第6話:双生の捕食者(Twin Predators)
### 第六話:双生の捕食者(Twin Predators)
「……なあ、山伏くん。君は、蟻地獄というものを知っているか?」
取調室の静寂を、富樫の低く掠れた声が塗りつぶす。
彼は新しい煙草に火を点け、その先端が赤く爆ぜるのを、慈しむような、あるいは冷酷な死神のような目で見つめていた。吐き出された煙が、部屋の隅に置かれた換気扇に吸い込まれていく。その規則的な回転音が、慶太の脳髄に刻まれたあの夜の秒針と重なった。
「一度滑り落ちれば、足掻くほどに砂は崩れ、中心の穴へと引きずり込まれる。蟻は必死に光を求めて上を目指すが、底に潜む主(ぬし)は、獲物が疲れ果てるのをただ静かに待っているんだ。……君が落ちたのは、そういう場所だったんだよ」
富樫の言葉が、慶太の心臓を冷たく握りつぶした。
――ピンポーン。
鋭く、無機質な電子音が、サキの部屋の密閉された空気を切り裂いた。
慶太の肩が、びくりと跳ねる。
サキは、慶太の首筋に這わせていた指をゆっくりと離すと、まるで待ちわびていた知らせが届いたかのように、三日月のような笑みを浮かべた。彼女はバスローブの襟元を無造作に整え、はだけた胸元から湯気の余熱を漂わせながら、玄関へと歩き出す。
フローリングを叩く、素足のぺたぺたという音。
慶太は、ソファの上で凍りついたまま、その背中を見守ることしかできなかった。外の雨音は、いつの間にか、地の底から響くような重低音へと変わっている。
ガチャリ、という金属音が響き、ドアが開かれた。
吹き込んできたのは、冬の深夜の、殺意にも似た冷気。
浴室から漏れ出していた湿った熱気が、その冷気に触れて白く霧散していく。そして、その霧を切り裂いて、一人の女が音もなく室内へと足を踏み入れた。
「――メリークリスマス。……少し、お邪魔が早すぎたかしら?」
慶太は、呼吸の仕方を忘れた。
そこに立っていたのは、数時間前、銀座のホテルの前で自分を地獄に突き落とした張本人。
一滴の雨にも汚れていない、完璧なボタニカル柄のブラウス。ベージュのワイドパンツが、凛とした彼女の脚のラインを美しく際立たせている。
ナミだった。
彼女は、濡れた髪を拭きながら出迎えたサキの肩を、親しげに、そしてあまりに自然に抱いた。二人の女が、入り口の影で重なり合う。その光景は、鏡合わせの魔女が、獲物を前にして勝利の抱擁を交わしているかのように見えた。
「慶太くん、酷い顔。……サキに、たっぷり可愛がってもらったみたいね」
ナミは、リビングに座り込む慶太に歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
かつて慶太が世界で一番愛し、守りたいと願ったその瞳には、今や慈愛の欠片もない。あるのは、新しく手に入れた玩具の耐久性を試すような、冷酷な好奇心だけだ。
「……なんで。なんで、お前がここに……」
掠れた慶太の声に、ナミはくすくすと喉の奥で笑った。
「驚いた? ――私とサキはね、ずっと前からの『親友』なのよ。慶太くんが私のものだった時間よりも、ずっと、ずっと長くね」
ナミは、サキが慶太の手に握らせた、あの泥まみれのネックレスを、指先で軽蔑するように弾いた。
「この子、ずっと欲しがってたのよ。私の『お気に入り』を。……だから、あげることにしたの。あなたのその、清潔すぎて退屈な愛を、サキのこの泥の中に、丁寧に放り込んであげたの」
サキが、ナミの背後から慶太を抱きしめた。
バスローブ越しに伝わるサキの冷たい肌。そして、目の前で完璧な笑みを浮かべるナミ。
二人のファム・ファタールの香りが混ざり合い、慶太の脳内を完全に飽和させる。
自分は人間として愛されていたのではない。
ナミという支配者が、サキという忠実な猟犬に与えるための、ただの『配給品』に過ぎなかったのだ。この三年間の思い出も、捧げてきた情熱も、すべては彼女たちが今夜、この薄暗いアパートで祝杯を挙げるための、ただの材料だった。
「慶太くん、安心して。……ナミはもう、あなたのことなんて見ていない。……あなたは今日から、私の檻の中で、私のことだけを考えて生きていくのよ」
サキの囁きが、鼓膜に直接こびりつく。
ナミは、テーブルの上に置かれたシャンパンに手を伸ばし、それを慶太の頭上から、ゆっくりと注ぎ始めた。
黄金色の飛沫が、慶太の濡れた髪を、泥まみれのワイシャツを汚していく。
「――譲渡成立ね。メリークリスマス、二人とも」
ナミの乾いた笑い声が、激しい雨音に溶け、慶太の意識は底なしの闇へと沈んでいった。
(つづく)
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