第18話:廃刻の証言者(The Witness of Decaying Time)

### 第十八話:廃刻の証言者(The Witness of Decaying Time)


 


 

 逃走を助けたのは、皮肉にもナミが俺に植え付けた「徹底した事務処理能力」だった。

 警察署の裏口。警備員の視線が死角に入る三秒の空白。慶太は、かつての営業活動で培った「気配を消して空間に溶け込む」という技術を使い、冷たい雨の夜へと滑り出した。

 

 向かったのは、会社の営業所だ。

 深夜の事務所は静まり返り、無機質な事務机が墓標のように並んでいる。慶太は、所長のデスクの裏に隠された予備の鍵束を手に取った。盗み出した社用車のエンジンをかける。ワイパーが激しく雨を弾くたび、慶太の網膜には、あの督促状に記されていた千葉の住所が鮮明に浮かび上がった。

 

 アクセルを踏み込む。

 都心の眩いネオンが、バックミラーの中で歪んだ光の帯となって遠ざかっていく。

 自分は今、法という名の社会契約を自らの手で破棄したのだ。だが、ハンドルを握る慶太の指先に、迷いはなかった。ナミという絶対的な「正解」を失った世界で、法や道徳といった既製品の倫理は、もはや意味をなさない。


 


 

 数時間後。

 車は、潮の香りと土の腐臭が混ざり合う、千葉の海岸沿いの荒れ地へと流れ着いた。

 

 街灯など一つもない。

 闇を切り裂くヘッドライトの先に現れたのは、潮風に晒されて外壁がボロボロに剥がれ落ちた、一軒の平屋の廃屋だった。庭には錆びついた粗大ゴミが散乱し、窓ガラスには内側から幾重にも重なった古新聞が貼られている。

 外界との接触を完全に拒絶した、その異様な佇まい。

 慶太は、その家の前に立った瞬間、自分の全身の産毛が逆立つのを感じた。ここには、ナミが作り上げた「清潔な地獄」とは対照的な、生々しく、救いのない「本物の絶望」が澱(よど)んでいた。


 


 

 慶太は、湿った重い空気を吸い込み、錆びたドアノブを叩いた。

 

 ――コン、コン。

 

 鈍い音が、静寂な夜の底に響く。

 返事はない。だが、扉の奥から、微かにカサカサと何かが這い回るような音が聞こえてくる。

 慶太はさらに激しく、扉を拳で打ち付けた。

 

「神代毅さん! ……神代さんですね! 中にいるのは分かっている!」

 

 一拍置いて、錆びついた金属が擦れる嫌な音がした。

 ドアチェーンがギリギリと鳴り、扉が数センチだけ開く。

 その隙間から溢れ出してきたのは、腐った果実と排泄物の入り混じったような、むせ返るほどの閉塞した生活臭だった。

 

「……誰だ。また、ナミさんが寄越した『新しいおもちゃ』か?」

 

 闇の中から聞こえてきたのは、およそ人間とは思えない、枯れ果てた男の震え声だった。

 

 慶太は、その隙間に自分の手をねじ込んだ。

「違う……! 俺は山伏慶太だ。あんたと同じ、サキとナミに人生を食い荒らされた男だ!」

 

 その言葉が届いた瞬間、扉の向こうの気配が凍りついた。

 ガチャリ、という鈍い音がして、鎖が外れる。

 ゆっくりと開かれた扉の奥に立っていたのは、幽霊のような男だった。

 

 ボロボロの綿入れを羽織り、焦点の合わない瞳で慶太を見つめる男。

 神代毅。

 かつてエリートとして輝いていたはずのその貌は、今やナミという名の絶対的な捕食者に、精神の芯までしゃぶり尽くされた「残飯」そのものだった。

 

「……似ているな。あの日、ナミさんに拾われた時の僕の顔に」

 

 神代は、ヒッヒッと喉を鳴らして笑った。

 彼は慶太を室内の薄暗い灯り――一本の裸電球の下へと招き入れた。床には、これまでの被害者たちのものだろうか。名前の消された身分証や、歪んだネクタイピン、そして、慶太の掌に残っているのと同じ、あの「泥まみれのネックレス」と瓜二つの鎖が、山のように積まれていた。

 

「いいか、若いの。……あいつらは、男を壊すために愛を語るんじゃない。あいつらにとっての愛とは、相手を完全に無力化し、自分の『標本』にすることなんだよ」

 

 神代は、震える手で一枚の黄ばんだ写真を慶太に差し出した。

 

「見ろ。……これが、サキとナミの正体だ」

 

 そこに写っていたのは、十数年前の、まだあどけなさの残る二人の少女の姿だった。

 一人は、ボタニカル柄のワンピースを着たナミ。

 そしてもう一人は、紺色のチェックの制服を着たサキ。

 

 二人は、横たわった一匹の野良猫の死骸を囲み、まるで愛しい宝物を見つめるような、無垢で残酷な微笑みを浮かべていた。

 

 慶太の背筋に、氷の柱が突き刺さった。

 二人のファム・ファタールの絆は、大人の情愛などではない。

 幼い頃から、共に「壊れたもの」を愛で、共有することで育まれてきた、この世で最も純粋で、最も悍(おぞ)ましい**共依存の宗教**だったのだ。

 

「……神代さん。教えてくれ。……どうすれば、あの蜃気楼を焼き払える?」

 

 慶太の瞳に、暗く、冷徹な炎が宿った。

 

 神代は、慶太のその瞳をじっと見つめると、ゆっくりと唇を歪めた。

 

「……たった一つだけ、方法がある。……あいつらが、最も愛しているものを、あいつら自身の手で殺させるんだ」

 

 廃屋の外では、潮騒が牙を剥くように鳴り響いていた。

 慶太は、闇の中で神代から手渡された「毒」のレシピを、自らの血に刻み込んでいった。

 

 

 

 

 

(つづく)


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