第10話:解離する座標(Dissociating Coordinates)

### 第十話:解離する座標(Dissociating Coordinates)


 


 


 救済を捨て、泥濘に潜る。


 


 


 警察署の重厚な玄関ドアを押し開けた瞬間、慶太を待ち受けていたのは、世界を白く塗り潰すような冷たい朝霧だった。雨は上がったが、湿り気を帯びた空気は肺の奥まで侵入し、慶太の体温を容赦なく奪い去っていく。


 


 


 二十六年の人生をかけて積み上げてきた、山伏慶太という「市民」としての座標が、今この瞬間、完全に消失した。


 


 


 仕事、恋人、貯金、そして「善人」としての自尊心。それらすべてが、ナミとサキという二人の演出家によって、一夜にして解体(ディスマントリング)されたのだ。警察署を背にする今の慶太は、社会的な保護を拒絶した、ただの「壊れた部品」に過ぎない。


 


 


 慶太は、濡れたアスファルトを叩く自分の足音を聞きながら、脳内に刻まれた一枚の視覚情報を呼び起こした。


 


 


 あのアパート。サキがシャワーを浴びている間に、俺がバッグの中から盗み見たのは、ナミからのメッセージだけではない。ゴミ箱の隅に捨てられていた、一通の公共料金の督促状。


 


 


 そこに記されていた、契約者の名前。


 


 


『カミシロ ツヨシ』


 


 


 富樫刑事が語った、あの「もう一人の犠牲者」。神代毅。


 


 


 サキの名前が偽物なら、アパートの契約者であったその男こそが、この蜃気楼の正体に繋がる唯一の、そして最も深い場所にある「鍵」に違いない。


 


 


 慶太は、駅から離れた寂れたネットカフェへと滑り込んだ。


 


 


 個室の無機質な蛍光灯の下、震える指でキーボードを叩く。


 


 


 ――神代毅。


 


 


 検索結果に並んだのは、数年前の断片的なニュース記事と、凍結されたSNSのアカウントだった。


 


 


『都内IT企業勤務の男性、失踪。事件性の可能性も――』


 


 


 画面に映し出された男の顔写真は、驚くほど今の自分に似ていた。生真面目で、どこにでもいる、少しだけ「お人好し」そうなエリートの貌(かお)。


 


 


 神代毅もまた、かつてナミに見出され、サキという名の猛毒に、その人生を一口ずつ食い尽くされたのだ。慶太の脳内で、認知の整合性が音を立てて整い始める。ナミが「太陽」を演じて男を誘い込み、サキが「影」を操って男を壊す。神代毅が辿った道は、慶太が今まさに歩まされている道の、数手先にある未来そのものだった。


 


 


「……待ってろよ、神代。あんたの絶望を、俺が買い取ってやる」


 


 


 慶太は、残された僅かな現金を握り締め、自分の名前を捨てる準備を始めた。


 


 


 


 


 


 一ヶ月後。


 


 


 山伏慶太の姿は、郊外の「スーパーマーケット・アサヒ」の緑色のエプロンの中にあった。


 


 


 本名を隠し、偽造された身分証で潜り込んだ深夜のアルバイト。レジのバーコードを読み取る単調な動作。それが、今の慶太にとっての唯一の呼吸法だった。何も考えず、何も感じず、ただの無機質な機械として機能すること。それは、ナミたちが作り上げた「蜃気楼」に、自らも「蜃気楼」となって溶け込むための擬態だった。


 


 


 だが、その仮死状態の静寂は、自動ドアが開く音と共に、唐突に終わりを告げた。


 


 


 ――ウィーン。


 


 


 冷たい冬の風と共に、慶太の心臓を直接握りつぶすような「記号」が店内に入り込んできた。


 


 


 紺色のチェックベスト。白く清潔なブラウス。


 


 


 低い位置でまとめられたポニーテールに揺れる、あのピンクのシュシュ。


 


 


(……サキ)


 


 


 レジを打つ慶太の指先が、石のように硬直した。


 


 


 全身の毛穴が開き、あのアパートのむせ返るような石鹸の香りが、幻覚となって鼻腔を貫く。反射的にレジを離れようとした慶太だが、その視線の先に、もう一人の男がいることに気づき、足を止めた。


 


 


 男は、家族のために高級なワインを慎重に選んでいる。


 


 


 佐藤健司。三十八歳。


 


 


 かつての自分よりも遥かに強固な「幸福」の鎧を纏った、その男の背後へと、サキは音もなく忍び寄っていた。


 


 


「……あの、すみません。以前、どこかでお会いしませんでしたか?」


 


 


 慶太の耳に、あの雨の夜と同じ、震えるほど愛らしい声が届く。


 


 


 慶太は悟った。


 


 


 サキが探していたのは、自分ではない。


 


 


 彼女は、慶太という獲物を完食し、あるいは「飽きた」からこそ、次の、より高貴で、より壊し甲斐のある獲物を見つけたのだ。


 


 


 慶太は、レジのカウンターの下で、かつてサキに握らされたあの泥まみれのネックレスの傷跡を、自らの爪で激しくえぐった。


 


 


 痛み。その痛みだけが、自分をかろうじて「人間」の側に繋ぎ止めている。


 


 


 佐藤健司。これからお前が辿る地獄のすべてを、俺は特等席で見届けてやる。


 


 


 慶太の瞳に、暗く、冷徹な炎が宿った。


 


 


 復讐の物語は、ここから「第二幕」へと加速する。


 


 


 ターゲットは移った。


 


 


 だが、その終わりを設計するのは、もはやナミでも、サキでもない。


 


 


 泥の底から這い上がった、この俺だ。


 


 


 


 


 


(つづく)


 


 


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