれ!」
と言ったと思います。ほやけど、百姓兵は怯えておって動かんかったようです。ヒの国の兵はワテら百姓兵とは種類がちがいますさかいな。
弓矢の飛ばし合いになったんはミイ(筑後平野)の真ん中あたりやったそうです。 だだっぴろいとこで、えんえんと田が広がっておって大軍同士がぶつかり合うにはちょうどよかったかもしれません。
ほやけど、そこにはミイ大河(筑後川)が平野の真ん中を流れとります。
おそらくイワイ軍は川の北側におったでしょうし、ヤマト軍は川の南側で船を降りたと思います。
大軍同士が正面からぶつかり合うゆうことはなかったのかもしれせん。
イワイ・ミヌマ軍は半日ほどで解散しよったようです。
イワイが逃げよったからです。
ワテの親父がそこで何をしよったのかを子どもんときに何回も訊きましたが、親父はそれには答えたことがありません。村から百人ほどの人数を出して、親父はそれらを率いておったはずですが、結局は何もせんとカヅラキに戻ったんかなと思います。
ほやけど、話はそれで終わりではありません。
戦場から逃げたイワイがカヅラキに来よったんですわ。
そこんところは、ワテも覚えとります。
イワイは周囲に30名ほどの兵を連れ、輿に乗っとりました。キラキラ光る錦の衣を着ておりまして、翡翠の勾玉を首からさげとりました。頭には何もつけとりませんでしたが、お付きの者が黄金の冠を持って後ろに立っておりました。
驚いたのはそのイワイの顔でした。
黒いんですわ。
日に焼けてたゆうこともあるんでしょうが、真っ黒でした。
ワテらも日には焼けますが、あんなに黒くはなりません。
ツクシの地の領主はみんな黒いと聞いとりましたが、それがイワイみたいな者なんやなとわかりました。
親父はあわをくって家から出てくると平身低頭しとりました。
イワイはその親父を見て輿の上から言いました。
「オマエはカスラキの者か?」
このとき、開いたクチの中が見えました。上の前歯の真ん中の二本がありませんでした。そのせいか「ヅ」の音が抜けて「ス」になっとりました。
親父は顔を伏せたまま返答しました。
「へい」
イワイは、
「ワシは今晩はここで寝る。どこでんよか。場所ば貸さんか」
ゆいました。
そんときはわかりませんでしたが、イワイは身を隠したかったんですな。
ほいで、隠れるにはカヅラキの村が一番やったわけですな。ツブラの息子もそれでここに来よったわけですさかいな。
その日、カヅラキ村は大騒ぎでした。
みんなでイワイの寝るところをつくっとりました。家臣の者のぶんもありますから親父の小屋ひとつでは足りません。なるべく新しい小屋を選んでみんなで掃除してキレイな藁を集めてきて床に敷きました。
食事の用意もありまして、オカのミナト(遠賀川)に何人か魚を釣りに走りました。雉を捕りに山に入った者もありました。
料理はワテの母親が仕切りました。
その夜、ワテとワテの家族は馬小屋で寝ました。
翌朝、イワイは言いよりました。
「今晩もここで寝るばい」
親父も村の衆もみんな平身低頭しましたが、内心はおだやかではありませんでした。
ヤマトにばれたら皆殺される思ったようです。
イワイには息子がおりました。
クズ、
ゆう名前でした。
これも黒い顔をしとりました。
そのクズさまが、
「東の海ば見に行かんといけん」
ゆいました。
カヅラキ山の向こうの山を越えてカミツミケ(みやこ町)に行くことになったんはその3日後の朝でした。
ワテの兄が道案内することになり、ワテも一緒に行きました。最初は、あかん、ゆわれたんですが、クズさまが、
「来ればよか」
ゆうてくれまして、一緒に行くことになりました。
子どもが一緒にいたほうが怪しまれないと思ったんでしょうな。
峠を越えて、下りに入ると、遠くに煙りがあがってるのが見えまして、兵士たちの雄叫びも聞こえて来よりました。
カヅラキ村は静かでしたが、外は大騒ぎやったんですわ。ワテは子どもやったさかい怯えました。
集落に入ると、そこらじゅうにヤマトの兵士が歩いてました。刀や槍を持っとりまして、みんな怖い顔しとりました。ときどき、
「イワイはどこや! イワイを出せ!」
て大声だしとりました。
地元民はみんな家に引きこもっておるみたいで、通りを歩いとるんは兵隊ばっかりでした。
港に出てみましたら、ぎょうさん船がついとりました。
煙をあげとる船がいくつかありました。
だれぞが火をつけたみたいでした。
遠くで叫び声が聞こえたんで、そっちに行ってみましたら、イワイの兵らしき者がはりつけにされとりました。
すでに息は絶えとりました。
「もうよか」
クズさまがそう言うと皆で引き返しました。
ほやけど、簡単には戻られませんでした。
ヤマトの兵のひとりがワテらを見て怪しんだんですわ。
クズさまの顔が黒いので目立ったようです。
「おんどれら、どこのもんじゃ?」
ゆうてヤマトの兵は肩をいからせました。 クズさまは顔を伏せて上げませんでしたので、兄がへたくそな言い訳をしよりました。
「ワシらは魚を買いに来たもんです」
ゆうたんですが、言葉がちがいました。
魚ば、ゆうたら怪しまれんかった思います。
魚を、ゆうたんがおかしいゆうことになりました。
兄の言葉にはカヅラキ村の訛りがありまして、ツクシの言葉とはちがいました。
ヤマトの言葉に近かったんですわ。
六
ワテらは縄で縛られてヤマトの将のところに連れて行かれました。
将はちょっとした小屋を屯営(みやけ)にしとりまして、イワイの捜索を取り仕切っとりました。百人ほどの兵の長やった思います。
将はワテらの顔を見まわしてすぐにニヤリとしよりました。
「そこのもん、やけに黒か」
て、クズさまの顔を見て言いよりました。
クズさまは、胸を張りまして、
「オイはイワイの息子ばい。はよ斬らんか」
ゆいました。
将はちょっと驚いた顔をしましたが、次に兄の顔を見ました。
「ワレ、ヤマトのもんやな?」
この質問に兄は、
「ちゃいますがな」
ゆいました。
そこにいた手下の者たちは一斉に笑いよりました。ツクシの言葉では「がな」はゆいません。
「なんでツクシにおる?」
「ワシはツクシのもんだす」
「ウソをつけ」
「ウソはゆうてまへん」
そんな会話があって、兄らは死ぬほど殴られました。
しかし、何も言いませんでした。
ワテも殴られましたが、子どもやったさかいひどいことはされませんでした。
ほやけど、結局、ワテらはお咎めなしとなりました。
兵のひとりがワテの首に刀を突きつけまして、
「言わんなら殺す」
ゆうたんですわ。兄はワテの顔を見てゆいました。
「ワシらはカヅラキのもんだす。ヤマトから逃げてきたもんの末裔だす」
そうしましたら、将がすっかり驚きよりまして、
「ワシもカヅラキのもんや」
ゆいました。
ツブラの息子とその一族はツクシに逃げましたが、ヤマトに残ったカヅラキの者もおったんです。すっかり落ちぶれとりましたが、生きてはいました。将はそういう者のひとりやったんですわ。
「わかった。もう帰り」
ゆわれまして、兄もクズさまも泣きました。
この将の計らいがあったのか、カヅラキ村にはヤマトの兵は来よりませんでした。 そして、1年半がすぎました。
村には百名以上もイワイの手のもんが集まっとりまして、イワイは大層立派な館を建てとりました。
親父はカヅラキを「カヅキ」と呼ぶようになっとりました。
ヤマトから逃げて来たツブラの末裔やゆうことを隠さんならん思たんですな。
ほやけど、しばらくすると、
「ヤマトん兵は、ほとんどツクシから引き上げよっとばい」
ゆう報告がイワイんところに入りました。
そん翌日、カミツミケ(みやこ町)でヤマト軍の屯営をはっとった将が数名の兵を連れて村にやって来よりました。
将はクズさまを呼びつけよってゆいました。
「ヲホド王さまがあきらめはった。殺さへんから出て来いゆうとる」
七
クズさまはヤマトの将と一緒に出て行かれまして、そのままカヅキ村に戻ることはありませんでした。
ヤマト軍はイワイがつくったノの津(博多湾)の港をヲホド王の直轄領にしよりまして、クズさまはヤマトのクニノミヤツコ(国造)に任命されました。イワイと一緒に戦こうたミヌマの君も同じくクニノミヤツコに任命されよったそうです。
尚、イワイは死んだことになり、もともとの本拠地のミイ(筑後平野)の南端のヤメ(八女)ゆうところに大きな古墳がつくられました。
ほやけども、イワイはワテらの村に死ぬまでおりました。
で、死ぬとカミツケ(みやこ町)にちょっとした古墳がつくられました。その古墳には鉄矛やら耳飾りやら馬の鞍の飾りやら、玉類やら、鏡やら、輸入した土器やらが一緒に埋められました。
カヅキ村は「香月」という文字で書かれるようになり、兄はヤマトから姓(かばね)の君(きみ)をもらいまして、香月君となりました。おそらく、これはクズさまのお計らいでしょうな。
ワテはその頃にはモノノベ氏の兵となってワカサ(福井)に行かされてました。そのためか、香月君はモノノベ氏の末裔ゆうことになりました。カヅラキ氏の末裔ゆうことはここで完全に消えました。
ただ、一部にはカツラキとゆいつづけた者もおったようで、ワテが死ぬころには、
桂木、
という字をあてとるもんがあったようです。
ワテが死ぬまで不思議に思てたんは、なんでイワイは逃げたんか、ゆうことです。
本気で戦うとったらヤマトに勝ってたんやないか思うのです。
交易で財をなした一族のもんやったさかい、合戦が得意ではなかったゆうことはわかります。人が殺し合うのを見るのもいややったんかもしれまへん。
だとしたら、
腰抜けやったんかな・・・・・・
と、思ったりします。
そんな気持ちがあったもんで、ワカサでは香月とは名乗らず、勝木ゆうことにしました。
うっかり忘れとりました。
マツラの宮の王のことですが、ヤマトの兵はお宮をすべて丸焼きにしよったそうです。
ホホデミ王は一緒に焼け死んだゆうことです。
クズさまがヤマトに献上したノの津(博多湾)の港には多数の屯倉(倉庫)がありまして、その中にはホホデミ王の財宝やらマツラ国の歴史を書いた古い書物などもあったようですが、それらはみんなヤマトの兵が持ち帰ったゆうことです。
第七章 古事記と日本書紀
一
わたくしは太安萬侶(おおのやすまろ)さんの門人どす。 出自は秦氏でおす。
