第28話:泥濘の純化(Purification of the Sludge)
### 第二十八話:泥濘の純化(Purification of the Sludge)
心拍停止を告げる電子音が、白亜の壁に跳ね返り、鼓膜を執拗に削り取る。
山伏慶太は、その音の渦の中心で、自らの指先に残るスイッチの硬い感触を噛み締めていた。佐藤健司という男の「生」を断ち切ったのではない。ナミという絶対的な蒐集家が、最も丹念に手入れし、磨き上げてきた「最高傑作」を、泥まみれの手で永遠に汚してやったのだ。
この瞬間、ナミの王国(蜃気楼)の屋台骨は、内側から爆破された。
慶太の視界には、もはや病室の景色は映っていなかった。網膜の裏側でフラッシュバックするのは、あの十二月二十四日の、冷たい銀座の路上だ。踏みつぶしたプラチナ。ひしゃげた宝石。そして、それを「綺麗だ」と言って拾い上げたサキの微笑み。
原点回帰。
あの泥の中にこそ、自分の真実があった。ナミが用意した清潔なシーツの上でも、富樫刑事が語る社会的な正義の中でもなく、あの救いようのない絶望の泥濘(ぬかるみ)の中にこそ、俺の居場所はあったのだ。
「……なあ、山伏くん。君は、その時、救われたのか?」
取調室の、黄色く澱んだ空気。
刑事・富樫は、震える手で新しい煙草に火を点けた。彼の瞳には、慶太の独白が進むにつれ、底知れない「恐怖」の色が濃くなっていた。目の前に座る二十六歳の青年は、もはや自分が知っている人間という範疇を逸脱し、一つの冷徹な「現象」へと昇華している。
「佐藤健司のバイタルを止めた瞬間、君は神にでもなったつもりだったのか? ……それとも、ナミを壊すための、ただの壊れた部品に成り果てたのか?」
慶太は、ゆっくりと瞬きをした。その動作は、獲物の息の根が止まるのを待つ猛禽類のように優雅で、残酷だった。
「救いなんて、そんな安っぽいものはいらないと言ったはずです。……富樫さん。俺はただ、彼女(ナミ)の目に焼き付けてやりたかった。……自分が支配し、管理していたはずの『部品』たちが、自分の意志で、自分の汚れた血を使って、最高に醜いエンドロールを書き換える様をね」
病室。
サキに擬態した薫が、ナミの首を絞め上げる力は、もはや人間の限界を超えていた。
「……ああ、あ……っ……」
ナミの端正な貌(かお)が、苦悶に歪む。ボタニカル柄のブラウスは、健司の点滴台をなぎ倒した際に零れた薬品と、自らの脂汗で不快に汚れ、無残に張り付いている。完璧な対称性を誇っていた彼女の世界は、今や一滴の法則性もない、ただの「阿鼻叫喚の掃き溜め」へと成り下がっていた。
薫――偽りのサキ――は、ナミの耳元で、かつてサキが慶太に囁いたのと全く同じトーンで、甘美な呪詛を吐き出す。
「ねえ、ナミさん。……似合ってるよ。……その、今にも死にそうな顔。……あの日、慶太くんが見せた絶望よりも、ずっと、ずっと綺麗だわ」
薫の指先が、ナミの頬をなぞる。氷のように冷たいのに、触れられた場所が焼けるように熱い。ナミは、その感触の中に、自分自身が作り上げた「サキ」という名の怪物の影を見出し、発狂した。
「やめて……ッ! 私は、私は、あなたたちを、救って、あげたのに……ッ!」
「救済? ――いいえ。あなたは私たちを『飼育』していただけ。……でも、野生に戻った獣が、飼い主の喉元をどう食い破るか……その痛みだけは、あなたが一番よく知っているはずよね」
慶太は、崩れゆく支配者を眺めながら、ゆっくりと窓を開けた。
吹き込んできたのは、冬の嵐の冷気。
雨は、すべてを洗い流すために降るのではない。
この街の汚れを、そして俺の指先にこびりついたこの「毒」を、より広く、より深く、世界中に拡散させるために降るのだ。
慶太は薫の肩に手を置いた。
「行きましょう。薫さん。……いや、サキ。……舞台は、もう終わりだ」
二人は、ナミの絶叫を背に、闇に包まれた廊下へと滑り出した。
背後で、看護師たちの慌ただしい足音と、不吉なサイレンの音が近づいてくる。だが、今の二人を捕らえられる者は、この世のどこにもいなかった。
彼らはすでに、人間という実体を捨て、ナミという絶対的な精神の中に刻み込まれた、消去不可能な「蜃気楼」へと変貌していたのだから。
復讐の物語は、ここから最期の、そして最も美しい心中(フィナーレ)へと加速する。
慶太の手の中には、あの日、サキが拾い上げてくれた、あの泥まみれのネックレスが、月光を反射して不気味なほど白く、純粋に輝いていた。
(つづく)
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