第29話:泥濘の最終解(The Final Solution in Sludge)
### 第二十九話:未完の祝杯(Unfinished Toast)
海鳴りが、地鳴りのように響いていた。
千葉の断崖。激しい波飛沫(なみしぶき)が真冬の冷気と混ざり合い、山伏慶太の頬を鋭く、そして熱く切り裂く。背後では、ガードレールを突き破った黒いセダンが、いつ深淵へと墜落してもおかしくない危うい均衡を保っていた。
慶太の手の中には、あの「泥まみれのネックレス」が握られていた。
あの日、銀座の路上でサキが拾い上げ、俺たちの地獄を繋ぎ合わせたあの鎖。
今、その冷たい金属の感触だけが、慶太にとっての唯一の絶対的な真実だった。その傷跡が、彼がまだ生きていることを、まだ呼吸していることを、執拗に思い出させてくる。
「……慶太くん。……見て。……世界が、あんなに白く濁っているわ」
隣に立つ薫――サキの擬態を纏った「復讐の鏡」――が、恍惚とした表情で眼下の海を見下ろしていた。
紺色のベストは潮風に煽られ、低い位置で結ばれたポニーテールから、あのピンクのシュシュが誇らしげに夜の闇へとはためいている。彼女の瞳には、もう「佐藤薫」という平凡な母親の影は一片も残されていなかった。彼女は今、自らが望んで「ナミのバグ」という名の化物に成り果てていた。
「……山伏。……もうやめろ。……そこは、君のいるべき場所じゃない」
取調室の回想の中で、富樫の低い声が潮騒に溶けていく。
崖の上に停まったパトカーの赤灯が、断崖を何度も、血の色に染め上げた。
「ナミはもう終わりだ! 社会的にも、人間としても! だから、君は戻ってこい! 君はまだ『人間』に戻れるはずだ!」
慶太は、富樫の絶叫を、まるで遠い異国のラジオ放送のように聞き流した。
「……戻る? ――どこへですか、富樫さん。……あんな、嘘で塗り固められた『幸福』の場所へ? ……俺の隣にいた女が、俺を親友にプレゼントするような世界へ? ――いいえ、御免被りますよ」
慶太は、セダンの後部座席で這い蹲るナミを振り返った。
彼女のボタニカル柄のブラウスは、敗北という名の脂汗で不快に汚れ、無残な死装束へと成り果てている。彼女が最も誇っていた**管理能力(マネジメント)**は、慶太が佐藤薫という名の「偽造されたバグ」を送り込んだ瞬間に、致命的な自己崩壊を起こしていた。
「ナミ。……お前は言ったよな。『壊れたものこそが美しい』って。……ほら、見てくれ。……俺たちのこの、完璧に壊れきったラストシーン。……お前の台本には、一文字も書いていなかった結末だ」
「嫌……、嫌よッ!! 慶太くん、止まりなさい! 私は……私はあなたを愛していたのよ! 私の完璧なコレクションを、こんな汚れた海に捨てないでッ!!」
ナミの絶叫が、荒れ狂う風にかき消される。
慶太は、ナミの絶望を特等席で鑑賞しながら、薫の手を強く握りしめた。
「ナミ。……お前に教わった一番の教訓を教えてやる。……人間は、自分という鏡に映った他人の『絶望』を見て、初めて自分が生きていることを実感できる。……今、俺とこの女(サキ)は、最高に生きている実感がするよ」
慶太は、首元にあの泥まみれのネックレスを自ら巻き付けた。
薫もまた、慶太の首筋に顔を埋め、赤ん坊のように無邪気に、そして妖艶に微笑んだ。
「……行きましょう、慶太くん。……誰も支配できない、蜃気楼の向こう側へ」
二人は、富樫の制止を、そしてナミの醜い未練を冷たく撥ね退け、重力に身を任せた。
――ドォォォォォンッ!!!