名は避麻呂(さけまろ)と申します。まれに酒麻呂とも書きよります。
父は太秦(うずまさ)の宮で祭主をしとります。名は、大闢(だいびゃく=ダビデ)いいます。
わたくしの仕事はおもに文字を書くことどした。
晩年は古事記の編纂にたずさわらせていただきまして、それが済みましたら日本書紀の方へまわされまして、ついこの間、そっちも済ましました。
安萬侶さんとのご縁は、大海人(おおあま)皇子さんと大友(おおとも)皇子さんの合戦(壬申の乱)の折からでございます。
瀬田の唐橋での戦さでは、安萬侶さんとご一緒に大海人皇子さんのお側で槍を持ちました。へやけども、橋を渡ることはしませんでした。
ただ、大友皇子さんの重臣でございました中臣金ら8人が死罪を言い渡されはった折にはその場におりました。
日本書紀の編纂が命じられたんは、大海人皇子さんが即位されはって、
天皇、
いうこれまでにない称号をとなえはって10年後のことどした。
へども、日本書紀のお役目は川島皇子さんがお受けにならはって、安萬侶さんはそのお仲間にも入っておられませんでした。
古事記の編纂がはじまったんは、日本書紀がはじまって間もなくのことどしたが、これは稗田阿礼(ひえだのあれ)はんが旧辞だの帝紀だのを暗誦することからはじまりまして、紙になるのかどうかもわからんようなもんどした。
安萬侶さんは大海人皇子はんのお側にありましたけれど、若いうちは、まず、氏(うじ)と姓(かばね)の仕組みを改める政務につかはってました。これは、氏族の秩序を新しゅうし、姓の種を8つに分けて定めはったもんで、天皇いう新しい称号の下の統治の仕組みをしっかりと固めるためのもんどした。
それがかたづきますと、安萬侶さんは飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の編纂にはいられました。これは、律令法典をととのえるもので、そのあとの大宝律令の元になったもんどす。その大宝律令も安萬侶さんがまとめはりましたもんどして、そのあとは、あちらこちらの国をまわりなはって、国、郡、里の制度の事をみなに指図しはりました。
古事記の書きつけをされはったのはそれらのあとでございます。
阿閇皇女(あへのひめみこ=元明天皇)に呼びだされまして、
「そちに申しつける」
いわれましたんどす。
安萬侶さんはもうかなりの歳にならはってましたけれど、
「かしこまりました」
て、頭をさげはりました。
こんとき、古事記については稗田阿礼(ひえだのあれ)はんがいろんなもんを読んでは暗誦して30年近くたっとりましたけれど、まったく形にはなっておりまへんどした。
日本書紀は編纂がはじまってちょうど30年たっとりましたが、こちらもいつできあがるんかわからへんようなところどした。
大海人皇子はん(天武天皇)はとっくにお隠れになられとりました。
二
古事記の書きつけは、わたくしの走り書きではじまりました。稗田阿礼はんが諳んじたことを次々と語りはって、わたくしがそれを紙に走り書きしました。それを20名の筆生が楷書で書きなおしていくいう手筈どした。
へやけども、これでは話がつながらず、また、大海人皇子はんがお決めにならはった大筋の流れとまったく合うてまへんでした。
それで、安萬侶さんはまずご自身で稗田阿礼はんの語りを全部お聴きになられ、ご自身で走り書きをつくらはりました。語りを聴くのにはひと月かかりましたが、走り書きは十日ほどで出来上がりました。紙の量は5貫300匁(約20kg)ほどにもなりました。
へども、それらはすぐに半分以下に減らされました。
安萬侶さんはそうしてそれをわたくしに預けられ、
「あとのことは任せる」
いわはりました。
ちなみに、安萬侶さんの走り書きにはいくつも穴があいとりました。その穴には、 ……前後の辻褄が合うような話を入れときなはれ、
とか、
……ふさわしい名を考えなはれ、
とか、
……盛大な話を足しときなはれ、
ていうような書きぞえがようけ入っとりました。
驚いたのは、稗田阿礼はんが長いこと語っておられたアラハバキの神のことや不二山(富士山)のことやヒダカミの国(日高見国)のことがすっぽり抜けとることどした。また、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、月読命などはお名前だけで、お話は全て切り捨てどした。その代わりに高天原いう国が何度も出てきとりまして、天照大神や須佐之男命がそこに一緒に住んでおったようなことになっとりました。
要するに、ヤマトに従わず、最後まで抵抗しよった土蜘蛛の者たち(泥葺きの住居に住む者=縄文人のこと)の神話や伝説はすべて切り落としになり、ヤマトに恭順した国の話を集めてくっつけるいうことになっておるんですな。そうして、そこに穴ができるわけどす。
わたくしは、それらの穴を埋めるためにいろいろと話をつくりました。
天照大神さんのお話は、須佐之男命のお話とは、まったく別もんやったんですけど、それを結びつけなあかんかったさかい、おふた方が姉弟いうことにしましてな、互いに対立しはって、宇気比(互いの正否を決める占い)をしはるお話にしました。
ほんで、勝負に勝ったスサノオはんが暴れはって、負けた天照大神さんが石屋戸(いわど)に隠れはるお話をつくりました。
この石屋戸のお話は、もともとはわたくしの祖先が拝んでおりました神さんのお話で、いっぺん死なはった神さんの屍を岩の中の部屋に置いといたら甦ったいうお話どした。
へやけども、なんもせんと甦ったんではおもしろないさかい、隠れはった天照大神さんをおびき出すお話をつけ足しました。
安萬侶さんのご先祖さんは、おどけた踊りをして人を笑わせる宇受賣(ウズメ)いうお方やったんやそうですけど、その宇受賣はんが八百万の神さんを笑かしはって、天照大神さんがそれを覗かはったとこで、手力男(たぢからお)がその手をつかんで引っぱり出すいうことにしました。
尚、もともとの石屋戸のお話の神さんは男性やったんですけど、天照大神は女性いうことになりました。これは阿閇皇女(元明天皇)のお指図どした。
神さんのお話はその土地その土地でいろいろありまして、それらをひとつにまとめるのはえろうしんどいことどした。
スサノオはんがヤマタノオロチを退治するお話どすけどな、これはもともと出雲のお話ではありません。稗田阿礼はんがマツラの古文書を読んで暗誦しはったお話どす。
その文書は、ナの津(博多湾)に面した糟屋(かすや)いうところの屯倉(とんみや)の中にありました。
大きな箱がぎょうさんあったんやそうですけど、その中に厳重に保管されてあったそうどす。新しいもんもあったみたいどすけど、古いもんはえろう古うて、何度か書き直して伝えられてきたみたいどす。
それらは、もともとは、マツラの王のホホデミいう者が保管してはったもんどした。それを物部氏の兵が運んできよったそうどす。
その古文書は、鯨皮に文字を焼き付けたようなもんでしたけども、その文字が古うてなかなか読めませんのどす。稗田阿礼はんは古い文字も覚えはりましたさかい、読むだけなら読めたんやそうです。せやけどお話の内容はところどころ難しゅうてようわからへんかったみたいどす。わたくしも、安萬侶さんもその古文書のところの語りは何回も聞き直しました。
ヤマタノオロチのヤマタいうのは頭が八つあったとしましたが、これはもともとは、
ハットウシリ、
いう名前のうちの「ハットウ」いう音に「八頭」いう漢字をあてたもんどす。
これは、太古の昔におった大蛇みたいどすけども、よくわかりません。人の名前やもしれまへん。
どこぞの遠くの山の中に大きな国があったんやそうですけど、ハットウシリはそこに住んではったみたいどす。そこには大きな赤い川(クズルウルマク川)が流れとるそうどすさかい、これは出雲の肥河(ヒノカワ=たたら製鉄が行われていた当時は水が赤く濁っていた)のことにしました。
その大蛇にはイルヤンカいう名前もあったらしいどすけど、ようわかりませんさかい頭が八つの大蛇いうことにしまして、ハットウシリの「シリ」は遠いところのシリいうことどすさかい、
八俣遠呂智、
いう文字をあてました。
稗田阿礼はんの語りによりますと、そこには、嵐の神いうのがおりまして、これがその大蛇を退治せなあかんことになり、イナ(イナラ)いう女に助けを求めまして、そのイナが大蛇に大酒を飲ますんどす。そうして、大蛇が酔いつぶれたところを嵐の神が殺します。
その嵐の神はテシュブいう名前どしたけども、これをスサノオいうことにしました。肥河のお話にしましたんで、出雲の人が拝んでおはった神さんのスサノオを嵐の神さんとすると、収まりがよろしいのどす。
尚、嵐の神を助けましたイナいう女は、スサノオに助けてもらうことにしまして、お酒は地元の老夫婦がつくったことにしました。イナは櫛に変身してスサノオの髪に差し込まれるいうことにしましたんで、クシイナダ姫としましたけども、古事記を書く際にはイが抜けてしもて、クシナダ姫になってしまいました。あとで気づきましてな、日本書紀には櫛イナダ姫としました。
出雲の神さんにはスサノオの他にオオナムジいう神さんもあります。
神さんのお話は、いろいろあってややこしおすけど、このオオナムジいう神さんのお話がえろうややこしゅうなりました。
オオナムジは、もともとはえろう強い神さんで、魔力をもった蛇みたいなもんとして語られとったんやそうです。へやけども、出雲はヤマトに征圧されはりましたんで、オオナムジがヤマトの神さんに国を譲るお話をつくりました。そうしますとすっかり弱い神さんになってしまいました。
それで、弱いけどなんべん死んでも甦るいうことにしました。
そして、ここにマツラの古文書のお話をつかいました。
そのマツラのお話は、
オオシラス(オシリス)、
いう神さんのお話どす。
これをオオナムジのお話にしました。
オオシラスは、セトいう神さんに2回殺されはって2回とも生き返りはるんどすが、これは石屋戸のお話とは別のもんどす。イシスいう女神さんがなんぞしはって生き返らはるいうお話どす。
