第14話:硝子の墓標(Gravestone of Glass)

### 第十四話:硝子の墓標(Gravestone of Glass)


 


 


「……器物損壊。刑法第二百六十一条」


 


 


 取調室の静寂を、富樫刑事の無機質な声が塗りつぶす。


 


 


 彼は手元の分厚い書類フォルダを捲り、事務的な手つきで一枚の写真を慶太の前に差し出した。そこには、真夜中の闇に晒された佐藤邸の無残な姿が写っていた。粉々に砕け散った二階の窓ガラス。その鋭い破片が、手入れされた庭の芝生に、まるで死者に供える花びらのように撒き散らされている。


 


 


「山伏くん。君の供述が事実だとすれば、君はこの瞬間に『被害者』という立場を自ら放棄したことになる。……分かるか? 誰かに強要されたにせよ、自らの意思で腕を振り抜き、他人の平穏を物理的に破壊した。それはもはや、ナミやサキのせいではない。君自身の『犯罪』だ」


 


 


 富樫は、万年筆のキャップをカチリと閉めた。その乾いた音が、慶太の脳内で窓の割れる音と重なり、激しく反響する。


 


 


「警察の立場から言わせてもらえば、君の語る『サキにそそのかされた』という主張には、何の客観的な証拠もない。防犯カメラに写っているのは、逃げ出す一人の男の背中だけだ。……君は、彼女たちの書いた台本の通り、完璧な『実行犯』に成り下がったんだよ」


 


 


 慶太は、取調室の鉄製のテーブルを見つめ、自分の震える指先を凝視した。あの夜の、石の冷たさと重みが、今も掌に生々しく残っている。


 


 


 


 


 


 逃げ出した夜の路地裏。


 


 


 慶太の心臓は、肋骨を突き破らんばかりに暴れていた。背後からは佐藤健司の、怒りと恐怖が入り混じった絶叫が追いかけてくる。だが、慶太の腕を引くサキの足取りは、驚くほど軽やかで、まるで祝祭の帰り道であるかのように弾んでいた。


 


 


「ふふっ……最高。ねえ、慶太くん、聞いた? あの音。……あの家族の『幸せ』が、一瞬でゴミ屑に変わった音。あんなに綺麗な音楽、他にないと思わない?」


 


 


 サキは、暗い路地の突き当たりで足を止めると、慶太の胸元に顔を埋めた。事務制服から漂う、冷たい雨の匂いと、あのむせ返るような百合の香水。彼女の細い指が、慶太の汚れた手を包み込み、自らの頬に当てた。


 


 


「これで、あなたはもう戻れない。……清潔でお利口な山伏慶太くんは、今、あの窓ガラスと一緒に死んだの。……今日からは、私の泥の中で、私と一緒に生きていくのよ」


 


 


 サキの瞳に宿る熱狂が、慶太の理性をじわじわと焼き切っていく。


 


 


 自分が何をしたのか、本当の意味で理解したのは、その翌日のことだった。


 


 


 


 


 


「……佐藤健司さんは、どうなったんですか」


 


 


 慶太の掠れた問いに、富樫は冷淡に報告書を読み上げた。


 


 


「最悪の展開だ。……山伏くん、君が投げたあの石は、ただ窓を割っただけじゃない。佐藤家の『信頼』という屋台骨を、粉々に粉砕したんだよ」


 


 


 富樫は、慶太を憐れむように、あるいは徹底的に突き放すように、言葉を繋いだ。


 


 


「佐藤さんは警察にこう証言している。『犯人の心当たりはまったくない。理由が分からない』とね。……だが、それを聞いた奥さんの薫さんは、彼をこう詰問したそうだ。――『身に覚えがない? 嘘をつかないで。これは女の恨みでしょう? あなた、私の知らないところで誰かを泣かせたのね?』……とな」


 


 


 慶太の全身から、血の気が引いた。


 


 


「奥さんにとっては、それが唯一の『合理的な解釈』だったんだよ。理由のない暴力なんて、この世にあるはずがない。夫が隠れて不倫をし、捨てられた女が狂って石を投げた。そう思わなければ、自分の日常が理不尽に壊されたことを受け入れられなかったんだ。……心理学ではこれを『公正世界信念の逆転』と呼ぶ。被害者であるはずの夫を、自らの手で加害者に仕立て上げてしまったんだ」


 


 


 富樫は、空になったコーヒーカップを無造作にゴミ箱へ投げ捨てた。


 


 


「佐藤さんは必死に潔白を叫んだが、叫べば叫ぶほど、奥さんの目には『往生際が悪い嘘つき』に映った。……いいか、山伏くん。サキという女は、一度も姿を現さず、一度も名前を名乗らず、ただ石を一つ投げさせただけで、佐藤健司という男の『誠実さ』を、家庭の中から完全に切除してしまったんだよ」


 


 


 慶太は頭を抱えた。


 


 


 自分がサキの手を引いて逃げ出したせいで、佐藤健司の無実を証明する機会は永遠に失われた。自分はサキを逃がしたのではない。佐藤さんの首に、外れることのない『疑い』という名の死刑宣告を執行したのだ。


 


 


「……富樫さん。俺が、証言します。石を投げたのは俺だ。佐藤さんは何も悪くない。サキという女が……」


 


 


「無駄だと言っているだろう」


 


 


 富樫は冷酷に言い放ち、立ち上がった。


 


 


「君の言葉は、もはや公的な記録に残る『供述』でしかない。……今の佐藤家にとって、君という存在は、ナミとサキが作り上げた壮大な蜃気楼の中の、たった一粒の砂に過ぎないんだ。……君が何を叫ぼうと、彼らの家庭に空いたあの穴は、二度と塞がることはない」


 


 


 富樫は取調室のドアを開け、外の廊下の白々しい光を室内へ引き込んだ。


 


 


「さあ、次の段階へ進もうか。……佐藤健司の奥さんが、なぜ自殺を図ったのか。その引き金を引いたのが誰なのか……君には心当たりがあるはずだ」


 


 


 慶太は、自分の掌に残る、消えない泥の汚れを見つめた。


 


 


 侵食は、もう誰にも止められない速度で、次の犠牲者を飲み込もうとしていた。


 


 


 


 


 


(つづく)


 


 


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