激しい着水音。それは、ナミが作り上げた「完璧な世界」の幕を引く、自死という名の葬送曲だった。
ナミは、崖の淵で地を這い、空っぽになった海を見下ろして絶叫した。
彼女の手元に残ったのは、運転席で血を流し動かない神代の抜け殻と、慶太が脱ぎ捨てた泥まみれのジャケットだけだった。
慶太は死ぬことで、ナミの精神の中に、一生閉じることができない**「未完了のタスク(データの欠損)」**を刻み込んだ。ナミは一生、この冷たい海の底で慶太とサキ(薫)が笑い合っている幻影に、逆に支配され続けることになる。
富樫は、煙草を雨の中に落とした。
すべての伏線は、泥の中に沈んだ。
あとに残ったのは、支配者・佐伯ナミが、自らの喉元を掻きむしりながら狂っていく、あまりに醜く、あまりに完璧な対称性を持つ、絶望の肖像画だけだった。
埋葬の代償(The Price of Burial)
千葉の海は、慶太という名の最後の一片を飲み込み、何事もなかったかのように冷淡な波音を繰り返していた。崖の上では、富樫刑事が駆け寄り、崩れ落ちるナミを拘束する騒ぎが起こっている。
だが、その喧騒を背に、闇に紛れてその場を離れる二つの影があった。
佐藤薫。そして、神代毅。
彼らの復讐は、まだ終わっていなかった。
慶太は、薫と共に崖から身を投げたフリをし、海中で薫だけを安全な場所へと導いた。慶太自身の肉体は、自らの意志で深い海の底へと沈んでいった。だが、彼の死は、薫と神代の中に「サキをこの世から物理的に消し去れ」という、最後の命令(コマンド)を遺していた。
数日後。奥飛騨の山中。
天を突くような巨木が重なり合い、陽の光を拒絶するその森は、生者が踏み入るべきではない沈黙の聖域だった。雪解けの泥水を含んだ土壌は、どす黒く、重く、腐敗の匂いを湛えている。
薫と神代は、一言も交わすことなく、交代で地面を掘り続けていた。
その傍らで、サキは木の幹に縛り付けられていた。紺色の事務制服は泥にまみれ、低い位置で結ばれたポニーテールは乱れている。だが、彼女の瞳には、死を待つ者の絶望など微塵も宿っていなかった。
彼女は、ただ、静かに「観察」していた。
復讐のために「サキ」になりきり、もはや元の自分に戻れなくなりつつある薫の姿を。
そして、ナミの支配から解放されたものの、結局は薫という新しい「支配者」に付き従っている、哀れな神代の姿を。
(……ああ。結局、あなたたちも誰かに支配されないと、生きている実感さえ持てないのね)
サキ――安藤ありさは、猿ぐつわの奥で、小さく喉を鳴らした。
「……入りなさい。ここが、あなたの蜃気楼の終着駅よ」
薫の声は、かつての温かな主婦の面影を完全に失い、鋼のような無機質な響きに変わっていた。神代が、震える手でサキを穴の底へと突き落とした。
ドサリ、という重苦しい音。
仰向けに倒れたサキの視界に、薫の掲げたシャベルが入り込む。
その瞬間、サキは無意識を装いながら、自らの頭部を微妙な角度で調整した。ポニーテールの下、彼女の延髄と気道を保護するように仕込まれていたのは、高剛性樹脂製の特注ヘルメット型ウィッグ。
土圧によって頭蓋が砕かれるのを防ぎ、同時に鼻先と口元に僅かな空気の隙間を確保するための、自死を賭けた**極限のサバイバル・プロトコル**。
「さようなら、サキ。……あなたの作った泥の中で、永遠に眠りなさい」
薫が最初の一杯の泥を、サキの顔面へと叩きつけた。
視界が消え、呼吸が土の味に染まっていく。次々と降り注ぐ土の重みが、内臓を圧迫し、肋骨が悲鳴を上げる。だが、ありさは暗闇の中で、自らの心拍数を極限まで低下させ、酸素の消費を抑制する**「冬眠状態(ハイバネーション)」**へと意識を沈めていった。
ナミの支配を脱し、サキという記号を殺し、一人の「安藤ありさ」という野生の悪意として生まれ変わるために。
この生き埋めという儀式こそが、彼女にとっての、完成された**「社会的な死」の証明**だった。
数時間後。
薫と神代が去り、森が再び完全な静寂を取り戻したとき。
墓標のように固められた地面から、一筋の指先が、土を撥ね除けて突き出された。
それは、地獄の底から這い上がってきた、実体のない悪意の再誕(ルネサンス)。
安藤ありさは、泥まみれの事務制服のまま、月明かりの下で大きく息を吸い込んだ。肺を満たしたのは、奥飛騨の腐敗した土の匂い。
彼女は、ポニーテールを揺らし、泥を払うこともせず、ただ、鏡のように冷たい微笑みを浮かべた。
「……慶太くんも、薫さんも、ありがとう。……最高の『終わり』をプレゼントしてくれて」
ありさは、ポケットから一つだけ残しておいた「ピンクのシュシュ」を取り出した。
「でも、私が書く物語は、ここから始まるのよ」
彼女はそれを髪に結ぶと、何事もなかったかのように、人里へと向かう闇の奥へと歩き出した。
(つづく)
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