第11話:脆弱性の回帰(Regressive Vulnerability)

### 第十一話:脆弱性の回帰(Regressive Vulnerability)


 


 


 ピッ。


 


 無機質な電子音が、深夜の「スーパーマーケット・アサヒ」に澱んだ静寂を規則正しく切り裂いていく。


 


 山伏慶太の指先は、冷え切った商品のバーコードを正確に捉え、レジの画面に無意味な数字の羅列を映し出していた。緑色のエプロンを纏い、名札に記された偽名の下で、彼は一脚の精巧な観測機械になりきっていた。何も考えず、何も感じず、ただ目の前の現実を網膜に焼き付けるだけの装置。


 


 だが、その機械の回路に、一筋の猛毒が流れ込む。


 


 レジ待ちの列。そこに立つ「記号」を認めた瞬間、慶太の背筋を、あの日、銀座の路上で感じたものと同じ、逃れられない戦慄が駆け抜けた。


 


 紺色のチェックベスト。白く糊のきいたブラウス。低い位置でまとめられたポニーテール。そして、慶太の悪夢を象徴する、あの明るいピンクのシュシュ。


 


 サキ。


 


 彼女は今、慶太のレジの数人前に並んでいた佐藤健司に、その牙を向けようとしていた。佐藤は高級な腕時計を何度も気にしながら、会計を急ぐエリート特有の焦燥感を漂わせている。その隙に、サキは音もなく入り込んだ。


 


「……あの、すみません。以前、どこかでお会いしませんでしたか?」


 


 震える、鈴を転がすような声。


 


 慶太の耳に届いたその音は、あの日、彼を心中へと誘った招待状と一音たりとも違わなかった。佐藤健司は、眉をひそめてサキを一瞥する。


 


「……いえ、人違いでしょう。私はあなたを知りません」


 


 佐藤の冷淡な拒絶。それは「勝者」が「弱者」を切り捨てる、迅速で効率的な判断だった。だが、サキにとって、拒絶は獲物を誘い込むための最高の撒き餌に過ぎない。


 


「そんなはずありません! 私、あの日……あの日、公園であなたに……!」


 


「いい加減にしてくれ! ひと違いだと言っているだろう!」


 


 佐藤の怒号が、店内のBGMをかき消して響き渡った。


 


 その瞬間、サキの膝から力が抜けた。


 


 彼女は短い吐息を漏らすと、糸の切れた操り人形のように、ゆっくりと床へと崩れ落ちていった。


 


 ドサッ、という鈍い衝撃音。


 


 床に投げ出された彼女の白い腕。その光景を目にした瞬間、慶太の中で眠っていた「何か」が、爆発的な勢いで覚醒した。理性という名の防壁が、ドロドロとした情動の濁流によって押し流されていく。


 


 慶太はレジのカウンターを飛び越えていた。


 


 自分が店員であることも、潜伏している身であることも、すべてが意識の外へと吹き飛んだ。気づけば、彼は佐藤健司を突き飛ばさんばかりの勢いでサキの元へ駆け寄り、その細い肩を抱きかかえていた。


 


「おい! きみ、大丈夫か!? しっかりしろ!」


 


 慶太の手が、サキの身体に触れる。


 


 ――冷たい。


 


 氷のような冷たさ。なのに、掌を通じて伝わってくる彼女の脈動は、驚くほど力強く、慶太の魂を直接揺さぶってくる。サキの頭を支える慶太の指先が、あのピンクのシュシュに触れる。その質感さえもが、慶太を過去という名の深淵へと引きずり戻した。


 


 佐藤健司は、呆然としてその光景を見下ろしていた。


 


「な……なんだ、きみは。店員だろう。何をしている」


 


 佐藤の声はどこか遠く、水底から響いてくるように聞こえた。慶太は佐藤の視線など意に介さず、腕の中のサキを強く、強く抱きしめた。


 


「きみ……サキ、俺だ。俺を見てくれ!」


 


 慶太の口から、漏れてはいけない名前が溢れ出した。


 


 その時。


 


 ぐったりとしていたサキの睫毛が、微かに震えた。


 


 彼女はゆっくりと、慶太を射抜くように瞼を開けた。その瞳の奥には、恐怖も、絶望も、混乱もなかった。


 


 ただ、獲物を捕らえた瞬間の、冷徹な勝利の光だけが宿っていた。


 


「……見つけた」


 


 サキが、慶太にしか聞こえないほどの微かな声で囁いた。


 


 慶太は悟った。


 


 サキがターゲットにしていたのは、佐藤健司ではなかった。


 


 彼女は、自分が放流した「慶太」という獲物が、どのような反応を示すかを、この佐藤という男を使って試していたのだ。自分が再び、彼女という名の「蜃気楼」の中に自ら飛び込んでくることを、彼女は最初から確信していた。


 


「おい、きみ。救急車か? 警察か?」


 


 佐藤健司の、場違いなほど冷静な問いかけが虚空に消える。


 


 慶太は、腕の中のサキが浮かべた、三日月のような残酷な微笑みから目を逸らすことができなかった。


 


 自分を救済者だと思い込んでいた佐藤健司。


 


 自分を復讐者だと思い込もうとした山伏慶太。


 


 二人の男が、一人の女の「虚構の失神」という舞台装置の上で、無様に踊らされている。


 


 慶太は、サキの冷たい指が、自分のエプロンの裾をそっと掴むのを感じた。


 


 アンカリング。


 


 もう、逃げられない。


 


 店の自動ドアが、外の冷気を取り込みながら、不吉な電子音を鳴らして開閉を繰り返していた。


 


 


 


 


 


(つづく)


 


 


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