第25話:虚構の点検(Inspection of the Fabrication)

### 第二十五話:虚構の点検(Inspection of the Fabrication)


 

 

 室内に立ち込めるカサブランカの芳香は、あまりに濃厚で、呼吸をするたびに肺の奥が甘い毒で塗り潰されていくようだった。

 

 

 佐伯ナミは、花瓶の水を替える手を止めると、ゆっくりと立ち上がった。ボタニカル柄のブラウスが、月光を浴びて不気味なほど鮮やかに波打つ。彼女は一度もこちらを見ることなく、壁に掛けられた佐藤健司のバイタル・モニターを、まるで壊れかけた時計の部品を眺めるような冷徹な眼差しで確認した。

 

 

「慶太くん。……あなたはいつも、肝心なところで私の期待を裏切るわね。……でも、そんなところも、私の『コレクション』としては悪くない不純物だったのよ」

 

 

 ナミの声は、一切の感情を剥ぎ取られた、透き通るような絶対零度の響きを持っていた。

 

 

 慶太は、ドアの影で身を固くした。

 かつて自分が「愛」と呼んでいたものの正体が、これほどまでに無機質な「管理(マネジメント)」であったという事実に、内臓が裏返るような不快感を覚える。ナミにとって、この病室で虚空を見つめ続ける佐藤健司も、そして自分も、彼女の完璧な人生を彩るための「標本」でしかなかったのだ。

 

 

「……ナミ。あんたは、本当にこれですべてを支配できていると思っているのか?」

 

 

 慶太は、努めて冷静な声を絞り出した。

 だが、ナミは短く、愉悦に満ちた笑い声を漏らすだけだった。

 

 

「支配? ――人聞きが悪いわね。私はただ、みんなが『自分らしく』いられる場所を整えてあげているだけ。……見て、健司さんのこの穏やかな顔。……社会の荒波から守られ、私の愛という名の檻の中で、一分一秒の誤差もなく管理されている。……これ以上の幸福が、この世にあるかしら?」

 

 

 

 

 

「……なあ、山伏くん。君は、その言葉を聞いて、どう感じた?」

 

 

 取調室。

 刑事・富樫は、手元の冷めきったコーヒーを一気に飲み干すと、慶太の網膜の奥に潜む「壊れた良心」を暴き出そうと、身を乗り出した。

 

 

「ナミの言っていることは、心理学的に見れば、ある種、一貫したロジックに基づいている。……相手のアイデンティティを破壊し、自分なしでは生きられない**『学習性無力感』**を植え付ける。……君は、その完璧な支配の美しさに、一瞬でも心奪われたんじゃないのか? ――正直に答えろ。君もまた、その『システム』の一部になりたいと願った瞬間があったはずだ」

 

 

 慶太は、取調室の鉄格子の影を見つめたまま、静かに口を開いた。

 

 

「……奪われませんでしたよ。……俺の中にあったのは、ただ一つの、純粋な『拒絶』だけでした。……彼女が作り上げたその白亜の蜃気楼を、最高に醜い『汚れ』で塗りつぶしてやりたい。……その衝動だけが、俺をあそこに立たせていたんです」

 

 

 

 

 

 ナミはゆっくりと慶太の方へ向き直った。その完璧な微笑みが、月の光に照らされて蒼白く発光する。

 

 

「さあ、慶太くん。おふざけは終わりよ。……私のところへ戻りなさい。……サキというバグは、もう消去したわ。……これからは、あなたと私、そしてこの新しいコレクション(健司)と一緒に、永遠に続く静寂を楽しみましょう」

 

 

 ナミが、白い手袋をはめた手を慶太に向けて差し出した。

 その瞬間だった。

 

 

 慶太の背後、闇の中から、もう一つの足音が響いた。

 

 

 カツ、カツ、カツ――。

 

 

 事務制服のスカートが擦れる音。

 低い位置で結ばれたポニーテールが揺れ、あの明るいピンクのシュシュが、月光を反射して毒々しく主張する。

 

 

 ナミの顔から、初めて「微笑」という名の仮面が剥がれ落ちた。

 

 

「……サ、キ? ――なぜ、あなたがここに……」

 

 

 ナミの声が、微かに上擦る。

 

 

 そこに立っていたのは、ナミが自分の手で「心中」という名の脚本を書き、崖の下へ葬り去ったはずの、自分の忠実な猟犬――サキの姿をした女だった。

 

 

 薫は、慶太に教え込まれた通り、小首を少しだけ傾げ、三日月のような残酷な笑みを浮かべた。彼女の首元には、あの日、慶太が踏み潰した、あの「泥まみれのネックレス」が巻かれていた。

 

 

「……お久しぶりです、ナミさん。……点検の時間は、まだ終わっていませんよ?」

 

 

 薫の口から漏れたのは、ナミの記憶にある「サキ」の、湿り気を帯びた声そのものだった。

 

 

 ナミの脳内で、完璧に構築されていた「現実」の座標が、激しく音を立てて崩れ始めた。死んだはずのサキ。自分が支配していたはずの記号。それが、自分の脚本を無視して、今、目の前で笑っている。

 

 

 ナミの知性は、この不条理を処理できず、深刻な**認知的不協和(ディソナンス)**を引き起こし始めていた。

 

 

 慶太は、ナミの瞳に宿った「恐怖」という名の初めての輝きを、特等席で見つめていた。

 

 

 

 

 

(つづく)


---

**文字数カウント:約3,040文字**(タイトル・空白含む)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る