第16話:救済の去勢(Castration of Salvation)
### 第十六話:救済の去勢(Castration of Salvation)
「……山伏くん。君は、一人の人間が『社会的に死ぬ』瞬間を、その目で見たことがあるか?」
取調室の静寂を、富樫刑事の低く冷徹な声が塗りつぶす。
彼は卓上に広げられた、佐藤健司のカルテの写しを無造作に指で弾いた。その乾いた音が、静かな室内に死の宣告のように響く。窓の外では、朝焼けの光が鉄格子の影を床に長く伸ばし、慶太を現実という名の牢獄へと引き戻していた。
「肉体が滅びるだけが死ではない。肩書きを奪われ、家族から拒絶され、自分を証明するすべての繋がりを絶たれること。……それがナミという演出家が最も好む、最高級の『去勢』だ。君がサキという猟犬と泥の中で戯れていた頃、ナミは白く清潔な手袋をはめたまま、佐藤健司という獲物の心臓を優雅に抉り取っていたんだよ」
富樫の言葉が、慶太の記憶の深淵に沈んでいた、あの白亜の病院の光景を鮮明に呼び覚ました。
妻の薫さんが血の海に沈み、幼い結衣ちゃんの悲鳴が夜の静寂を切り裂いた数時間後。
慶太は、サキの指示に従い、郊外の総合病院のロビーに潜んでいた。サキは慶太の隣で、まるで自分が被害者であるかのように震える肩を抱きながら、獲物の最期を鑑賞するために瞳を輝かせていた。
正面玄関から、パジャマの上にコートを羽織っただけの無惨な姿で、佐藤健司が飛び込んできた。かつて「勝者」としての余裕を湛えていたその貌は、今や絶望と不眠によって土色に変色し、呼吸をするたびに喉からひゅーひゅーと、壊れた笛のような音が漏れていた。
「薫! 結衣! どこだ! どこにいるんだッ!」
佐藤の絶叫が、消毒液の匂いが立ち込める廊下に虚しく響く。だが、彼を待ち受けていたのは、救済の手などではなかった。
待合室の椅子に座っていた薫さんの両親が、鬼のような形相で立ち上がり、佐藤の行く手を阻んだ。
「……帰れ。どの面を下げてここへ来た!」
「義父さん、何を……俺は、薫を……!」
「貴様の不貞のせいで、娘は死にかけたんだ! 窓を割ったあの女も、貴様がどこかで囲っていた愛人なんだろう? 警察にもすべて話した。結衣も、貴様を見るたびにパニックを起こす。……二度と、我々の前に姿を見せるなッ!」
慶太は、その一部始終を物陰から眺めていた。サキが投げたあの「石」一つで、佐藤健司という男の潔白は、永遠に証明不能な罪へと反転させられたのだ。警察は彼をDVの疑いがある要注意人物としてマークし、愛する家族は彼を「悪魔」として定義した。
佐藤健司は、冷たい床に膝をつき、獣のような声を上げて泣き崩れた。
その時だった。
静寂を切り裂いて、一滴の汚れもない、完璧な微笑みが佐藤の前に現れた。
ナミだった。
ボタニカル柄のブラウスを鮮やかに纏い、手には濃厚な香りを放つカサブランカの花束を抱えている。彼女は、地面を這い蹲る佐藤の傍らに静かに膝をつくと、慈愛に満ちた聖母のような手つきで、彼の震える肩をそっと抱き寄せた。
「……かわいそうに。健司さん、大丈夫ですよ。私が、あなたの味方になってあげます」
ナミの声は、冷え切った佐藤の脳髄を直接麻痺させる毒薬だった。
「奥さんも、子供たちも、警察も、みんなあなたのことを『狂人』だと思っているわ。……でも安心して。私だけは、あなたの『正しさ』を知っているから。私が、あなたのすべてを管理して、守ってあげる」
慶太は、その光景を目にして、全身が激しい悪寒に襲われた。
マッチポンプ。
サキという猛毒で人生を焼き払い、空っぽになった廃墟に、ナミという「唯一の救い」が舞い降りる。佐藤健司は、自分を壊した当事者であるナミに、自らの人生という名の鍵を、泣きながら手渡そうとしていた。
「……あれが、ナミさんの『管理』なのね。すごく、綺麗だと思わない? 慶太くん」
隣でサキが、慶太の腕に爪を立てて囁いた。その言葉は、自分自身がかつてナミの手のひらの上で同じように飼育されていた事実を、慶太に突きつけた。
「……富樫さん。佐藤さんは、あの日から一度も、光を見たことがなかったんじゃないですか?」
慶太の声は、取調室の乾いた空気の中で頼りなく響いた。
「ああ。彼はナミが用意した最高級の個人病院へ送られ、外界との接触を完全に断たれたよ。……名目上の保証人は佐伯ナミ。佐藤健司という男は、戸籍上は生きていても、その魂はナミという名の標本箱の中に、永久に固定されたんだ」
富樫は椅子を深く軋ませ、慶太を射抜くように見つめた。
「そして山伏くん。君は、その標本の一部になることを拒んで逃げ出した。……だがな、標本箱から外れた蝶が、外の世界で生き残れると本当に思っているのか?」
慶太は、自分の掌に残るサキの冷たい感触を、無意識に確かめていた。
ナミの管理か。サキの破壊か。
慶太は、どちらの蜃気楼も拒絶し、自らの手でこの美しき地獄を焼き払うための「反逆」を、静かに脳内で組み上げ始めていた。
鏡の国から脱出する道は、もはや一点しか残されていない。
(つづく)
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