第27話:断末魔の対称性(Symmetry of the Death Agony)

### 第二十七話:断末魔の対称性(Symmetry of the Death Agony)


 

 

 崩れ落ちた佐伯ナミの指先が、病室の無機質なタイルを無様に掻いた。

 

 

 ボタニカル柄のブラウスが、激しい呼吸に合わせて不規則に波打つ。その鮮やかな色彩は、今や毒々しい死斑のように彼女の輪郭を侵食していた。ナミの脳内では、数十年にわたって築き上げてきた「支配のアルゴリズム」が、目の前に立つ『死者の再臨』という致命的なエラーによって、再起不能なまでに焼き切られようとしていた。

 

 

「……嫌、認めないわ。サキは、私のものよ。私の完璧な猟犬だったはずよ。……こんな、名もなき凡庸な女(薫)に、私の傑作が上書きされるなんて……ッ!」

 

 

 ナミの絶叫は、嵐に揺れる窓硝子の軋みにかき消された。

 彼女にとっての敗北とは、法に裁かれることでも、命を落とすことでもない。自分が「価値がない」と切り捨てたはずの弱者の執念が、自分の知能という名の神域を汚し、出し抜いたという事実そのものだった。

 

 

 サキに擬態した薫は、静かにナミの傍らに膝をついた。

 その動作の一つ一つが、かつてサキが男たちを追い詰めた時の、あの「死神の優雅さ」を完璧にトレースしている。薫は、ナミの震える顎を細い指先でクイと持ち上げると、逃げ場を塞ぐような至近距離で囁いた。

 

「ナミさん。……あなたがいつも言っていたわよね。……『人間は、記号(ラベル)でできている』って。……紺色のベスト、ピンクのシュシュ。……ほら、私がいれば、もう本物のサキなんていらないでしょ?」

 

 薫の瞳は、ナミの恐怖を養分にして、かつてないほどに深く、暗い悦楽の色を宿していた。

 

 

 

 

 

「……なあ、山伏くん。君は、その時の佐藤薫の貌を見て、戦慄したのか? それとも……歓喜したのか?」

 

 

 取調室の、不快な電子音を立てる蛍光灯。

 刑事・富樫は、慶太の表情から一分一秒の「歪み」を逃さぬよう、剥き出しの執念で問いかけた。

 

「君が作った『偽物のサキ』は、ナミという怪物を超えるための、もっとたちの悪い怪物に変貌していた。……君は、ナミを壊すための爆弾を投げたつもりかもしれないが……その爆煙の中で、君自身の魂もまた、粉々に吹き飛んでいたんじゃないのか?」

 

 慶太は、取調室の壁に投影された自分の影をじっと見つめた。

 あの夜、病室を満たしていたのは、救済の光などではなかった。それは、鏡の中の悪意が互いを食らい合い、最後に残った者が「唯一の真実」を名乗るという、悍ましい生存競争の残響だった。

 

「……富樫さん。俺は、彼女に自由をあげただけですよ。……ナミの台本から外れ、自分の意志で誰かを絶望させるという、最高に『人間らしい』自由をね」

 

 

 

 

 

 慶太は、ベッドの上で心停止に近い眠りを続ける佐藤健司の元へ歩み寄った。

 健司の痩せ細った腕には、ナミが「管理」のために繋ぎ合わせた、夥しい数の点滴チューブが這い回っている。それは、慶太の目には、獲物を締め上げる無機質な触手のように映った。

 

「……ナミ。お前のコレクションは、ここで完結だ」

 

 慶太は、健司の傍らにあったバイタル・モニターの主電源に手をかけた。

 ナミの顔から、血の気が一気に失われる。

 

「待って! 慶太くん、何をするの!? それは私の……私の最高傑作なのよッ!!」

 

「傑作? ――いいや。これは、お前の傲慢さが生み出した、ただの死に損ないだ」

 

 慶太は、一筋の迷いもなくスイッチを切った。

 

 ――ピーーーーーーーーーー。

 

 無機質な電子音が、病室の静寂を暴力的に貫いた。

 佐藤健司という男の、社会的な死のあとに続いていた「肉体的な延命」という名の蜃気楼が、今、慶太の手によって冷酷にシャットダウンされた。

 

 ナミは、獣のような絶叫を上げて慶太に掴みかかろうとした。だが、彼女の背後から、薫が――サキの姿をした復讐者が、ナミの首筋にあの「泥まみれのネックレス」の鎖を力任せに巻き付けた。

 

「……一緒に堕ちましょう、ナミさん。……あなたの作った、この美しき地獄の底へ」

 

 ナミの喉から、空気の漏れるような苦悶の音が漏れる。

 慶太は、その光景を一度も振り返ることなく、窓の外で逆巻く嵐を見つめていた。

 

 悪意は、もはや一点に留まってはいなかった。

 慶太の「反逆」、薫の「擬態」、ナミの「執着」。

 三枚の鏡が互いを映し合い、そこから溢れ出した泥が、白亜の病棟を黒く、重く、塗り潰していく。

 

 

 

 

 

(つづく)


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