稗田阿礼はんの語りでは、いっぺん死なはったもんをどないして生き返らせはったんか、いう説明がえろう長いんやけども、そこがようわからへんのどすわ。なにやら殻を裂いて取り出したもんを女の腹に入れて赤子にして産むいうようなことをいうてました。ちっともわからへんさかい、サキガイヒメとウムギヒメがうまいことしはったいうお話にしておきました。
それで、セトいう神さんはひとりではなかったみたいなので、八十神いうふうに書きました。オオシラスを甦らせはったイシスいう名の女神の名は石長比売(イワナガ姫)いうことにしまして、別のところに書きました。
尚、オオシラスはオオナムジにしましたけど、オオクニヌシいう名前にもなってはります。
オオクニヌシは稲羽(いなば)で素兎(しろうさぎ)を助けはりますけど、これはもともと出雲にあったお話どして、マツラの古文書にはないお話どす。
三
わたくしがもっとも苦心したのは伊波礼毘古命(イワレビコノミコト)のお話でございました。
天皇の直接の祖先としてわかっとる最古の人がイワレいう人やそうですけど、これは粟国(徳島)から浪速(なにわ)に入りはって多々良を踏む家(たたら製鉄の家)のイソゾいう名の姫を嫁に迎えられたいうだけで、それ以上何をしたのかがまるでわかりません。へやけども、それだけでは初代の天皇のお話としての体裁がととのいませんので何かつけ足さねばなりまへん。
それで、まず、粟国を出発したいうところから変えました。
粟国はあまり華やかな場所ではないので、天皇家の出発地としてはふさわしくありまへん。アホ踊りいうのがあったりしますしな。
それで、古い書きつけなんぞを探しましたらイワレはんの祖先の地が日向(宮崎県)であったいう竹簡がみつかりました。日向は隼人(熊襲の末裔)の国ですさかい、イワレはんが隼人を手なづけてはったことにするのがよろしかろういうこととなり、それで、イワレはんの出発地は日向となりました。
そうして、イワレはんは日向から豊前国に行ったこととしました。豊前国は、ヤマトに征圧された筑紫君のゆかりの地どしたし、任那に出るにも要になるところですさかい、ヤマトの正史としてはおさえとかなあかんところどすな。
それから、イワレはんは、もうひとつの海の要であった安芸国を経由して鉄をつくる吉備国にも立ち寄り、それから浪速に入ったことにしました。
ただし、これだけでは物語になりまへん。それで、その東行の前の話として、ここにもマツラ国に伝わっておった伝承を入れました。
ただし、これが、えろう古い文書で、さすがの阿礼はんも全部は読めはらへんかったらしいどす。その語りをお聴きしましても、半分ほどしかわかりませんでした。ただ、名前はわかりましたさかい使いました。もっとも、人名やら地名やらがあやふやでした。
まずは、高天原からニニギいう神さんが降りていくようにしまして、その途中にサルタビコの神が待ち受け、そのサルタビコの案内で葦原中国(あしはらのなかつくに)にたどり着き、そこで子孫が生まれ、ウガヤいう者が出て、その息子がイワレビコいうことにしました。そして、イワレビコには、イツセ(五瀬)、イナヒ(稻氷)、ミケヌ(御毛沼)の三人の兄がいたことにしまして、最後のマツラの王の名前であるホホデミ(火火出見)をイワレビコの別名としました。
ニニギいうのは葦の生い茂る国の神さまの名前やそうですけど、その国がどこなんか、ようわからへんのです。ただ、二つの大きな川(チグリス川とユーフラテス川)の中州みたいなところにあったみたいどす。ナカツクニ(中国)いうんは、そういう意味らしいどすな。ニニギいうのも、ほんまはニンギルス(ラガシュ国の守護神)いうのかもしれません。
そのあとのサルダ(サルゴン)いうのは葦の生い茂る国の王さん(アッカド王)やったみたいどすけど、ほんまはシャルムケン(セム語読み)いうのかもしれません。
イツセやイナヒやミケヌなどは、どれも人の名前か土地の名前かがはっきりせんところもあったんどすけど、ぜんぶ人の名前にしました。
それから、イワレビコはんどすけど、浪速ですんなり国をつくりはったんではおもしろないさかい、さらに別のマツラの古い鯨皮から読み取れた話を足しました。
その話いうのんは、イスケンデル(アレクサンドロス大王)いう太古の王さんのお話なんどす。
イスケンデルはミケネいう土地なんか人なんかわからんところを出発して海を渡り、イツソスいう者と一緒に敵と戦い、そこからまた東に進んでガウガメラいう者と合戦し、これに勝利してさらに東に進み、大きな川(インダス川)の淵で土蜘蛛みたいな者(抵抗する地方部族)と戦って胸に矢を受けます。それで、その大きな川を南下しましてから陸路で西に向かい、スサいうところを通って都(バビロン)に入ります。
この伝承をもとにしまして、イワレビコにはミケヌ(御毛沼)いう兄がおったことにしました。そして、東に進み、速吸門で亀の背に乗った者に会うことにしました。ガウガメラいうのは、「ガメ(ラクダ)の家」、いう意味らしいのどすが、そのガメがなんやらわからしまへんどした。ただ、ガメは人が乗る動物らしいのどす。それで、亀の背に乗った者いうことにしました。せやけども、家で戦うのはへんやさかい、亀の背に乗った者と合うたゆうことにしました。
その亀に乗ったもんは道案内をしてイワレビコを浪速にお連れしたことにしました。そうして、ここでイワレビコの兄のイツセ(五瀬)が手に矢を受けたことにしました。
イスケンデルは胸に矢を受けますが古事記では手にしました。イワレビコはんには、ほんまは兄弟はおらへんかったようなんどすが、弓矢を受ける者がイワレビコはん自身やと最初の天皇に傷がついたことになりますさかい、縁起が悪うございます。それで、兄のイツセの手に矢が当たったことにしました。
尚、ほんまはイツセ(イッソス)いうのも、もしかすると土地の名前かもしれまへん。へども、兄いうことにして矢が当たったことにしたほうがよろしい思いました。
そうして、イツセには死に際に遺言をさせました。
「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」
これにしたがってイバレビコは南にまわりこんで(紀伊半島をまわりこんで)ヤマトに入ることにしました。イスケンデルは川をくだりはりましたが、イワレビコはんは川ではなくて海を南にまわったことにしたんどす。
イワレはんはカハチで多々良の家(鍛冶屋)のイソゾいう名の娘を嫁に迎えはるんどすが、その嫁の名前はイスケンデルに寄り添う姫いうことでタタラのイスケヨリ姫としまして、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)としました。が、イソゾが抜けとりました。それで、日本書紀には媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)いうふうにしました。へども、今度は「イスケヨリ」が抜けました。
お話がまとまりましたら、楷書に書き直すんはあっと言う間どした。文字を小さしましたら紙の量も減りました。
できあがったものはまず稗田阿礼はんにお見せしました。阿礼はんは、おもしろなかったようどす。
阿礼はんにすれば30年近くもかかって暗誦したことがぎょうさんあったわけで、そのわりには紙の量が少のうございまして、そこがおもしろうなかったと思います。
せやけども、その阿礼はんは、もうえろう歳になってはりました。書き直す時間はもうありませんでした。せやさかい、結局は、
「そんでええ」
いわはりました。
まだまだいろいろありましたが、古事記の編纂は、こんなもんどした。
4ヶ月で済ませました。
四
できあがった古事記を阿閇皇女(元明天皇)さまに献上いたしましたら、天皇さまは大いに悦びはりました。
それで、日本書紀のほうがなかなかできあがらへんことが問題になりました。
天皇さまから、
「日本紀もたのみます」
いわれはったときの安萬侶さんは嬉しそうなお顔ではおまへんどしたが、
「かしこまりました」
て、また頭をさげはりました。
ただ、日本書紀のほうは古事記のようにすんなり行きまへんどした。
最初に仕事を引き受けはった川島皇子さまはすでに亡くなられてはりましたし、そのあとを継ぎはったんは大海人皇子はんの息子の舎人親王(とねりしんのう)どした。
この人は、難しいお人どした。
安萬侶さんが親王はんのお部屋に入りましたら、親王はんは顔を赤こうされました。
怒ってはったようでございます。
「おまえか」
いわはりました親王はんのまわりには大勢の筆生がおられましたが、皆ただじっと座ってはるだけで、だれも筆を動かしとりまへんでした。
そないなところに入ってしもたんは、わたくしにとっても心苦しゅうございました。
それで、安萬侶さんもじっと黙っとられましたら、親王はんが向きなおられまして、
「この山を見い」
いわはりました。
それは紙の山どした。30年間、ほうぼうの国々からいろんな話を集めてこられて、いざまとめよう思ても、どうにも収まりがつかぬようになっとったようでした。
安萬侶さんは、それで、
「この者を置いてまいりますのでお使いくだされ。お役に立つと思います」
いわはって、そのままお部屋を出て行かれました。
・・・・・・あっ、
思いましたが、もうどうすることもでけまへんどした。
親王はんが怒ってはったんは、古事記の編纂で安萬侶さんがいろんな話をどんどん切り捨てはったことや、わたくしがその穴をどんどん埋めてしもたことどした。
「あんまりなことしてくれはった」
いうてはりました。
真面目なお方やったんどす。
わたくしは、それから八年間、舎人親王はんのお側で紙の山と向き合いました。
五
日本書紀が楷書で書かれはじめたんは最後の一年どした。
楷書にするにはすべての事象の経緯や年代を定めねばなりまへんどした。
へども、それは無理どした。
親王はんは正直にそのように記すしかないていわはりました。
それにしても、ある程度は整理せんならんことがようけありました。
いちばん難儀したんは中大兄皇子(天智天皇)の出自についてどした。
ほんまのことはとても書けまへんどした。
親王はんもそこは同意しはりましたけど、それにしてもどのように書いたらええのか結論がでまへんどした。
