第17話:欠損する論理(Defecting Logic)

### 第十七話:欠損する論理(Defecting Logic)


 

 

 取調室の隅で、卓上録音機が微かな電子音を立てて回っている。その一定のリズムは、慶太の脳髄を一定間隔で刻むメトロノームのように、思考の深淵へと沈み込んでいった。

 

 刑事・富樫は、手元の冷めきったコーヒーを口に含み、忌々しそうに顔を顰めた。その仕草一つをとっても、今の慶太には「ナミが設計した舞台装置の一部」に見えて仕方がなかった。この無機質な空間も、澱んだ空気も、そして目の前の刑事の執拗な追求さえも、慶太を「狂人」という檻に閉じ込めるための精巧な歯車なのではないか。

 

「……山伏くん。君はさっきから、自分を被害者だと訴えながら、一方でその犯罪行為――投石や逃走を、まるで他人事のように語っている。その『解離』こそが、君の精神が限界を迎えている証拠なんだよ」

 

 富樫の言葉は、正論という名の鈍器だった。

 だが、今の慶太には、その鈍器を跳ね返すための「新しい皮膚」が芽生え始めていた。

 

「……富樫さん。あんたは、自分の正義が一点の曇りもない本物だと、本気で信じているんですか?」

 

 慶太の声は、低く、凪いだ海のように静かだった。

 富樫の手が止まる。慶太は、かつてナミが自分に向けていた、あの「すべてを見透かしたような」冷徹な眼差しを鏡のように写し取り、刑事の網膜へと突き返した。

 

「あんたも知っているはずだ。佐藤健司さんをあの個人病院――ナミの檻へ送り届ける書類に、最後にサインしたのはあんただ。あんたのその指先には、佐藤さんの人生を終わらせた『泥』が、今もこびりついているんじゃないのか?」

 

 富樫の頬が、ぴくりと痙攣した。

 慶太は逃さなかった。ナミが教えてくれたのだ。人間が最も無防備になるのは、自分の「管理された自尊心」に、予想外のヒビが入った瞬間なのだと。

 

「黙れ……ッ! 俺は法の手続きに従って……!」

 

「手続き。便利な言葉ですね。ナミも同じことを言っていましたよ。……『これは、私とサキの契約の手続きなの』って」

 

 慶太はゆっくりと身を乗り出した。

 テーブルの上に散らばった捜査資料。富樫が佐藤健司のカルテだと言って指で弾いた紙束の、その裏側に隠されていた一枚の「督促状」のコピー。

 あのアパートで見つけた、あの名前。

 

 ――神代毅。

 

 富樫が動揺し、煙草を探して視線を逸らした、そのコンマ数秒の隙。

 慶太の指先は、獲物を仕留める猛禽類のように静かに、しかし確実にその資料を視認した。

 

 千葉県。九十九里の廃屋。

 

 住所の断片が、慶太の脳内の地図へと鮮やかに上書きされる。

 サキの前の住人。ナミが以前に「管理」し、そして廃棄したはずの先代の生贄。

 彼こそが、ナミという絶対的な演出家が隠し続けている、唯一の「台本(スクリプト)の綻び」に違いない。

 

「……山伏。何を笑っている」

 

 富樫の声に、慶太はハッとして自分の口角が吊り上がっていることに気づいた。

 

「いえ。……あんたの言った通り、俺はもう壊れているのかもしれない。……そう思っただけですよ」

 

 慶太は、椅子を深く軋ませて背を預けた。

 今の自分は、山伏慶太という「お人好しな男」の皮を被った、実体のない蜃気楼そのものだ。ナミのロジックを学び、サキの狂気を吸い込み、自分自身を「捕食者の鏡」へと造り替えていく。

 

「……体調が悪い。一度、トイレに行かせてください」

 

 富樫は忌々しそうに溜息をつき、腰の鍵束を鳴らした。

 

「……五分だけだ。逃げようとするなよ。ここは警察署だ」

 

「分かっていますよ。……逃げたりなんてしません。俺は、自分自身の『真実』を探しに行くだけですから」

 

 取調室の外に出ると、廊下の蛍光灯が、チカチカと不規則な音を立てて明滅していた。

 慶太はその瞬きに合わせて、自分の呼吸を整える。

 

 ナミの支配を壊す方法は、一つしかない。

 彼女の完璧なコレクションを、内側から食い破る「不純物」になることだ。

 

 慶太は、警備の薄い非常口へと向かう。

 外は、また雨が降り始めていた。

 だが、今の彼にとって、その雨は自分を隠すための完璧な「保護色」に見えていた。

 

 千葉。神代毅。

 そこが、蜃気楼という名の戯曲が、血を流して終わるための終着駅になる。

 

 慶太は闇に溶け込むように、一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

(つづく)


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