第20話:鏡像の増殖(Propagation of Mirrors)

### 第二十話:鏡像の増殖(Propagation of Mirrors)


 


 


 都心の喧騒から切り離された、静まり返った公団住宅の一室。


 


 慶太がその扉の前に立ったとき、溢れ出してきたのは、生活の匂いではなく、鼻を刺すような強い「塩素系漂白剤」の臭気だった。それは、この場所にこびりついた汚れだけでなく、拭い去ることのできない「過去」そのものを強引に消し去ろうとする、絶望的な試行の残骸のように感じられた。


 


 ――コン、コン。


 


 乾いた音が、薄暗い廊下に響く。


 


 一拍置いて、重い金属の鍵が回る音がした。


 ゆっくりと開かれたドアの隙間から現れたのは、かつて佐藤健司が誇らしげに語っていた「理想の妻」の成れの果てだった。


 


 佐藤薫。


 


 その貌(かお)に、かつての穏やかな輝きはない。


 左手首には、真っ白な包帯が痛々しく巻かれ、その下から滲む赤黒い染みが、彼女が潜り抜けた地獄の深さを物語っていた。彼女の瞳は、慶太を映してはいなかった。ただ、自らの人生を解体した「不可視の悪意」への、底知れない飢餓感だけを湛えている。


 


「……どちら様、ですか。マスコミの方なら、お引き取りください」


 


 薫の声は、ひび割れた氷のように冷たく、脆い。


 慶太は何も言わず、神代から託されたあの「水色のポーチ」を、彼女の視線の前に差し出した。


 


「……これを届けに来ました。佐藤健司さんの人生を奪った『窓を割る石』の、その先にある真実です」


 


 薫の呼吸が、一瞬だけ止まった。


 彼女は慶太の瞳の中に、自分と同じ「泥の汚れ」を見出したのだろう。迷いのあった指先が、慶太の手からポーチを奪うように受け取った。


 


 


 


 


 


 室内の空気は、澱み、冷え切っていた。


 


 慶太は、薫に促されるまま、リビングのソファへと腰を下ろした。壁には、結衣ちゃんの描いた「パパの絵」が、半分剥がれ落ちたまま放置されている。それは、ナミが作り上げた蜃気楼によって引き裂かれた、ある家族の残骸だった。


 


「……教えて。健司は、あの人は本当に、浮気なんてしていなかったの?」


 


 薫の問いに、慶太は静かに首を振った。


 


「佐藤さんは潔白です。……彼を壊したのは、ナミという絶対的な演出家と、サキという忠実な猟犬です。……彼らは、あなたの『夫への信頼』を燃料にして、あの家を焼き払った。サキが投げたのは石ではありません。あなたの心に潜む『疑念』という名の猛毒だったんです」


 


 薫は、膝の上でポーチを強く握りしめた。包帯の巻かれた指先が白く震える。


 


「……あいつらを、許さない。……死ぬまで、あいつらを許さないッ!!」


 


 絞り出された慟哭が、静かな部屋に木霊した。


 慶太は、その悲鳴を、かつての自分自身の叫びのように受け止めた。だが、今の彼には、彼女を慰める言葉など持ち合わせていない。彼が持ってきたのは、救済ではなく、さらなる闇へと誘うための衣裳(ドレス)なのだから。


 


「ナミという女を殺しても、あなたの気は晴れない。彼女は死ぬことさえも、自分のコレクションの一つとして楽しみ、美化するでしょう。……彼女に、本当の『敗北』を教える方法は、たった一つしかない」


 


 慶太は立ち上がり、ポーチの中から、神代に渡されたあの「ピンクのシュシュ」を取り出した。


 


「あなたが、サキになるんです」


 


 薫が、目を見開いて慶太を凝視した。


 


「ナミは人間を見ていない。彼女が見ているのは、自分が設計した『サキ』という記号だけです。紺色の事務制服、ポニーテール、そしてこのシュシュ。……その記号を纏った女が、自分の脚本を無視して動き出したとき……ナミの完璧な王国は、内側から崩壊を始める」


 


 慶太は、薫の背後に回り、彼女の乱れた髪をゆっくりと束ね始めた。


 


 サキの手つきを、慶太の指が完璧にトレースしていく。


 低い位置で、無造作に、しかし計算された角度で結ばれるポニーテール。


 そこに、鮮やかなピンクのシュシュが絡みつく。


 


「……薫さん。鏡を見てください」


 


 慶太の声は、取調室で聞いた富樫刑事のそれよりも冷徹だった。


 


 薫が、ゆっくりと洗面台の鏡の前に立った。


 そこには、平凡な主婦としての佐藤薫はもういなかった。


 


 紺色のベスト、白いブラウス。


 髪を揺らす、ピンクのシュシュ。


 


 鏡の中に映っていたのは、慶太を地獄へ誘い、佐藤健司を自死へと追いやった、あの「事務員の擬態」をしたサキそのものだった。


 


「……これ、が……」


 


「そうです。……ナミが最も愛し、最も侮っている『無害な道具』の貌です」


 


 慶太は、薫の耳元に唇を寄せ、毒を流し込むように囁いた。


 


「復讐を始めましょう。……ナミが最も恐れているのは、自分の管理できない『野生のサキ』が現れることだ。……僕が、あなたを完璧な『地獄の使い』に造り替えてあげます」


 


 薫の瞳に、初めてナミと同じ、冷酷で澄んだ光が宿った。


 


 慶太は、自分の掌に残る「ピンクのシュシュ」の感触を噛み締めた。


 自分はもう、被害者ではない。


 


 ナミという怪物を超えるための、新しい怪物を生み出す**調教師(ブリーダー)**へと変貌したのだ。


 


 窓の外では、夜明けの光が、世界を不気味な灰色に染め始めていた。


 


 蜃気楼の増殖。


 鏡の国に、二人の「サキ」が現れる日は、もうすぐそこまで来ていた。


 


 


 


 


 


(つづく)


 


 


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