最後に、わたくしは声を小そうして進言しました。
「中大兄(天智天皇)はんと大海人皇子(天武天皇)はんを同父の兄弟にしまひょ」
親王はんがもっとも赤うなられましたんは、こんときどす。
中大兄(なかのおおえ)はんの実の父親は蘇我氏の者であるいうのが当時の通説どした。おそらく蘇我蝦夷(そがのえみし)どす。
ただし、名目上の父親は母親の宝姫の弟の軽王子ということになっとりました。
宝姫は不義の子を自分の弟の子いうことにしたんどす。
その弟の軽王子が即位することになるとはだれも思てなかったようどす。
あまり賢いお方ではなかったんどす。
ところが、宝姫の夫やった田村皇子(舒明天皇)が亡くなりはって、そのあとがごたごたしまして、その場しのぎに宝姫が即位しはって、その4年後には軽王子が即位しはることにならはりました。
なんでか言いますと、
宮中で蘇我入鹿(そがのいるか)が中大兄はんに殺されたんやどす(乙巳の変)。
蘇我入鹿は中大兄の兄弟やったんどすけど歳はえろう離れてはりました。殺されたときの入鹿は50歳をすぎてはりましたが、殺しはった中大兄はんはまだ20歳どした。
中大兄はんには中臣鎌足(なかとみのかまたり)いう悪もんがついてはって、これが一切のことを取り仕切ってはったようどす。で、この鎌足が、
「軽王子を即位させなはれ」
と、いいはったそうどす。
中大兄はんは軽王子の息子いうことになっとりましたさかい、軽王子が大王になりはったら、その次の大王は中大兄はんになりますわな。
宮中のもんらはみんな驚いたようどすけど、余計なことを言えば自分も殺される思て黙ったようどす。
ほんで、中大兄はんは皇太子とならはりました。
皇太子いうてもただの皇太子ではありません。自分の下に右大臣、左大臣などいろいろと役職をつくらはって、摂政みたいなもんになって、一切の政務を取り仕切る立ち場になりはりました。
これ以降、中大兄はんは、わかっているだけで政敵を3人死なせとります。
だいたいは謀反の疑いがあるいうことで死罪にしはりました。
それから、百済の再興をはかるため、いうて唐王朝と合戦することとなり、白村江に3万以上もの人数を送り込みはったときには1万以上を死なせはりました(白村江の戦い)。
中大兄はんの悪行は人を死なせるいう以外にもありました。
みんなが所有してはる土地をぜんぶ大王はんのもんにするいう、とんでもない制度をつくりはったんどす。
隋や唐ではあたりまえのことや、言うてはったそうどすけど、それがええことやとは、だれも思わんかったでしょうな。
そんなこともありましてな、中大兄はんは宮中でもどこでも嫌われてはりましてんけど、怖ろしゅうて、だれも何も言いはらへんかったらしいどす。
この中大兄はんが即位しなはったんは42歳のときどす。
亡くなったのは46歳どす。
皇位を継いだのは息子の大友皇子どしたが、これは大海人皇子はんに殺されました(壬申の乱)。何万という軍勢が大海人皇子はんのもとに集まりましたのは、大友皇子はんがいかんかったからいうよりも、中大兄はんに対する反感が大きかったいうことどす。
尚、日本書紀をまとめることとなった舎人親王は大海人皇子はんの息子どしたが、母上は中大兄はんの娘やったんどす。大海人皇子(天武天皇)のあとに即位しはった鸕野讃良はん(うののさらら=持統天皇)も阿閇はん(元明天皇)も中大兄はんの娘どす。
せやから、日本書紀をまとめるにあたっては、中大兄はんは立派な人やったとせなあきまへんどした。それに、大海人皇子はんも正統な流れで天皇になりはったことにせなあきまへんどした。
そうしますと、中大兄はんが実は軽王子の子ではない、いうのがまずよろしくありまへんどしたし、実の兄の蘇我入鹿を殺しはったいうことも差し障りましたし、その後に蘇我氏の者を次々と追いつめて行ったことも差し障りましたし、皇太子になりはったときからずっと人望がなかったいうこともよろしくありまへんどした。
それでも、中大兄はんが即位しはったからには、その皇位は息子の大友皇子が継ぐんが筋どした。その皇位を奪った大海人皇子はんは反乱者いうことになります。
そのあたりの事情をうまいこと収めるには、中大兄はんが大海人皇子はんの兄やいうことにしとくんがよろしおした。
もともと実の母親は一緒やったさかい、父親も一緒やったいうことにするのはそれほどおかしない思いました。中大兄はんの父は蘇我蝦夷でも軽王子でもなく、田村皇子(舒明天皇)やったいうことにするわけどす。
中大兄はんが田村皇子(宝姫の夫)の子やったとすると、これは不義の子ではないことになります。蘇我入鹿を殺したんも自分のことのためやのうて政務をよろしゅうするためやった、いうことにできます。それに、兄の中大兄はんから弟の大海人皇子はんへ皇位が移行するんは反乱とは言えまへん。
へども、舎人親王はんは、なかなかこの案に頷きはらへんかったどす。
大海人皇子はんは中大兄はんが皇太子やったときに、その娘を4人も妻にしとったんどす。これは謀反の疑いをかけられるのを怖れて中大兄はんとの絆を強う結ぶためやったわけどすが、2人が同じ父親の子いうことにすると、えろうおかしなことになります。同父の兄の娘を4人も妻にするいうのんは前代未聞どすさかいな。
しかも、大海人皇子はんは中大兄はんより4つも歳が上やったんどす。
それに、舎人親王はんの母上はその4人の妻のひとりどした。
「んなアホな」
て、舎人親王はんは顔を真っ赤にされました。
へども、結局はわたくしの案で収まりました。
他にええ案がありまへんでした。
尚、大海人皇子はんは日本書紀の編纂を命じはったお方なわけどすけど、その生没年は記さないことにしました。ほんまは弟ではなかったいうのがばれますさかいな。
この件についてはだれも何もいわはらしまへんでした。
どのみちもう大海人皇子はんは亡くなってはりましたし、阿閇はん(元明天皇)も退位しはってましたし、譲位をうけはった氷高皇女はん(ひだかのひめみこ=元正天皇)は大海人皇子の孫でしたよって、そのへんのことには関心が薄いようどした。
そないなわけで、中大兄はんの出自の件は収まりましたけど、修正せなあかんことは、まだまだありました。
中大兄はんが蘇我氏のもんを徹底的に除外しはったことをうまいこと説明せなあきまへんでした。
それで、蘇我氏の者がみんなで大王をさしおいて独断で政務をしてはった、いうような話をつくりました。
そおして、蘇我氏が悪もんやて見せるために蘇我氏の功績はぜんぶ別の人の功績いうことにしました。
その別の人には、上宮太子(かみつのみやたいし=聖徳太子)いう者を選びました。上宮太子は叔母の豊御食炊屋姫(推古天皇)の摂政を務めはった方どした。
なんでその上宮太子を選んだかいいますと、まずもって、その子孫が絶えておったいうことで都合がよかったんどす。子孫がいはりましたらその業績を盛ったり削ったりすることができしまへんさかいな。
それに、上宮太子は摂政いう高い地位におられたわりにこれといった業績がありまへんねんどす。蘇我馬子と蘇我蝦夷の時代の摂政どすから、宮中に腰かけてはっただけやったんでしょうな。それで、蘇我氏が定めはった冠位の制度のことや、17条の憲法のことや、遣隋使のことや、法隆寺を建立されはったことなどの業績をすべて上宮太子の業績としました。
それから、その名前は厩戸(うまやど)いうことにしました。
天の石屋戸から出てきはった神さんが馬小屋でお生まれになりはったいう話をわたくしの祖先が代々語り伝えておりましたもんで、そういう名前にしました。
ちなみに、この厩戸皇子の息子の山背大兄王(やましろのおおえのおう)は中大兄はんに殺されはったんどすけど、蘇我入鹿に殺されたことにしました。
こんときも舎人親王はんは真っ赤な顔をしはりまして、
「オマエは蘇我氏どころやおへん。極悪人や」
いわはりましたが、結局はそういうことになりました。
他にも苦労話はいくつもありますが、大きところでは、ヲホド大王(継体天皇)の即位のところですな。
ヲホド大王は大海人皇子(天武天皇)の祖先になりますが、これがイワレビコの子孫であったという証しがないんどす。若狭のあたりで大きな国をつくってはったようなんどすが、どういう経緯でワカタケル大王(雄略天皇)のあとに即位されたんかがわからんのどす。話としてはホムタ大王(応神天皇)の分家の子いうことになっとりましたが、その分家の者の名前もなにも出て来いひんのどす。
それで、わたくしは、まず、ワカタケル大王のあとに4人の大王がおったことにしまして、4人目の大王(武烈天皇)が無道のかぎりを尽くされた者やったことにしました。そうすればヲホド大王が即位した経緯がすんなり腑に落ちるようになります。そして、ホムタ大王からヲホド大王までの分家の系図もつくりました。
舎人親王はこんときは何もいわはらしまへんでした。
へども、筑紫君イワイとヲホド大王の戦いについては、かなりやりとりしました。
イワイはほんまは合戦したなかったんですわ。
合戦になったんは、ヲホド大王がどうしても筑紫国を手に入れんならんいう思いがあってのことやったらしいのですが、これはそれこそ無道な征伐どした。そのため決着がついたあとも筑紫国はすんなり服従せんかったみたいどす。イワイは豊前に隠れてしもて出て来んようになったりして、はなはだあきまへんどした。
しかたがないので、古事記では、もう、ここのところは言葉短く終わらせました。
日本書紀もそのようにしとこう思いましたが、舎人親王は、
「そんなわけにはゆかん」
いわはりまして、どうしてもしっかりした話をつくらねばならなくなりました。
たしかに筑紫国の件は言葉少なく終わらすのはいけまへん。
筑紫国をそのままにしておいたら唐との船合戦は負けへんかったかもしれまへんし、そのまえに、唐と合戦せんですんだかもしれまへん。筑紫国は新羅をおさえておったさかい、筑紫国がうまくやれば、ヤマトと新羅が戦うことにはならんかったはずどす。これが唐との戦いにまでなったんは、筑紫国を潰したからどす。
ヲホド大王がやったことは褒めたらいかんことどした。
