第9話:名前の桎梏(Shackles of the Name)
### 第九話:名前の桎梏(Shackles of the Name)
「……いない? いないって、どういうことだ。俺は確かに、あのアパートに、あいつと一緒に……!」
慶太は、取調室の冷たい鉄製のテーブルを両拳で叩いた。乾いた音が室内に虚しく響き、指先に走った鈍い痛みが、かろうじて彼を現実の側に繋ぎ止める。
刑事・富樫が突きつけた事実は、降りしきる真冬の雨よりも冷たく、慶太の芯を凍らせた。
「君が逃げ出した一時間後、我々の署員があのアパートへ向かった。だが、そこには何もなかったんだよ、山伏くん。家具も、生活感も、君が嗅いだというあのむせ返るような百合の香水さえも……。最初から誰も住んでいなかったかのように、ただの『空室』がそこにあるだけだった」
富樫は、慶太の絶望を淡々と観察するように眺めながら、手元の資料を捲った。
「戸籍、住民票、納税記録。……あらゆる公的データベースを照合したが、『サキ』という名の二十代後半の女性は、君の周辺には存在しない。勤務先だと言っていた事務員としての記録も、すべては幻影(蜃気楼)だ」
「…………あ」
その瞬間、慶太の脳内で、バラバラに散らばっていた思考の断片が、最悪の形で結合した。
サキ。サ・キ。
喉の奥でその名を呟こうとしたとき、富樫が皮肉げに口にした「サギ(詐欺)」という音が、重低音のリフレインとなって慶太の鼓膜を抉る。
「……サキ、サギ。……ちくしょうッ!」
慶太は顔を覆った。
彼女は最初から、自分の正体をその名に刻んでいたのだ。俺を嘲笑うように。俺が彼女の名を愛おしく、あるいは苦しげに呼ぶたびに、俺自身に「俺は騙されている」と宣言させていたのだ。
ナミが俺を「譲渡」した相手。名前も、戸籍も、実体さえも持たない、ただの悪意の器。
「いいか、山伏くん。これがプロのやり方だ。言語的アンカリング(Linguistic Anchoring)――君の脳は、もはや『サキ』という音を聞くだけで、無意識に敗北感と混乱を呼び起こすように設計(デザイン)されてしまったんだよ。君が彼女を思い出そうとするたびに、その呪縛は強くなる」
富樫は冷徹に言い放ち、手元の資料を閉じた。
「君はもう、彼女たちにとっては『完食』された後の残飯だ。これ以上深追いしても、君の精神が崩壊(メルトダウン)するだけだぞ。警察が用意するシェルターに入れ。それが唯一の生き残る道だ」
「……黙れよ」
慶太は、低く、押し殺した声で言った。
顔を上げた彼の瞳からは、先ほどまでの怯えや困惑が消えていた。代わりに宿っていたのは、ドロドロとした黒い憎悪と、自分を貶めた「蜃気楼」の正体を暴こうとする、狂気にも似た執念だった。
「覚えてろよ……。サキ、ナミ……。お前たちが俺を『実体のない物語』の中に閉じ込めたっていうなら、俺はその物語ごと、お前たちを現実(地獄)に引きずり下ろしてやる」
慶太は立ち上がり、取調室の重い鉄のドアを自ら開けた。
警察の「保護」などいらない。公的なデータにないなら、自分の足で、自分の血を流して探すまでだ。彼女たちが俺を「壊れた男」に仕立て上げたのなら、その壊れた部品を使って、今度は俺が彼女たちの完璧な台本を破壊してやる。
慶太は、かつてナミに贈るはずだった――今はサキのポーチの中に眠っているであろう――あの「泥まみれのネックレス」の重みを、手のひらに生々しく思い出していた。あの金属の傷跡が、今も掌で疼いている。
取調室の外に出ると、廊下の蛍光灯が、死体安置所のような無機質な光を放っていた。
富樫は慶太の背中に向かって、最後の一言を投げた。
「山伏くん。……鏡の中の自分を、見失うなよ。今の君の顔は、あのアパートで笑っていた彼女たちに、ひどく似てきている」
慶太はその言葉を無視し、雨の上がった夜の街へと踏み出した。
復讐の第一幕は、ここから始まる。
彼が最初に向かったのは、ナミとサキが繋がっていることを証明する、唯一の「生きた証拠」――サキのスマホに履歴を残していた、あの『神代毅』という男の行方だった。
(つづく)
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