第7話:感情の等価交換(Trade-off)

### 第七話:感情の等価交換(Trade-off)


 


 


「……いいか、山伏くん。この世のあらゆる事象には、必ず対価が存在する」


 


 


 取調室の、不快なほどに乾いた静寂。


 


 


 富樫刑事は、指先で卓上の録音機を弄びながら、低い声で言葉を紡いだ。窓の外はいつの間にか雨が上がり、代わりに不気味なほど冷たい月光が、鉄格子の隙間から無機質な縞模様を描き出している。


 


 


「君のいた場所は、愛や情といった不確かなものではなく、もっと冷徹な『帳簿』の上に成り立っていたんだ。貸しと借り。利益と損失。ナミという女にとって、人間とは交換可能な資産(アセット)に過ぎなかったんだよ」


 


 


 富樫の放った言葉が、慶太の脳髄に鉛のような重みとなって沈み込む。


 


 


 資産。


 


 


 その響きが、あの密室での、ナミの冷酷なまでに美しい微笑を鮮明に呼び覚ました。


 


 


 


 


 


 慶太の頭上から降り注いだシャンパンが、冷たい飛沫となって床に散る。


 


 


 黄金色の雫が、サキの白い肌を伝い、慶太の汚れたワイシャツの襟元へと吸い込まれていく。その甘ったるいアルコールの匂いが、密室の熱気と混ざり合い、慶太の嘔吐感を執拗に刺激した。


 


 


 ナミは、ソファに座り込む慶太を慈しむように見つめながら、その細い指先でサキの顎を乱暴に持ち上げた。


 


 


「驚いた? ――でもね、これにはちゃんとした『理由』があるのよ」


 


 


 ナミの声は、夜の風のように穏やかで、しかし刃のように鋭利だった。


 


 


「サキはね、ずっと前からあなたのことが大好きだったの。……いいえ、大好きなんて言葉じゃ足りないわね。これはもっと、致死的な固執(フィクセーション)だわ。私がどんなに新しい獲物を与えても、あの子の瞳には、いつだって私の背後にいる『あなた』が映っていた」


 


 


 ナミはくすくすと、喉の奥で小刻みに笑った。サキはナミの指に顎を委ねたまま、恍惚とした表情で慶太を見つめている。その歪んだ忠誠心と執着が、一つの怪物のように慶太を追い詰める。


 


 


「いくら私が言い聞かせても無駄だった。あの子の欲望は、管理できないほどに肥大してしまったの。……だから私は決めたのよ。そんなに欲しいなら、勝手にすればって。あの子に、あなたを『譲渡』することにしたのよ」


 


 


 譲渡。


 


 


 その言葉が、慶太の自尊心を完膚なきまでに叩き潰した。


 


 


 自分は愛されていたのではない。


 


 


 ナミという支配者が、自分の忠実な猟犬であるサキの機嫌を損ねないための、ただの『宥め物(ペイメント)』に過ぎなかったのだ。


 


 


「でもね、ただあげるだけじゃ面白くないでしょう? 私だって、むかついていたのよ。自分の所有物を、こんな壊れた女に汚されるのは。……だから、お返しにサキの『大切なもの』も奪ってあげたわ」


 


 


 ナミはバッグから一枚の写真を取り出し、慶太の目の前に放り出した。


 


 


 そこには、数時間前、銀座のホテルの前でナミと唇を重ねていた、あの男の姿があった。


 


 


「あの子……サキには、ずっと一緒に暮らしていた彼氏がいたの。佐伯くんっていう、若くて、何も知らない、清潔な男。サキは彼を隠れ蓑にして、私に牙を剥こうとしていた。……だから私、あの子の拠り所(アンカー)を根こそぎ奪って、今日一日デートしてきたのよ。……メリークリスマス、サキ。これで私たち、お互い様ね」


 


 


 慶太は、胃の底からせり上がる熱い塊を必死に抑えていた。


 


 


 ナミは、サキの彼氏を奪うことで、サキを孤立させた。そしてその代償として、慶太をサキに差し出した。


 


 


 愛も、嫉妬も、裏切りも。


 


 


 すべては彼女たちが作り上げた、完璧な**等価交換の戯曲**。


 


 


 自分はナミの恋人ですらなく、サキの想い人ですらなく、彼女たちの歪んだ絆を繋ぎ止めるための、ただの計量可能なパーツに過ぎなかった。


 


 


「慶太くん、そんな顔しないで。……これはあなたにとって、唯一の幸福なのよ」


 


 


 ナミが慶太の頬にそっと触れた。


 


 


 その掌は、驚くほど冷徹で、もはや人間的な温もりを微塵も宿していなかった。


 


 


「光の中で私に飼われるか、闇の中でサキに食べられるか。……あなたはもう、選ぶことさえできないのよ」


 


 


 慶太は、自分の掌に残るサキの冷たい感触と、ナミの纏うボタニカル柄の香りに包まれ、自分がすでに「人間」としての定義を剥奪されたことを悟った。


 


 


 二人のファム・ファタールの視線が、慶太という名の『資産』の上で、静かに交差する。


 


 


 取調室の時計の針が、重苦しく時を刻む。


 


 


 富樫の言った通りだ。


 


 


 慶太は、自分がすでに、出口のない蜃気楼の最深部で、永遠の債務者として囚われていることを、ようやく理解した。


 


 


 


 


 


(つづく)


 


 


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