第21話:擬態の磨耗(Attrition of Mimicry)

### 第二十一話:擬態の磨耗(Attrition of Mimicry)


 


 


 洗面台の鏡に映るその貌(かお)は、もはや慶太の知る「佐藤薫」ではなかった。


 


 白く清潔なブラウスの襟元を整え、紺色のベストのボタンを一つずつ、儀式のように丁寧に留めていく指先。低い位置で固く結ばれたポニーテール。そして、その結び目で毒々しく主張するピンクのシュシュ。


 


 薫の瞳からは、かつての「母」や「妻」としての湿り気が完全に消え失せていた。


 代わりに宿っていたのは、ナミが長年かけてサキに植え付けてきたものと全く同じ、無機質な**「記号としての眼差し」**だった。


 


「……どう? 慶太さん。私は、あの女に見える?」


 


 薫の声は、驚くほど平坦で、それゆえに慶太の心臓を鋭く切り裂いた。


 


「見えます。……完璧です。ナミが見ているのは、あなたの魂ではなく、その『衣裳』です。あなたがその姿で彼女の前に立ったとき……ナミの理性は、自ら作り上げた幻影(蜃気楼)によって、深刻な**認知の不一致(ディソナンス)**を引き起こす」


 


 慶太は彼女の背後から、鏡越しにその姿を見つめた。


 


 自分は今、何を生み出そうとしているのか。


 ナミの支配を壊すために、自分もまたナミと同じように人を「部品」として扱っているのではないか。慶太の胸の奥で、微かな良心の残火が疼(うず)く。だが、その痛みさえも、サキから注がれたあの「泥まみれの熱量」が瞬時に焼き尽くしていった。


 


 


 


 


 


「……なあ、山伏くん。毒をもって毒を制する、という言葉があるな」


 


 


 取調室の静寂。


 刑事・富樫は、慶太の証言の裏側に潜む「加速する狂気」を嗅ぎ取っていた。


 


「君は、佐藤健司の妻に衣裳を着せた。……だがな、それは単なる変装じゃない。君が行ったのは、心理学で言うところの**『人格の強制上書き(Identity Overwrite)』**だ。……平凡な主婦を、サキという名の猛毒に変質させた。……君はもう、ナミを笑う資格なんてない。君もまた、立派な『演出家』だ」


 


 富樫の追求は、慶太の急所を的確に突く。


 慶太は自嘲気味に笑った。


 


「資格なんて、あの日、銀座の雨の中に捨ててきましたよ。……富樫さん。ナミという『システム』を止めるには、法や正義なんていう不確かなフィルターは役に立たない。……必要なのは、彼女の管理できない『野生のバグ』だけだ」


 


 


 


 


 


 薫の部屋のリビング。


 慶太はテーブルの上に、神代毅から受け取った「佐藤健司が幽閉されている病院」の詳細な地図を広げた。


 


「ナミは週に一度、木曜日の深夜に、健司さんの病室を訪れます。……彼女にとって、廃人同様となった夫を眺めるのは、自分の支配力を確認するための『点検作業』に過ぎない。……その瞬間、あなたがサキとして彼女の前に現れるんです」


 


 薫の手が、地図の上に置かれたあの「泥まみれのネックレス」に触れた。


 


「……分かっているわ。……彼女が最も大切にしている『完璧な静寂』を、私がこの泥で汚してあげる。……健司を壊したあの硝子の音を、今度はあいつの頭蓋骨の中で鳴らしてあげるの」


 


 薫の言葉には、復讐を超えた、一種の**「救済への渇望」**が滲んでいた。


 


 慶太は、薫の瞳の奥に、かつて自分がサキに見出したのと同じ、救いようのない孤独の色を見た。


 ナミに支配された男。サキに魅せられた男。そして、すべてを失った女。


 


 バラバラだった彼らの人生が、今、ナミという「太陽」を焼き尽くすための、一つの巨大な影(シルエット)となって重なり合おうとしている。


 


「……行こう。薫さん。……蜃気楼の終わりを、見届けに」


 


 慶太は、自分の掌に残るサキの冷たい感触を、今度は「武器」として強く握りしめた。


 


 窓の外では、不吉な赤色を帯びた夕刻の街が、鏡の国への入り口を開けて待っていた。


 


 ナミの王国。その白亜の病棟に、死の匂いを纏った「事務員の擬態」が、音もなく忍び寄る。


 


 


 


 


 


(つづく)


 


 


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