へども、そのヲホド王のつたない征伐があったおかげでヤマトと新羅の関係が悪化しました。そいで、中大兄(天智天皇)は百済を復興せんならんようになり、白村江での大負けとなりまして、それがあったがために大海人皇子が大友皇子(天智天皇の息子)を倒して即位するいうことになりました。
大海人皇子(天武天皇)が古事記と日本書紀をつくることにしたんは、そのあたりのことをきちんとせんならん、いうこともあったわけどす。
せやけども、もう、大海人皇子はんはおられしまへん。
ヲホド大王のことをこと細かに書いてみても歓ぶ者はおりまへん。
そこで、わたくしは、
「イワイがヲホド王に反乱したいう話にしてはどうでっしゃろ?」
て、舎人親王はんに申し上げました。
この件も、いろいろとありましたが、最後はこれで収まりました。
それから、ホムタ王はん(応神天皇)の母親の件がいろいろといわれております。
古事記では、神さんみたいな人として書きましたんやけど、日本書紀では、実際におはったお方として書きました
名前は、
オキナガタラシ姫(神功皇后)
としました。
もともとこれは、漢や魏の時代の向こうの文献に書かれとった、太古の昔の女王さんのことやったんやどす。そちらの文献でのお名前は、
卑弥呼(ひみこ)、
いいます。
えろう立派なお方やったらしく、
「親魏倭王」
いう肩書きをいただいて金印を授かったそうどす。
せやけども、ごっつう気の強い女王はんやったらしく、夫であった王をはりつけにして殺したそうどす。
この女王はんはヤマトの王の祖先ではないですし、その業績をそのまま書いてしまうと、ヤマトが魏王朝の臣下となっておったことになってしまいます。
それで、名前を変えましたし、業績も変えました。
新羅や任那や百済を平定した女王いうことにしまして、ホムタ王の母親いうことにしました。
はりつけにされた夫は病死したことにしました。
まだまだありますが、日本書紀の編纂はこんなもんどした。
大海人皇子はんの命が下ってから、できあがるまでには、40年かかりました。
あっ、言い忘れておりましたが、日本書紀を楷書で清書したんはわたくしではありません。東漢氏(やまとのあやうじ)のもんどした。漢人に読ませるために漢語で書くこととなり、漢語がかけるのは東漢氏のもんが一番ええいうこととなりました。その文体は古うおましたけれども、天皇はんはそこがええいわはりました。
六
日本書紀ができあがりましたんは5月やったんどすけど、その3ヶ月前の2月に、日向のほうでえらい騒ぎがありました。
朝廷から派遣されてはった国司(クニノツカサ)はんが、隼人に殺されてしもうたんどす。
事件の発端は古事記どした。
古事記ができあがった翌年(713年)に阿閇皇女(元明天皇)は、日向の地を南北に分割しはりまして、北側を日向国(宮崎県)のままとし、南側を大隅国(鹿児島県の東側)としはりました。この大隅国は稲の育ちにくい土地どしたもんで、律令制にはもともと反発しとりました。米による納税を強制されてもでけへんどしたんどす。
せやのに阿閇皇女(元明天皇)は、これを分割しはって、そこに国司を派遣しはって納税のことを強めはったんどす。
古事記では、日向の地は神倭伊波礼毘古命(イワレビコ)はんが出発したところとなっておりましたんで、その地の者がヤマトにまつろわぬいうんはおもしろなかったんどすな。
日向の隼人はこのときも暴れまして、朝廷は兵を送っとります。
騒ぎを収めたあとは、豊前から5千人を大隅国に移住させはりまして、隼人たちの考えを改めさせようとしはりました。
へども、隼人たちはこれにも怒っておはったようどす。
そうして、今度は日本書紀ができあがるいう話がひろまってしもたさかい、それで大隅の隼人たちは、やられるまえにやったろう、いうことになったようどす。それで、その矛先が国司にむけられたんどすわ。
国司いいますんのんは、国造とちゃいます。国造は現地の実力者に統治を任命するもんどすけど、国司は朝廷から派遣される役人どす。これを置くいうことは、天皇が直接統治しはるいうことどす。
日向の隼人いうんは、一応はヤマト朝廷に従うておりました。大海人皇子が即位されはった際には貢物を持って参上しはりました。せやけども、隼人がヤマトの支配下にあったんかいいますと、そこは微妙やったんどす。国造(クニノミヤツコ)はおりましたけれども、それは形ばかりのもので、隼人たちを統治する王さんのようなもんが別におりました。
その隼人の地である日向がイワレビコの出発地やいうことは、天皇は隼人の末裔いうことになります。へやけど、隼人にすると、それはありえへんのどす。
ヤマトのもんは、言葉もちゃいますし、食べるもんも着るもんもちゃいます。
それに顔も肌の色もちゃいますのんや。
朝廷は隼人たちのことを、まつろわぬ者いいまして、ずいぶんひどいことをしはってました。そないな経緯がありますのに、いきなりおまえさんたちはもともと天皇の配下やったんや、いわれても納得できまへんわな。
朝廷は騒ぎを鎮圧するために1万もの軍勢を送り込みはりました。
大隅の隼人は7つの城に立て籠もったみたいどすけど、そのうちの5つは落ちました。せやけども、あと2つはまったく落ちる気配がおへん。
七
古事記や日本書紀で反発するもんは他にもいくらかおるみたいどす。
せやけど、ほとんどの国は古事記や日本書紀の記述をそのまま受け容れとります。
各地のお宮や社では古事記に書かれた神さんを祭るようになりました。
アラハバキの神などはどこのお宮でも祭るのをやめてしまいまして、その代わりに天照大神を祭ったりするようになっとりますし、わたくしが創作した架空の人物を祭るところがようけ出てきはりまして、お宮の口伝などをそれに合わせて変更するところもぎょうさん出てきました。
例えば、ヲホド王(継体天皇)が征伐しはったイワイ(磐井)が隠れた香月いうところにはスギモリの宮(杉守神社)いうのがあるんどすけど、そこはもともと、イワイを祭るお宮やったんどす。
へども、古事記にはイワイが香月村に隠れたことは書いとりまへん。物部荒甲と大伴金村が遣わされて石井(磐井)を討った、と記しました。
そのせいか、スギモリの宮ではイワイを祭るのをやめてしまい、倭建命(やまとたけるのみこと)や息長帯比売命(神功皇后)や品陀和気命(応神天皇)や大雀命(仁徳天皇)を祭るようになりました。
尚、そのスギモリの宮は、その地でイワイを助けた香月氏が創建したものどしたが、ヤマトタケルが創建したいうことになりました。
それで、そのお宮の口伝ではヤマトタケルが熊曾建(くまそたける)を征伐したいう古事記のウソをそのままお使いになりはって、そのヤマトタケルがそこに逗留しはったときに香月いう地名を名づけたいうことになりました。
人は権威や権力に弱いもんどす。
そこにすり寄るもんは事実がどうであったかなんてことには頓着せんようどす。
わたくしは歴史を書きました。
これは罪なことやったんやなと思ております。
これから日本書紀の内容が広まりましたらどないなことになりますやろかと、案じております。
あとがき
わたしは勝木という者ですが、北海道生まれです。
父方の曾祖父の実家は福井県で水田稲作をしていたようですが、曾祖父は農家の仕事をやってられなかったらしく、田畑を質に入れて博打に興じ、勘当されて札幌に流れてきたそうです。
Y染色体は弥生人です。
父は酒に弱く、そのへんは弥生人の遺伝子のようです。
縄文人と弥生人のちがいについては昔から多少の知識がありました。井上光貞先生の「日本の歴史1」や佐原真先生の考古学に関するご本などを読んで感心しておりました。
しかし、だんだんと疑問を感じるようになりました。
縄文人は弥生人に呑み込まれてしまってもともとの生活様式を失い、農耕民になったか、そうでなければ絶滅した、というストーリーが当時の主流だったのですが、そうなのかなと思うようになりました。
世間を見わたすと、そこにはいろんな人がいます。先祖代々農家をやってきたんだろうなと思われるウチの父のような人間もいますが、そういう人ばかりではなく、この人はどこまで祖先をたどっても農家はやったことがないんだろうな、と思われる人もいます。戦国時代の武将などは、
・・・・・・地味な百姓などやってられるか、
ってなもんで、一発勝負で豪勢に暮らしたい、というような人たちだったように見受けられます。
で、そういう人たちというのは、実は弥生人の末裔ではないんじゃないかなと思うようになりました。弥生人というのは実はそういう人たちの下でずっと飼い殺しのような境遇に置かれていたのではないか、という気がしました。
それで、107年に後漢に朝貢した倭国王帥升が縄文人だったとしたら面白いなと思い、その風景を小説風に描いてみました。
そして、その帥升が後漢に献上した生口160人というのは弥生人で、
・・・・・・弥生人というのは縄文人の奴隷だった、
と考えました。
尚、学術的には、最初の弥生人がどういう経緯で北部九州にやってきたのかはいまだに解明されておりません。多くの先生がたの説によれば、弥生人が稲作の技術を持って日本にやってきた、というだけのことになっています。
黒潮に乗ってたまたま流れ着いた、というような説もありますが、それはちがうだろうと思います。弥生人は狩猟民ではなくて、はじめから専業農家の人たちだったみたいですから、縄文時代の日本のどこかに漂着したのならこれはロビンソン・クルーソーのようなものです。まずは自分の家に帰ろうとするでしょうし、それができなければ餓死したでしょう。縄文人に助けられたとすれば生き延びられたでしょうけども、しかし、そこで稲作をはじめるなんてことは想像できません。
森や野原に畑や田んぼをつくるというのは大変な作業です(わたしはやったことないです)。最初の収穫までには最低でも半年はかかるでしょう。5人や10人ではできません。
少数の農耕民が狩猟採集民に助けられたなら、農耕はあきらめて狩猟採集民に同化するはずです。
はじめから稲作をするつもりで北部九州にやってきたのだ、という説もあるようですが、その様子もちょっと想像できません。
船に農耕具を積み込んで、最初の収穫までの食糧も積み込んで、百人とかの集団でやって来たのだとすると、どのくらいの荷物になるでしょう?
