第13話:絶望の幾何学(Geometry of Despair)
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### 第十三話:絶望の幾何学(Geometry of Despair)
夜の帳が、さらに深く、粘り気を持って街を包み込んでいた。
スーパーマーケット・アサヒの裏口。慶太は、湿り気を帯びた緑色のエプロンを脱ぎ捨て、私服に着替える余裕さえ与えられないまま、サキに引かれるようにして夜の静寂へと連れ出された。
彼女の指先は、慶太の手首を驚くほど強い力で拘束している。それは愛着の表現などではなく、逃亡を許さないための、無機質な万力(まんりき)のようだった。
「ねえ、慶太くん。一ヶ月、あんなところでレジを打って、どんな気持ちだった? 玉ねぎのバーコードを読み取るたびに、私のこと……思い出してくれていた?」
サキは小首を傾げ、三日月のような笑みを湛えて慶太を覗き込んだ。その瞳の奥には、彼が必死に築き上げようとした「平穏な不在」を、一片の慈悲もなく踏みにじる愉悦が宿っている。
「あなたが真面目な顔をして、主婦の人たちに頭を下げている姿……。すごく面白くて、私、毎日でも通いたいくらいだったわ」
慶太は、胃の底が冷たくなるのを感じた。
見られていたのだ。最初から。
自分が「潜伏」しているつもりでいたあの時間は、彼女たちにとって、最高の娯楽番組を鑑賞するための予約席に過ぎなかったのだ。
「……なあ、山伏くん」
取調室の回想の中で、富樫刑事が再び、慶太の脳髄に鋭い問いを突き刺す。
「君は彼女に脅されていたと言うが、実はどこかで、その『管理』に安堵していたんじゃないのか? 自分の人生を自分以外の誰かが設計(デザイン)し、支配してくれる……。それは自由を奪われる一方で、選択の責任からも解放される、究極の免罪符だ」
富樫は、濁った眼で慶太の沈黙を測る。
「心理学ではこれを『境界の融解(Dissolution of Boundaries)』と呼ぶ。支配する者と、支配される者。その二人の自我が混ざり合い、一つの歪んだ共同体になる。……その夜、君が彼女と一緒に向かった先で起きたことは、その融解の儀式だったんだ」
深夜の住宅街。街灯の光が雨上がりのアスファルトに反射し、完成したばかりの戸建て住宅を、白く、無防備に浮かび上がらせていた。
佐藤健司の邸宅。それは、社会的な成功と「幸福な家庭」という名の、あまりに脆い硝子細工の城だった。
サキは、その家の正面で足を止めた。彼女は慶太の手を離すと、路地裏の植え込みから、手のひらほどの大きさがある歪な石を拾い上げた。
「……やめろ、サキ」
慶太の喉から、掠れた制止の言葉が漏れた。だが、サキは聞こえていないかのように、その石を愛おしそうに頬に寄せた。
「見て、慶太くん。……あそこの二階。あそこに、あの佐藤さんと、綺麗な奥さんと、可愛い子供たちが寝ているの。……幸せそうだと思わない? 吐き気がするくらい、完璧な『蜃気楼』じゃない」
サキの瞳が、狂おしいほどの熱を帯びて慶太を射抜く。
「あの子たち、明日にはもう……一生、笑い方を忘れることになるわ。……慶太くん、あなたが投げてもいいんだよ?」
彼女は、泥のついたその石を慶太の掌に押し付けた。
冷たく、硬い感触。
慶太は、その石の重みに耐えきれず、手を震わせた。今ここで石を放り出し、彼女を突き飛ばして逃げることもできたはずだ。だが、彼の身体は、石を握りしめたまま硬直していた。
脳裏をよぎるのは、ナミに裏切られたあの銀座の夜。自分を異常者扱いした、あの刑事の顔。自分を「きみ!」と呼んで見下した、佐藤健司の傲慢な表情。
慶太の中で、ドロリとした黒い共鳴が爆ぜた。
――そうだ。俺と同じになればいい。
お前たちの信じているその世界も、実は何の価値もない、ただの脆い幻影であることを思い知らせてやればいい。
慶太は、自分でも制御できない歩みで一歩、前へと踏み出した。
サキが、背後から慶太の耳元に唇を寄せる。
「そうよ……壊して。私たちの愛を、あの綺麗な窓に刻んであげて」
慶太は腕を振り抜いた。
――ガシャンッ!!
深夜の静寂を暴力的に引き裂く、破砕音。
二階の寝室の窓ガラスが粉々に砕け散り、鋭い硝子の雨が、幸せな家族が眠る室内に降り注いだ。
一拍置いて、響き渡る女性と子供たちの引き裂かれたような悲鳴。
慶太は、その悲鳴を、人生で最も心地よい音楽のように感じている自分に気づき、愕然とした。
「……ああ」
サキは、慶太の腰に腕を回し、恍惚とした表情で彼に体重を預けた。
「最高。……慶太くん、あなたはやっぱり……私の、最高の『共犯者』だわ」
慶太の掌に残った石の冷たさが、じわじわと心臓まで凍りつかせていく。
佐藤家の玄関が勢いよく開き、パジャマ姿の佐藤健司が飛び出してきた。慶太は、サキの手を掴むと、彼女を連れて闇の奥へと疾走した。
もう、後戻りはできない。
慶太は、自分の意志で、ナミとサキが作り上げた地獄の門を、自ら潜り抜けたのだ。
(つづく)
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