第12話:侵食の再定義(Redefining Erosion)

### 第十二話:侵食の再定義(Redefining Erosion)


 


 


 スーパーマーケット・アサヒのバックヤードに漂う空気は、酸化した揚げ物の油と、強力な塩素系消毒液の匂いが混ざり合った、生理的な嫌悪感を催させる代物だった。


 


 慶太は、腕の中でぐったりと重力に従うサキを、休憩室の古びたパイプ椅子へと運んだ。彼女の身体は、あの日、銀座の路上で抱き上げた時よりも、さらに実体感を失っているように感じられた。まるで、一瞬でも気を抜けば指の間から霧となって消えてしまいそうな、不確かな質量。


 


「おい、きみ。……本当に大丈夫なのか」


 


 背後から、佐藤健司の苛立ちを含んだ声が追いかけてくる。


 


 佐藤は、バックヤードの無機質な白い壁に自分の仕立ての良いスーツが触れるのを極端に恐れるように、奇妙に身体を強張らせて立っていた。彼の視線は、倒れた女性への心配よりも、自分の平穏な買い物の時間を台無しにした「不快なノイズ」としての慶太に向けられている。


 


「……あとは店側で対応します。お客様は、どうぞお戻りください」


 


 慶太は、一度も振り返ることなく、無機質な事務的トーンを保ったまま言い放った。その冷淡な拒絶に、佐藤の眉間が深く、不快そうに歪む。


 


「なんだ、その態度は。……私は善意で介抱しようとしたんだぞ。ただの店員のくせに、随分な物言いじゃないか」


 


 エリート特有の、格下を断罪する言葉の礫(つぶて)。


 


 かつての慶太なら、反射的に謝罪を口にしていただろう。だが、今の彼の脳内にある報酬系は、すでに別の「毒」によって麻痺していた。佐藤健司が発する正論という名の雑音は、サキの細い吐息の響きに、いとも容易くかき消されていく。


 


「……失礼しました。ですが、緊急時ですので」


 


 慶太の視線は、サキのうなじで揺れるあのピンクのシュシュに釘付けになっていた。


 


 佐藤は鼻で笑うと、捨て台詞を残して自動ドアの向こうへと消えていった。


 


 静寂。


 


 耳を劈(つんざ)くような、工業用冷蔵庫の唸り音だけが、狭い休憩室を満たしていく。


 


 その時だった。


 


「……ふふっ」


 


 ぐったりと項垂れていたサキの肩が、微かに、愉悦に満ちたリズムで揺れた。


 


 彼女はゆっくりと顔を上げ、濡れた前髪の間から、慶太の網膜を射抜くように微笑んだ。その瞳には、先ほどまでの「失神」の残滓など一片も残っていない。そこにあるのは、完全に主導権を握った捕食者の、冴え渡るような知性だけだ。


 


「慶太くん。……やっぱり、あなたは優しいね。私をあんな風に突き飛ばして逃げたくせに、またこうして、真っ先に私を拾い上げてくれる」


 


 サキはパイプ椅子に深く背を預け、はだけた事務制服の襟元を無造作に整えた。彼女の指先が、首元の「泥まみれのネックレス」――慶太の過去の死骸――を、愛おしそうに撫でる。


 


「一ヶ月。……随分と遠くまで逃げたと思った?」


 


 慶太は、喉が癒着したように声が出なかった。


 


 彼女は知っていたのだ。慶太が名前を変え、この辺鄙なスーパーの深夜レジに潜伏していたことを。そして、自分が「新しいターゲット(佐藤健司)」を演じれば、お節介な慶太が必ず正義感という名の罠に飛び込んでくることも。


 


 


 


 


 


「……いいか、山伏くん」


 


 


 取調室の回想の中で、富樫刑事が再び慶太の意識に割り込む。


 


 


「心理学には『間欠的強化(Intermittent Reinforcement)』という言葉がある。不定期に与えられる報酬こそが、生物を最も強く依存させる。……彼女が君の前から姿を消し、そして最悪のタイミングで現れる。これは君を『飼い慣らす』ための、完璧な行動デザインなんだよ」


 


 


 富樫は、手元の冷めきったコーヒーカップを机に置き、慶太を憐れむように見つめた。


 


 


「君が彼女を『追っている』と思っているその瞬間、君は彼女の掌の上で、最も忠実なダンスを踊らされているに過ぎないんだ」


 


 


 


 


 


「……ナミが、送ったのか」


 


 慶太は、ひび割れた声でようやく問いかけた。


 


 サキは、三日月のような形で唇を歪め、慶太の頬にそっと手を伸ばした。氷のように冷たい指先。だが、触れられた場所から、あのアパートの熱気が、むせ返るような香水の匂いと共に逆流してくる。


 


「あの子はね、怒ってるよ? 慶太くんが、あんなに綺麗に作った『蜃気楼』を汚して、逃げ出したから。……だから、もっと深い地獄をプレゼントしなきゃねって、二人で相談したの」


 


 サキの指が、慶太のエプロンの下に隠された、本物の名札へと伸びる。


 


「佐藤健司さん。……素敵な奥さんと、可愛い子供がいるんですって。……ねえ、慶太くん。あなたが私を手伝ってくれないなら……あの家族の『窓ガラス』を割るのは、あなただということにしてもいいんだよ?」


 


 慶太の全身から、血の気が引いた。


 


 侵食は、もう始まっていたのだ。


 


 サキは、慶太という「鏡」を使って、佐藤健司という新しい絶望を映し出そうとしている。


 


 慶太は、自分の掌に残る彼女の冷たさを、もはや拒絶することができなかった。


 


 復讐のために彼女を観測するのではない。


 


 彼女という名の濁流に飲み込まれながら、誰かの人生が解体されていく様を、最前列で強制的に鑑賞させられる――それが、慶太に課せられた、新しい「役割」だった。


 


 休憩室の隅で、壊れかけた蛍光灯が、断末魔のような音を立てて明滅していた。


 


 


 


 


 


(つづく)


 


 


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