第26話:鏡像の反逆(Rebellion of the Mirror Image)

### 第二十六話:鏡像の反逆(Rebellion of the Mirror Image)


 

 

 病室に充満するカサブランカの香りが、一瞬にして死臭へと変質した。

 

 

 佐伯ナミは、目の前に立つ「サキの姿をした女」を凝視したまま、金縛りにあったように動けずにいた。紺色のベスト、低い位置のポニーテール、そして、月光を浴びて不吉に揺れるピンクのシュシュ。それはナミが長年かけて調教し、自らの手足として磨き上げてきた、完璧な「服従の記号」そのものだった。

 

 

 だが、その記号を纏った女の瞳には、ナミが一度も見たことのない、鋼のような殺意が宿っていた。

 

 

「……ありえないわ。あなたは死んだ。私が、この手で崖から突き落としたはずよ。……身代わりの遺体だって、完璧に用意したのに……!」

 

 

 ナミの声が、初めて震えた。

 完璧な支配者にとって、予測不可能な「死者の再臨」ほど、その理性的な城壁を易々と崩壊させるものはない。彼女の脳内では、積み上げてきた論理的な整合性が、一秒ごとに音を立てて剥落していく。

 

 

「ナミさん。……あなたは言ったわね。『壊れたものこそが美しい』って。……今のあなた、すごく素敵よ。自分の計算が狂って、顔中が恐怖で汚れているわ」

 

 

 薫――いや、サキの擬態を纏った復讐者は、一歩、ナミのパーソナルスペースへと踏み込んだ。首元で揺れる、あの泥まみれのネックレスが、カチリ、カチリと、秒針のように不気味な音を立てる。

 

 

 

 

 

「……なあ、山伏くん。君は、その瞬間、どんな気分だった?」

 

 

 取調室。

 刑事・富樫は、慶太の蒼白な、しかし陶酔を帯びた表情を逃さなかった。

 

 

「支配されていた獲物が、支配者の顔を恐怖で歪ませる。……それは、この世のどんな快楽よりも甘美な毒だったんじゃないのか? ――君が行ったのは、単なる復讐じゃない。ナミという女の『全能感』を奪い取り、彼女を自分と同じ、泥の中へと引きずり下ろす儀式だったんだ」

 

 

 慶太は、ゆっくりと瞬きをした。

 その網膜には、あの夜、白亜の病室で崩壊を始めたナミの姿が、今も鮮やかに焼き付いている。

 

 

「……快楽なんて、そんな安っぽいものじゃありませんよ。……俺はただ、鏡を見せてあげただけです。……彼女がこれまで男たちに強いてきた絶望が、どれほど醜いものだったかをね」

 

 

 

 

 

 ナミは後ずさり、ベッドに横たわる佐藤健司に縋り付こうとした。だが、彼女の指先が健司の白い寝巻きに触れる直前、慶太がその腕を冷酷に掴み上げた。

 

 

「離せッ! 慶太くん、何をするの! 私はあなたの救世主(メサイア)なのよ!」

 

 

「救世主? ――笑わせるな、ナミ。……お前はただの、他人の不幸をコレクションするだけの空虚な器だ」

 

 

 慶太の瞳には、かつてナミを愛した時の熱など、微塵も残っていなかった。代わりに宿っていたのは、ナミの思考プロトコルを完全に模倣(コピー)した、絶対的な無関心の光だった。

 

 

 サキに擬態した薫が、ポケットから一つの「録音機」を取り出した。

 再生ボタンが押される。

 

 

 ――ザッ、ザザッ……。

 

 

 流れてきたのは、ナミがこれまでにサキに下してきた、残酷な『譲渡指令』の音声データだった。慶太をどう壊すか。佐藤健司をどう解体するか。そのすべてを「お仕事」と呼び、優雅に指示を出すナミの、自分の耳でさえ疑いたくなるほど冷酷な声。

 

 

「……これ、全部警察に届くわ。富樫刑事はもう、あなたの隠れ家の外で待機している」

 

 

 薫の声は、ナミの耳元で葬送の鐘のように響いた。

 ナミの完璧な王国(蜃気楼)は、内側から、彼女が最も信頼し、最も侮っていた「サキ」という名のバグによって爆破されたのだ。

 

 

「あ、あああ……っ!!」

 

 

 ナミは絶叫し、その場に膝をついた。

 彼女のプライドという名の透明な鎧が、慶太と薫が用意した「泥の汚れ」によって完膚なきまでに叩き割られた瞬間だった。

 

 

 慶太は、その崩れゆく女王を見下ろし、冷たく言い放った。

 

 

「終わりだ、ナミ。……お前の作った蜃気楼は、今、本物の地獄に飲み込まれたんだよ」

 

 

 窓の外では、雷鳴が轟き、世界の終末を告げるような豪雨が再び病棟を叩き始めていた。

 

 

 

 

 

(つづく)


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