それほどの荷物を運ぶにはかなりの大型船が何隻も必要になるでしょう。それほどの初期投資をして、その目的地は藪と森と山ばかりの縄文時代の日本ですか?
追いつめられてどこかに逃げねばならなかったとしても、縄文時代の日本に来るというのは投資効率が悪すぎます。
しかし、奴隷として縄文人に連れて来られたのだとすると話はすんなりつながります。縄文人も小規模な家庭菜園程度の農業はしていたわけで、大陸にわたって交易のようなこともしていたようですから、
……大陸なみの大規模な水田をつくるべし、
と決意して、そのための労働者を大陸から連れてきた、というのであれば、そこから大規模な稲作がはじまる情景が目に浮かびます。
尚、稲作は長江流域または珠江流域から日本に入ったとする説がありますが、その地域の人たちのハプログループ(祖先を見分ける遺伝情報)は弥生人のハプログループとは一致していないようです。それらの地域の稲作文化が朝鮮半島経由で日本に入ったというのも無理があるようです。長江近辺から北をまわって朝鮮半島に入るとなると、経路の途中が米を作れない地域であるためです。稲作分化を持った人たちが山東半島から遼東半島に渡ったという説もあるみたいですが、リアリティを感じません。長江流域の人たちのY染色体を持った人が朝鮮半島にはほとんどいないらしいのです。
結論としては、朝鮮半島の稲作は北部九州から輸出されたもののようです。
弥生人は朝鮮半島から渡来したのではなく、縄文人に連れられて北部九州から朝鮮半島に渡っていったようです。
東京大学大学院は、朝鮮半島の三箇所(群山市、安島、金海市)から出た人骨が弥生人と同系統の者である、ということを論拠として弥生人が朝鮮半島から渡ってきたと結論づけていますが、その三箇所のうちのひとつである安島の骨のDNAは弥生人のものでも縄文人のものでもないようです。もうひとつの群山市から出た人骨のDNAも弥生人とは別のものだったようです。ただ、その骨が甕棺(かめかん)に入れられていたので弥生人と同系統とされてるようです。が、甕棺墓による埋葬方法が朝鮮半島由来だという証拠はないようです。
DNAが弥生人と一致したのは金海市から出た人骨ですが、その遺跡は縄文人の墳墓です。
金官伽耶国の金海大成洞古墳群という遺跡がそれなのですが、そこの12号墓の墓主は縄文人のY染色体ハプログループである D1a2a1 に属していたようです。で、殉葬者が現在の韓国人(3割ほど)にみられるY染色体ハプログループ O1b2a1a2a1b1 に属す男性であることが判明したそうです。
O1b2a1a1…であれば弥生人で、O1b2a1a2a…ならば韓国人となります。その末尾が2b ならば漢人になるようです。それらはどれも弥生人と同系統だそうです。ただ、この金海市の弥生人は、縄文人の奴隷として殉死させられていたわけですから、もともと朝鮮半島にいた人というよりは北部九州から縄文人に連れられて朝鮮半島に渡った人の末裔でしょう。
弥生人が朝鮮半島から来た人たちではないとすると、いったいどこから来たのか、ということになります。
O1b2a1a・・・というY染色体を持つ人が主流である民族がどこかにいれば、その人たちの一部が北部九州に入って縄文人と混血して弥生人になったということになるのですが、そういう民族は古代にも現代にもみつかっていないようです。 ちなみに、朝鮮族や漢民族の主流は O1b2a ではないそうです。どちらも過半数が O2 系だそうです。
弥生人は北東アジア系の民族が縄文人と混血したものだと言われてますが、実際には北東アジアの主流も O2 系だそうです。O1b2a1もわずかにはみつかるようですが、10%以下であるそうです。
弥生人は水田稲作をした人たちなので長江流域から来たのだという説がありますが、長江流域の古人骨でO1b2a1がみつかったことはないそうです。現在の長江流域の人たちにもほとんどいないようです。
くり返しになりますが、過去においても現代においても、O1b2a1が主流となっている民族というのは発見されていないようです。
オリジナルの民族がすでに絶滅していて、そこから枝分かれした子孫だけが各地に生き残っている・・・・・・というケースは人間社会ではわりとあるようです。とくに、王朝をつくってその下で寄り集まったような状況にある民族の場合、その王朝が他民族に征服されたりすると民族自体が絶滅してしまうことがあります。征服した側は女子を奪って子を産ませますけども、男子を優遇することはまずありません。大陸では、征服された民族の男子はほとんど皆殺しになりますし、生き延びても生活基盤が失われるので男子のY染色体は短期間のうちに消滅してしまいます。
この点を踏まえて弥生人の起源を考えますと、それは日本列島に入ってくる少しまえに滅亡した王朝の民であろうと思われます。
時代的には紀元前1000年頃でしょう。北部九州で水田稲作がはじまったのがその頃のようです。
で、その頃に滅んだ王朝を探してみましたら、ありました。
紀元前1046年に滅んだ商(ショウ)王朝です。
一般には殷(イン)と記されてますが、これは商を滅ぼした周の民がそう呼んだもので、実際には殷王朝というのは存在しなかったようです。殷の民は自分たちの王朝を「商」と記していたそうです。
で、周の民は商の民を殷人と呼び、これを奴隷にしたそうです。
尚、商の最後の首都であった殷墟からは多数の骨が出ているようですが、発掘されたのが昔であったために保存状態が悪く、商王朝時代の人骨でDNAを解析できたものはないらしいです。
なので、証拠はないのですが、弥生人の祖先が商の民である可能性は高いと思います。ちなみに、これを否定する証拠もありません。
おそらく、縄文人は黄河の河口あたりの市場などで奴隷として売られていた殷の民を買い、北部九州に連れ帰って水田の開墾作業などをさせたのでしょう。
この作品では、奴隷として買われて来た最初の弥生人は水稲栽培を知らなかったとしましたが、商王朝は水田稲作をしており、これを滅ぼした周王朝も水田稲作をしていたようです。ただ、奴隷となってしまった民には教育を受けるチャンスがほとんどなかったでありましょう。市場で売られていた奴隷には水稲栽培の技術はなかったと考えました。青銅器をつくる技術などもなかったと思います。
尚、縄文人が北部九州で支配階級を形成していたとことを証明する文献などはありません。
ただ、北部九州の古墳に埋葬されていた人骨に抜歯をしたものがあり、これが縄文人の文化を継承した者の骨であろうと想像されています(縄文人には歯を抜く風習があった)。古墳時代に至ってもそこには縄文系の人物がいて、これが古墳に埋葬されていたのだとすると、弥生時代を通じて縄文系の人たちが支配階級をなしていたということになります。
そう考えて5世紀頃の北部九州の装飾古墳の内装を観ますと、それらは明らかに東アジア系の装飾ではありません。東洋系というよりも、アフリカ系に近いです。縄文人は東南アジア経由で日本列島に入った人たちのようですが、共通の祖先であるホアビニアン系の人たちは黄色人種ではなく、アフリカ人に近いです。縄文人の血が薄い地域である畿内などの古墳の壁画などは中華文明系の絵ですが、北部九州の支配層はそれらとは別系統の人種だったろうと思われます。で、それは縄文人だったと思われます。
北部九州で最初に水田稲作が行われた時期の遺跡(菜畑遺跡 板付遺跡)からは縄文晩期の土器が出ています。このことは、最初に水稲栽培をはじめたのが縄文人だった可能性を示唆しています。
また、弥生人の核ゲノムの解析からも縄文人と弥生人の関係がうかがえます。
佐世保市の下本山岩陰遺跡から出土した弥生後期の人骨の核ゲノムの6割ほどが縄文人由来のものだとわかっていますが、弥生人と縄文人がそれぞれ別々のコミュニティで暮らしていたならば、縄文人のゲノムが六割も残っているはずがありません。弥生人は稲作をしてどんどん人口が増えますが、縄文人は狩猟採集生活でほとんど人口が増えません。
縄文時代末期の縄文人の人口は6万人から7万人ほどだと推計されていますが、弥生時代後期の日本列島の人口は50万〜60万人と推計されています。弥生人と縄文人が別々に対等な関係で暮らしていたのであれば、弥生後期の弥生人の核ゲノムにおける縄文人の比率はほとんどゼロであったでしょう。なのに、縄文人由来のゲノムが6割というのは、縄文人と弥生人の間になんらかの共生関係があり、しかも、その社会的地位では縄文人のほうが圧倒的に優位であったとしか思われません。
ちなみに、そういう現象が北アメリカで起きています。奴隷として連れてこられたアフリカ人の女子は奴隷であったときに主人である白人の子を産むことが多く、今現在の北アメリカの黒人のほぼ全員が純粋なアフリカ人ではなく、ほぼ全員が白人の遺伝子をもっているのです。
佐世保の弥生人のゲノムの半分以上が縄文人由来であるということは、弥生人が日本列島に入った初期段階で、半数以上が縄文人と混血したということであり、縄文人の子は子孫を残しやすかったということです。
尚、山口県の土井ヶ浜遺跡からは弥生前期(紀元前5〜3世紀頃)の骨が300体も出ています。そのうちの一体についてゲノム解析が行われましたら、縄文人由来のゲノムは1割程度しか検出されなかったようです。
佐世保の骨は弥生後期(1世紀〜3世紀頃)のもので、山口県の骨は弥生前期(紀元前5〜3世紀頃)のものだそうです。前期の骨の縄文比率は1割で、後期の骨は6割ということなのですが、このデータをどう読むかは難しいところです。東大大学院は佐世保のデータを無視することにしたようです。
が、これも渡来人が縄文人の奴隷であったとすると説明がつきます。
