第8話:破砕する肖像(Shattering Portrait)
### 第八話:破砕する肖像(Shattering Portrait)
「……いいか、山伏くん。鏡というものは、光を反射するだけのものではない」
取調室の隅で、富樫が短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
じ、という不快な音と共に、最後の煙が消えた。彼は慶太の前に、数枚の写真を無造作に放り出した。そこには、慶太がかつて「日常」と呼んでいた世界の残骸――歪んだ電気メーター、色褪せた社章、そして笑顔のまま凍りついたナミの顔が並んでいた。
「鏡は、そこに映る者の『正気』を少しずつ奪い取り、代わりに虚像を刷り込んでいく。……君があのアパートで見たものは、ナミでもサキでもない。自分自身の心が、音を立てて砕け散る瞬間だったんだ」
富樫の低い声が、慶太の脳髄に鋭い錐を打ち込むように響く。
砕ける。
その言葉の通り、あの夜、慶太の中で積み上げられてきた二十六年の歳月は、あまりに無惨に粉砕されたのだ。
密閉されたサキの部屋。
ナミの口から放たれた『等価交換』という冷徹なロジック。慶太は、自分が人間として扱われているのではなく、単なる『数値』として処理されているという事実に、全身が沸騰するような嫌悪感を覚えた。
「アタマが、おかしい……」
慶太の喉から、掠れた悲鳴が漏れた。
ボタニカル柄のブラウスを艶やかに揺らし、優雅にシャンパンを啜るナミ。そして、その足元で忠実な猟犬のように慶太の脚に絡みつくサキ。
二人の女の境界線が溶け、一つの巨大な「捕食者」となって自分を取り囲んでいる。彼女たちの瞳に映る自分は、もはや山伏慶太という人格を持った男ではなく、ただの『処理待ちの在庫品』に過ぎなかった。
「冗談じゃない! そんな……そんなことが、許されると思ってるのか!」
慶太は叫び、全霊の力で自分に縋りつくサキを突き飛ばした。
バスローブがはだけ、サキの白い身体がフローリングを滑り、壁に鈍い音を立てて打ち付けられる。慶太は、その衝撃にさえも快楽を感じる自分に、本能的な恐怖を覚えた。
床に散らばったあの泥まみれのネックレス。その破片が、慶太の掌を鋭く切り裂いた。
「慶太くん、どこへ行くの? ……あなたの居場所は、もうここしかないのよ」
ナミの声は、驚くほど冷静で、そして慈悲深かった。
その声が、何よりも恐ろしかった。慶太は振り返ることもできず、玄関へと突進した。背後でサキが、幼子のような泣き声を上げる。だが、それは慶太を繋ぎ止めるための、精巧に設計された『偽りの叫び』にしか聞こえない。
ガチャン、という金属音が鳴り、ドアを蹴破るようにして外へと飛び出した。
外廊下に吹き込んできたのは、真冬の深夜の、殺意にも似た冷気。
激しい雨が慶太の顔を打ち据え、ナミの缠っていたあの重苦しい香水の匂いを、強引に剥ぎ取っていく。慶太はエレベーターも待たず、階段を転がるように駆け下りた。
革靴が泥水を跳ね上げ、排水溝へ流れ込む雨の濁流が、慶太の足元を攫おうとする。
どこへ行く?
自分のスマホは、あの部屋に置いたままだ。財布も、コートも、すべてをあそこに捨ててきた。だが、身一つになった今の自分の方が、皮肉にも『生きている』という実感を、激しい心拍と共に噛み締めていた。
(警察だ。……とりあえず、警察へ行かなきゃ)
雨に煙る深夜の銀座。
遠くで青白く明滅する交番のパトランプが、慶太にとっての唯一の救済の灯火に見えた。彼はなりふり構わず、その光に向かって走り続けた。
だが、今の彼にはまだ分からなかった。
警察という『現実』の場所に逃げ込んだとしても、彼が背負った『蜃気楼』が消えることはない。それどころか、その蜃気楼は、法の内側へと巧みに入り込み、彼をさらなる絶望の迷宮へと誘い込む準備を整えていることを。
「……そうか。それで、君はここに辿り着いたわけだ」
富樫は、慶太の証言を遮るように時計を見た。
「山伏くん。はっきりと言ってやる。……君は騙されたんだ」
慶太は、ひび割れた声で訊き返した。
「……どういう、ことですか」
「君が『サキ』と呼んでいるその女。……データ上、この世のどこにも存在しない」
富樫が机の上に叩きつけた一通の報告書。
「戸籍も、住所も、君が連れ込まれたあのアパートの契約者情報も……何一つとして、彼女という存在を証明するものがない。……君が見ていたのは、実体のない幽霊、あるいは……」
富樫は慶太を憐れむように、その顔を覗き込んだ。
「……精巧に仕組まれた、『詐欺(サギ)』だよ」
慶太の脳内で、バラバラだった思考の断片が、最悪の形で結びついた。
サキ。サ・ギ。
名前さえもが、俺を嘲笑うための記号だったのか。
取調室の冷たい静寂の中で、慶太は自分が、底なしの泥沼のさらに奥へと、自らの足で歩み寄っていたことを、ようやく理解した。
(つづく)
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