第19話:毒の調律(Tuning the Venom)

### 第十九話:毒の調律(Tuning the Venom)


 


 


 廃屋の天井から吊るされた一本の裸電球が、不規則な電圧に耐えかねたように、チカ、チカと断末魔のような瞬きを繰り返していた。


 


 その頼りない光に照らされた神代毅の貌は、まるで泥を捏ねて作った土人形が、長い年月の間に風化した残骸のようだった。慶太は、その男の前に膝をつき、自らの肺を支配する「腐敗と潮の匂い」に耐えていた。


 


 床に散乱した、過去の犠牲者たちの遺品。


 


 名前の消された身分証。


 歪んだネクタイピン。


 そして、夥しい数の「泥まみれのネックレス」。


 


 それらはすべて、ナミという絶対的な蒐集家(コレクター)が、サキという鋭利なメスを使って切り取った、男たちの人生の標本だった。慶太は、その山の中に、自分がかつてナミに贈ろうとしたネックレスと同じ輝きを見つけ、胃の底が熱く焼けるのを感じた。


 


「……いいか、若いの。ナミさんを殺そうなんて考えるな。そんなことをしても、彼女は死にやしない。……彼女は、死ぬことさえも自分の『物語』の一部として、美しく編集(エディット)してしまうからだ」


 


 神代の声は、枯れ葉が擦れ合うような不気味な乾燥を帯びていた。


 


「彼女が最も恐れているもの……。それは、肉体の死ではない。……自分の描いた完璧な脚本(シナリオ)に、決して消えない『汚れ(データの欠損)』を残されることだ。……彼女の管理が及ばない、純粋な、予測不能なバグ。それだけが、あの蜃気楼を内側から焼き切る唯一の火種になる」


 


 慶太は、神代が差し出した古ぼけた写真――あの野良猫の死骸を囲む二人の少女――を凝視した。


 


 ボタニカル柄のナミ。


 紺色チェックのサキ。


 


 二人の瞳には、他人の痛みを理解する情緒など微塵も存在しなかった。ただ、壊れた物体を観察し、その断面に自分たちの歪んだ絆を投影する、倒錯した充足感だけが澱んでいた。


 


「……神代さん。あんたは、あいつらの手足として、何人の男をここに運んできたんだ」


 


 慶太の問いに、神代はヒッヒッと喉を鳴らして笑った。その笑い声は、深夜の潮騒にかき消されそうなほど弱々しく、しかし確実に慶太の理性を抉った。


 


「数えていないよ。……ナミさんに『あなたは特別だ』と言われるたびに、僕は自ら檻の鍵を飲み込んできた。……佐藤健司という男も、今ごろは病院のベッドの上で、同じ甘い毒に酔い痴れているはずだ」


 


 佐藤健司。


 


 その名を聞いた瞬間、慶太の脳裏に、あのスーパーマーケットで失神を演じたサキと、彼女を抱きかかえた佐藤の「無知な善意」がフラッシュバックした。


 


 ――そして、その背後で血の海に沈んだ、妻の薫さん。


 


 慶太は悟った。


 ナミのシステムを壊すための「バグ」は、自分一人では足りない。


 最も深く傷つき、最もナミの支配の外側に置かれた、あの「平凡な被害者」の力が必要なのだ。


 


「……神代さん。ナミがサキを『管理』するために使っている手法のすべてを教えてくれ。……あいつの目に、何が映っているのか。……サキという記号を、どうやって彼女の脳に焼き付けているのか」


 


 神代は、慶太のその瞳をじっと見つめると、ゆっくりと唇を歪めた。


 


「……いいだろう。……地獄への道案内(ナビゲーター)なら、僕以上の適任はいない。……ナミさんがサキに与えた、あの『事務制服』、あの『ピンクのシュシュ』。……あれは、ナミさんの精神を繋ぎ止めている、唯一の**視覚的アンカリング(条件的固定)**だ。……あれさえあれば、ナミさんはどんな女でも、自分の忠実な『サキ』として認識してしまう」


 


 慶太は、神代から手渡された一袋の「粉末」と、サキがかつて愛用していたものと全く同じ、予備の「ピンクのシュシュ」を強く握りしめた。


 


 掌に食い込むシュシュの弾力。


 それは、ナミが作り上げた蜃気楼を、内側から食い破るための猛毒の種火だった。


 


「……行くのか、若いの」


 


「ああ。……ナミさんの大好きなコレクションの中に、最高に醜い『汚れ』を投げ込みに行ってくる」


 


 慶太は廃屋を後にし、闇に包まれた海岸沿いを疾走する社用車へと戻った。


 


 夜明けはまだ遠い。


 だが、今の慶太には、暗闇こそが自分の領域であるかのように感じられた。


 


 彼が次に向かう場所は、ナミの標本となった佐藤健司が幽閉されている病院ではない。


 


 絶望の淵から這い上がり、夫を奪った「記号」への復讐を誓っているはずの女。


 


 ――佐藤薫。


 


 彼女の元へ、慶太は「鏡」を届けに行く。


 


 悪魔を葬るためには、悪魔を演じるための衣裳(ドレス)が必要なのだ。


 


 慶太はアクセルをさらに踏み込んだ。


 ワイパーが雨を弾くたび、バックミラーに映る自分の瞳が、少しずつ、サキのような冷徹な光を帯びていくのを感じながら。


 


 


 


 


 


(つづく)


 


 


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