佐世保を含む北部九州は奴隷の輸入の窓口であり、そこには縄文人が支配層となっているクニがあった、とすると、そこから出た弥生後期の骨の縄文比率が高かったことが説明できます。
で、北部九州の水田稲作は紀元前3世紀頃から一気に北陸方面にまで伝播したようなのですが、これは余った奴隷を輸出するようになったためだと解釈できます。輸出された奴隷は支配層との縁の薄い者であったでしょうから、それらの縄文比率が低くなるのは当然のことと言えます。
尚、今現在の日本人男性の約3割は縄文人のY染色体を持っているそうです。が、核ゲノムにおける縄文人の比率は1割程度だそうです。混血の比率では1割なのに、Y染色体が3割も残っているという現実を説明するには、弥生人が縄文人の奴隷であったとするとすんなり落ちます。弥生人の男子が縄文人の女子に子を産ませることはほとんどなく、もっぱら弥生人の女子が縄文人の子をたくさん産んだということになるわけです。
そういう日本のなかでも、縄文人の血統が比較的に濃い地域と薄い地域があるようです。
濃い地域は東北、島根県、鹿児島県、沖縄県あたりで、縄文人の血統が薄いのは四国、和歌山県、奈良県、三重県、滋賀県、福井県、あたりみたいです。
濃いところというのは米がつくれない地域であり、弥生人も渡来人も入って行かなかったところだと思われます。で、薄いところには弥生人や渡来人が多かったのだろうという話になりそうですが、もうひとつ別の要素もあったと思われます。
身分制度が緩やかだった、ということです。
身分制度が厳しい土地では縄文人の血統が支配層として長く残り、身分制度がゆるやかだった土地では早くから混血が進んで縄文人の血統が薄くなった、ということもあると思います。
弥生人や渡来人の玄関口となった北部九州では縄文系の血統が消滅していても不思議がないわけですが、実際にはそうなっていません。これは、そこに厳しい身分制度があって、支配層が縄文系の血筋を守っていたからだと思われます。
いわゆる魏志倭人伝によりますと、倭国には四つの身分があったことが記されています。
大人、下戸、生口、奴婢、
の4つです。
奴婢は卑弥呼の墓に埋められたそうですから、これは奴隷以外の何者でもありません。
生口も後漢や魏への献上品だったわけですから、奴隷のようなものでしょう。
下戸は一般庶民という雰囲気ですが、それでも道で大人と遭遇すると草むらに土下座して大人に道をゆずったようです。
弥生人が生口や下戸と呼ばれた奴隷階級の者だったとして、それらの輸入元だった北部九州では奴隷身分の者を差別する風土が強かったろうと思われます。大陸から連れてきた時点での奴隷たちは言葉も通じず、生活様式もちがうのです。
しかし、四国や畿内では、その差別意識が薄かったろうと思われます。四国や畿内に入った奴隷は大陸から直に輸入されたのではなく、北部九州から輸入されたと思われるからです。
北部九州に入って何世代も経た弥生人たちは、言葉も通じますし、生活様式もあまり変わらなくなっていたはずです。それらを商品として売っていた者たちは見栄えがよくて従順な者を選んで送りだしたでしょうから、買う側はそれらの奴隷を歓迎したでしょう。で、あまりひどい身分制度はできあがらなかったろうと思います。
このため、支配層にまで混血が進み、縄文系の血統は薄くなったろうと思います。
天皇家の血統(Y染色体ハプログループ)が縄文系なのか渡来系なのかはわかりませんが、ヤマト朝廷の支配が早くから根づいた地域では縄文人の血統が薄いようです。ヤマト朝廷では奴隷を墓に殉葬するようなことをやめて、奴隷の代わりに埴輪を埋めるようになったようですが、それは身分制度がゆるやかだったからでありましょう。
尚、天皇家が縄文系のY染色体をつないできていたのならば、その落とし胤などは地域の名士になるわけで、畿内とかでもある程度その血統が濃く残ったのではないかという気がします。ヤマト朝廷の支配圏で縄文系が薄いということは天皇家は渡来系なのかなと思ったりします。
ですが、高い身分の者のDNAは下々の者たちには行き渡らなかったのかもしれませんし、断定的なことは言えません。
とりあえず、この作品では、天皇家の祖もマツラ国の縄文人のY染色体を持った者(タギリ)の末裔だったとしてあります。
ちなみに、奴隷身分になっていた者が天下をとって天皇になったということはないと思います。そういう事例を聞いたことがありません。奴隷身分だったのにローマ軍と戦ったスパルタカスの事例がありますが、結局は革命を興すところまでには至らずに戦死したようです。奴隷身分だった者が階級闘争をして平民になるということはあるようですが、支配層に取って代わるということはないだろうと思います。
オバマ大統領の例がありますが、これは現代の民主主義社会の現象です。王侯貴族が支配層になっているような社会では生じない現象だと思います。それに、バラク・オバマは奴隷の子孫ではありません。父親はケニアのニャンゴマコゲロ村出身です。母親はアメリカ人ですが、これは白人です。
なので、天皇家の血統が渡来系であったとしても、これが奴隷の末裔であった可能性は低いと思います。
弥生時代の中期頃には米の生産も飛躍的に増えていて、その米を目当てに自分たちの意志で日本列島に入ってきた渡来人が多数あったと思われます。それらは盗賊団のような組織をつくって弥生人の村々を襲い、そこに国をつくったかもしれません。
実際に、愛知県清須市の朝日遺跡では、弥生時代中期に支配層の交代があったことが確認されています。それまでの支配層は縄文時代からそこに住んでいた者の末裔だと思われますが、交代した支配層は渡来人でした。
ヤマト朝廷がそういう経緯で成立した可能性も否定はできません。
尚、この物語はマツラ国が滅亡するまでを描いております。
なぜマツラ国(末盧國)なのかといいますと、マツラ国があったと思われる松浦半島は縄文時代がはじまる直前まで対馬とつながっていたみたいなのです。当時も対馬海流は流れていたようですが、川に近いものだったようです。
その松浦半島の先端には古代の先進文明の拠点があり、対馬海峡をはさんだ対岸から大陸を監視していて、その拠点が縄文時代を経てマツラ国となった、という設定になっています。
実は、この作品は別のもうひとつの作品の後編にあたります。
前編となる作品は、太古の昔の先進文明を描いたものです。その文明圏の人たちは、大陸に農耕文明が発生することを怖れていて、どこかで農耕をはじめる者が出てくると軍勢を派遣してことごとくその集落を焼き払った、ということにしてあります。
縄文人が1万年以上も大規模な農耕をしなかったのは、その軍団の拠点が松浦半島にあったから、というのがこの作品の土台となっています。
縄文人が農耕をはじめたのは、大陸に派遣した軍勢が現地人を支配下に入れて王国をつくったりして、それらと対抗するためには大規模な農場が必要になったから・・・・・・としています。
農耕を開始すると各地の農場主が独立するようになり、マツラの国はどんどん孤立していき、縄文海進で多くの土地を失い、何度も都を内陸側に移転しているうちに種々の技術も失われていった、ということにしてあります。
奴国や邪馬臺国はそういうマツラ国の衰退期に台頭した新興勢力で、短期間のうちに消滅した、という設定にしてあります。
ちなみに、そういう設定にしてあるのは、ただストーリーを面白くするためということではありません。
縄文人はアフリカを出たホモサピエンスが東南アジア経由で4万年まえ頃に日本列島に入って独自の文化を持ったものらしいのですが、これはニューギニア人やアボリジニやタイの山中で暮らすマニ族(ホアビニアン系民族)などと共通の祖先から枝分かれした人たちだったということです。が、それだと縄文人の文化レベルが高すぎます。
縄文人が世界に先がけて土器や磨製石器をつくるようになった経緯には、なにか大きな要因があったにちがいないと思われます。で、先進文明を持った太古の民族が縄文人たちに文化面で影響を与えたとしました。
マツラ国の伝承の中に古代の西アジアの記録があったとしたのは、そういうことです。
ちなみに、古事記の神話がマツラ国の古文書を参照して書かれたというところは、フィクションです。
ただ、西アジアの神話や伝説が日本に入って来て、それが日本神話として書かれたということはあったと思います。
ヒッタイト王国(紀元前1680年頃〜紀元前1190年頃に存在したアナトリアの国)には実際にハットウシリ三世という名の王がいまして、これがエジプト王のラムセス2世と世界最初の平和条約を結んでいます。そのヒッタイトの神話にはイルヤンカという大蛇のエピソードがあり、イナラという女神が天候神を助けるためにイルヤンカに酒を飲ませます。
大蛇の神話はメソポタミアやインドや北欧などにもありますが、酒を飲ませて殺す、というのは日本神話とヒッタイトの神話だけのようです。
それから、古代エジプトのオシリス神とセト神のエピソードはオオナムジが八十神に殺されて蘇るエピソードと実際によく似ています。
また、シュメール人は南メソポタミアの土地のことを「葦の主の国」と記したようです。で、その地で最初の統一王朝をつくったのはサルゴン大王(紀元前2300年頃の人)で、その次にシュメールの地を統一したのはラガシュという都市国家のグデアという王(紀元前2144年頃〜2124年頃)です。で、そのラガシュの守護神の名はニンギスルといいます。ニニギの子音はNNGですが、ニンギルスの子音はNNGSとなります。シュメール人の言語は膠着語なもので筆記する際は母音を省略することが多かったようです。尚、そのシュメール人の楔形文字は表意文字と表音文字の両方を併せて使うもので、漢字と仮名文字を併せて使う現代の日本式の筆記方法とよく似ています。
