第15話:緋色の沈黙(Scarlet Silence)
### 第十五話:緋色の沈黙(Scarlet Silence)
「……山伏くん。君は、自分の指先にこびりついたその『毒』の味を、もう知っているはずだ」
取調室の、不快なほどに澱んだ空気。
刑事・富樫は、短くなった煙草の灰を灰皿に落とすと、まるで死体を検分する法医学者のような冷徹な眼差しで慶太を射抜いた。窓の外で鳴り響く遠いサイレンの音が、室内の静寂をさらに鋭く研ぎ澄ませていく。
「君はあの日、佐藤邸の窓を割った後、彼女と一緒に逃げ出したと言ったな。……だがな、本当に残酷なのは、物理的な破壊そのものではない。破壊の後に訪れる、あの不気味な『沈黙』をどう埋めるかだ。……君は、彼女が佐藤家の奥さんをどうやって死の淵まで追い詰めたのか、その一部始終を特等席で眺めていたんだろう?」
富樫の言葉が、慶太の脳髄に溜まった沈殿物を激しく掻き回す。
沈黙。
その響きが、あの日、佐藤健司の不在時に繰り返された、あの「見えない侵食」の記憶を鮮明に呼び覚ました。
佐藤健司が警察署で無益な怒りを爆発させ、自ら「暴力的な要注意人物」というレッテルを貼られていた頃。
慶太は、サキに引かれるようにして、再びあの邸宅の影に潜んでいた。
雨上がりの湿った夜気が、生温い死臭のように鼻を突く。サキは慶太の腕を掴んだまま、悦楽に震える声で囁いた。
「ねえ、慶太くん。……聞こえる? あの家の中で、奥さんが呼吸を忘れる音が」
サキはポケットから、使い捨てのスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで番号をタップした。慶太の耳に、コール音が一つ、二つと無機質に響く。そして、受話器が上がる微かな音がした瞬間、サキは何も言わず、ただ自分の喉元で「ふふっ」と、湿った笑い声を漏らした。
それだけだった。
だが、その一秒にも満たない「不在の通告」が、壁一枚隔てた向こう側にいる薫さんにとっては、脳髄を直接針で刺されるような拷問であったことを、慶太は知っていた。
深夜三時。玄関のチャイムが、狂ったように鳴り響く。
ピンポーン。ピンポーン。ピンポーン。
連打される電子音が、静寂な住宅街を鋭く切り裂く。モニターを確認しても、そこには歪んだ広角レンズの死角に潜む、サキの姿は映っていない。
チャイムが止まったかと思うと、今度はドアノブが、カチャカチャと、ゆっくり、執拗に回される。
開かないと分かっていても、それは精神的な凌辱(りょうじょく)に等しい行為だった。目に見えない悪意が、自分の聖域であるはずの家の中に、音もなく毒を流し込んでくる。
「……サキ、もういいだろ。……もう、十分じゃないか」
慶太の掠れた制止に、サキは瞳孔を開ききった瞳で慶太を射抜いた。
「足りないわよ。……あの子たちの『幸福』という名の脂身が、まだ完全に削ぎ落とされていないもの」
翌朝。佐藤健司が憔悴しきって帰宅したとき、彼を待っていたのは、妻の温かな迎えでも、子供たちの歓声でもなかった。
リビングには、濃厚な、むせ返るような百合の香りが立ち込めていた。
テーブルの上には、ナミが纏っていたボタニカル柄のブラウスと同じ色の、毒々しい緋色の百合の花束が活けられている。誰が届けたのかも分からない、差出人不明の供物。
薫さんは、その花を狂ったような目で見つめ、浴室に閉じこもっていた。
「……ねえ、健司さん。本当に知らない女なの? どうして私たちが、こんな目に遭わなきゃいけないの?」
薫さんの叫びが、厚いドアを突き抜けて響く。佐藤健司が「知らない」と答えれば答えるほど、彼女の脳内にある「夫の不貞」という妄想は、絶対的な真実へと書き換えられていく。ナミとサキが仕掛けた、完璧なガスライティングの終着駅。
そして、その夜。
静寂が、ついに決壊した。
浴室のタイルを叩く、不自然な水の音。
薫さんは、純白の浴槽の中で、鋭利なカッターナイフを自らの左手首に押し当てた。溢れ出す鮮血。それは、彼女がかつて注いできた家族への愛を、すべて無価値な排水へと変えていく、緋色の沈黙だった。
だが、その沈黙を破ったのは、幼い裸足の音だった。
「……ママ? なにしてるの?」
四歳の長女、結衣ちゃんが、喉の渇きで目を覚まし、浴室へと迷い込んできた。
真っ赤に染まった床。力なく横たわる母親。
幼い少女の悲鳴が、夜の静寂を粉々に砕いた。
「……ひどすぎる。あいつら、家族の愛まで踏みにじったのか」
慶太は嗚咽を堪え、顔を覆った。
「ああ。だが山伏くん。君が最も恐れるべきなのは、奥さんが自殺を図ったことじゃない」
富樫刑事の声が、慶太の鼓膜に重くのしかかる。
「結衣ちゃんが母親の血の海を見つけたその瞬間。……君の隣で、サキはどんな顔をしていた? ――正直に答えろ。君は、その悲鳴を聞いて、自分の中にあるドロドロとした『快楽』が、ついに受肉したのを感じたんじゃないのか?」
慶太は、自分の掌に残るサキの冷たい感触を思い出した。
あの時、サキは慶太の首筋に顔を埋め、赤ん坊のように無邪気に、そして最高に美しく微笑んでいたのだ。
慶太は、自分がすでに、サキという名の猛毒を自らの血液に混ぜ合わせ、共に他人の人生を貪り食う「共犯者」としての悦びに、魂を売ってしまったことを悟った。
取調室の鏡の中に映る自分の顔が、一瞬、サキの三日月のような微笑みと重なった。
(つづく)
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