また、アレクサンドロス大王(アジアではイスケンデールと呼ばれていた)の東征のエピソードは神武東征のエピソードと似ています。アレクサンドロス大王がペルシャ軍に勝利した「イッソスの戦い」と「ガウガメラの戦い」の地名が個人名になったり、亀の背に乗った人物となったりした、というのはわたしの勝手な解釈ですが、学生のときに最初に古事記を読んでまず思ったのはそのことでした。
それらの神話や伝説がどうやって日本に入ったのかはわかりません。もしかすると秦氏が伝えたのかもしれません。ただ、シュメール人の時代のことまでが伝説となって西アジアに残っていたのかどうかはわかりません。
尚、出雲神話にはもともとヤマタノオロチの神話やオオナムジの蘇りの神話がなかったとした件ですが、なぜそのようにしたかと言いますと、それらの神話が「出雲国風土記」(733年)に記されていないからです。ヤマタノオロチの神話は日本書紀にも書かれていますが、オオナムジが八十神に殺されて甦る話は日本書紀にもないようです。
それらは出雲の話として古事記に記されたわけですが、もともとの出雲の口伝や書物にはなかったのだろうと思われます。なお、出雲大社の口伝にはヤマタノオロチの話があるようですが、それは口伝を伝えた者が古事記を読んでつけ加えたのだろうと思います。
出雲については、もうちょっと何か書きたいなと思いましたが、よくわからないことだらけなのでやめておきました。
それから、卑弥呼の描写については、話をおもしろくするためにかなり膨らませてしまいましたが、これも縄文人の末裔だということにしてあります。どんどこ太った、というのは、狩猟採集民の縄文人が米などの糖質をたくさんとると太る、という点を意識したものです。
ちなみに、すでにご承知いただいていると思いますが、邪馬臺国は北部九州にあったことにしております。
畿内説もいまだに有力なようですが、実際に畿内の纏向遺跡の調査をしてきた京都大学の教授の何人かは、そこには邪馬臺国はなかったとしていますし、畿内説を唱え続ける考古学者の多くは研究の予算を獲得するためにがんばっているだけだというような話もあります。
で、いわゆる魏志倭人伝の解釈については書道家の井上悦文氏の説を参照しました。
それから、壬申の乱にいたる経緯ですが、ここは実は避けて通ろうと思っていました。なにがなんだかわけがわからないからです。それでも、天智天皇と天武天皇の系図を見ながら皇位が継承された順序を見ていきますと、
……こりゃおかしいな、
となりました。
そこから中大兄(天智天皇)は軽皇子(孝徳天皇)の子だろうとなり、蘇我蝦夷の子だという説を目にしまして、このようなストーリーとなりました。
いろんな説があるみたいですが、壬申の乱は九州王朝とヤマト王朝の対決だったというような説には違和感があり、九州王朝は磐井の乱で終わったとしました。
その違和感というのは倭の五王の武の上表文(478年に倭国から宋に送られた文書)の文面に、
「東は毛人(蝦夷)を征すること55国、西は衆夷(熊襲)を服すること66国、渡って海北(朝鮮半島)を平らぐこと95国」
と、なっていることによるものです。倭の五王は九州王朝の王ではないかと言われますが、「西は衆夷(熊襲)を服する・・・・・・」となってます。九州王朝(首都は太宰府)からすると衆夷は東と南になります。西に衆夷というのは畿内から見た方角になります。
その倭の五王についてもなにがしか書こうと思っていましたが、結局やめました。
倭の五王はヤマト王朝の王たちで、宋へ5回も朝貢したわりにはさしたる成果はなかったようです。5回にわたる朝貢で倭王が宋にお願いしたのは、
「朝鮮半島の支配権を認めて欲しい」
と、いうことだったようですが、ついに百済の支配権が認められなかったというのが顛末です。
尚、その倭の五王の時点ではまだ磐井の乱(527年)は起きてませんし、北部九州にはまだマツラの王朝があったと考えます。ただ、その王朝は中国の王朝に朝貢することはなかったのではないかと思います。107年の倭国王帥升が後漢に160人もの生口を献上したにもかかわらず、金印を授かっていないというのは、これが朝貢ではなかったからだと考えます。皇帝に面会したい、と申し入れたことは記されてあるので、なにがしか用事はあったのだろうと想像しますが、後漢の皇帝の臣下としてひざまずく、ということはなかったのかなと思われます。そして、それがマツラ国の威厳みたいなものであり、今の日本にもそれが残っている、というのがこの作品の主旨です。
ちなみに、厩戸皇子(聖徳太子)について書いた部分にはなんの確証もありません。
蘇我蝦夷と厩戸皇子は同一人物だというような説もあるようですが、それはないだろうと思います。厩戸皇子が飛鳥から斑鳩に拠点を移したのは蘇我氏と距離を置くためだったという説にリアリティを感じます。が、斑鳩に拠点をつくったのも実は蘇我氏だったのかなと思ったりしています。
ただ、厩戸皇子の息子の山背大兄王が蘇我入鹿に殺されたという件については違和感がありました。
蘇我入鹿の祖父である蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺したようですが、これは蘇我氏がこれから台頭するという時期の話であり、すっかり頂点を極めたときの入鹿が暗殺なんぞをするかなと思いました。普通、3代目というのはおとなしいものです。
舒明天皇の死後、古人大兄皇子と山背大兄王のどちらを即位させるかでごたごたがあったことは想像できますが、どちらも蘇我馬子の娘の子であり、蘇我氏にとっては山背大兄王を殺してまで古人大兄皇子を即位させたかったとは思われません。暗殺などをした者がいたとすると、それは中大兄だろうと思われます。
尚、厩戸皇子も蘇我氏に殺されたという説がありますが、もしもそうであるなら、そのように日本書紀に記されたと思います。日本書紀を書いた者には蘇我氏を貶めたいという意図があったようですから。
なので、厩戸皇子は実際に病気で死んだのだろうと思います。
尚、この作品は天皇制を批判する意図で書いたものではありません。
日本という国の成立を描きたい、ということで書いたまでです。
そこには避けて通れない天皇という存在があり、そこを描かないわけにはいかないので描きました。ただ、この作品に登場する天皇は政治家なので、崇高な宗教的存在ではありません。天皇が宗教的な存在になったのがいつからなのかわかりませんが、基本的には古事記ができてからなんだろうなと思います。
なので、現在の日本の原型ができあがったのは古事記や日本書紀ができたときなんだろうなと思います。
尚、古事記は平安時代までは読まれていたようですが、その後すっかり読まれなくなり、鎌倉時代には写本が一冊残っていただけのようです。それも、解読不能な書物になっていたようです。これが広く読まれるようになったのは本居宣長による解説書の『古事記伝』が木版印刷で発行されてからのようです。
古事記が読まれていた間は天皇の権威が維持され、古事記が読まれなくなると天皇の権威が失墜する、という状況があるようです。本居宣長によって天皇の権威が高まると尊皇攘夷運動が興り、これが明治維新につながったわけですから、明治維新は古事記によるものとも言えます。
さて、日本という国は他の国とは異なる特殊な国ですが、それは天皇がいるからだという考え方があります。
鎌倉時代以降、天皇はもっぱら宗教的な存在となり、政治家としての権限を失いました。明治政府は天皇に統帥権を与え、これによって天皇は政治家に復帰したわけですが、GHQの管理下で再度その権限を失いました。で、そういう実権をもたない天皇の存在が日本という国の特殊な要素であると考えられるようになっています。
ただし、君臨すれども統治せず、という表現は16世紀のポーランドの政治家の言葉が語源だそうです。これは、18世紀のイギリスではじまった立憲君主制の原則でもあります。王を宗教的な存在としてあつかうのは日本ばかりではありません。
天皇家は他のどこの国の王家よりも古くから存続しているわけですが、それは、ただそれだけのことのような気もします。
日本が他の先進国と決定的に違うのは、天皇の存在とは別の部分であると思われます。
日本の特殊性はその成り立ちにあると思います。
世界の先進国は農耕民が狩猟採集民を征圧し、土地を奪い、ほぼ絶滅させることで成立したものです。
例外は日本だけです。
日本は狩猟採集民が農耕民の上に君臨するという非常に希な状況から生まれており、これがその特殊性の素になっているのではないかと思われます。
ちなみに、農耕民というのは自然環境と闘って生きる者たちですが、狩猟採集民というのは自然環境と共生する人たちです。日本人のDNAには、その因子が色濃く残っています。
欧米人や中共人のように力づくで強引に問題を解決しようとせず、置かれた状況にねばり強く対応する民族であることが日本人の特殊性でありましょう。環境に対して受け身なのです。
で、それは狩猟採集民的な要素なのだろうと思います。
また、同時にそれは、奴隷階級の人間に見られる特徴でもありましょう。
THE NIPPON 弥生時代から古墳時代まで 勝木勇光 @fruit-1
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。THE NIPPON 弥生時代から古墳時代までの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます