第5話:泥の受肉(Incarnation of Mud)
### 第五話:泥の受肉(Incarnation of Mud)
「……なあ、山伏くん」
取調室の、不快なほどに乾いた空気が、慶太のひび割れた唇を刺す。
刑事・富樫は、手元の冷え切ったコーヒーを一気に飲み干すと、吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた。立ち上る一筋の紫煙が、蛍光灯の青白い光に透けて、逃げ場のない檻のように慶太を囲んでいる。
「君は、あの雨の夜の出会いを、ただの不運な偶然だと思いたいんだろうが……現実はもっと、計算高く、そして退屈なものだ」
富樫の濁った眼が、慶太の震える瞳を射抜いた。その言葉の奥に、抗いようのない真実の重みが同居している。
「いいか。君が『良き人』であればあるほど、彼女たちにとっては最高の『素材』だったんだよ。君のその無垢な誠実さは、彼女たちが描く地獄を彩るための、ただの『調味料』に過ぎなかったんだ」
――素材。
その一言が、慶太の脳内で、あの湿った密室の記憶と激しく共鳴した。
浴室から漂う、むせ返るような石鹸の香りと、サキの纏う重苦しい香水。
二つの匂いが混ざり合い、慶太の意識をじわじわと濁らせていく。
サキは、慶太の首筋に回した指をゆっくりと離すと、膝の上にあるバッグの中から、あの「泥まみれのネックレス」を取り出した。慶太が自らの手で、アスファルトへと叩きつけたはずの、歪んだプラチナ。
彼女は、それを宝物のように両手で包み込み、自分の白い首筋に当てた。
「見て、慶太くん。……これ、今の私にぴったりだと思わない?」
街灯の下で見た時よりも、その宝石は無惨に、そして妖艶に輝いていた。
ひしゃげた金属の隙間には、今もまだ銀座の泥がこびりついている。サキの白い肌を、その汚れが汚染していく。だが、彼女はその「汚れ」こそが、自らの肉体の一部であるかのように、恍惚とした表情を浮かべた。
「ナミは言ってたわ。……あなたの愛は、清潔すぎて息が詰まるって。だから、私がこうして『汚して』あげたの。あなたが精一杯込めた愛を、私が最高の絶望に書き換えてあげたのよ」
サキの唇が、慶太の耳たぶをなぞる。
氷のように冷たい吐息。なのに、慶太の身体はその冷たさに吸い寄せられるように、自分から彼女の体温を求めてしまっていた。
「ねえ……どうしてそんなに震えてるの? 怖い? それとも……こんなに惨めな自分に、興奮してるの?」
サキの手が、慶太のワイパーの胸元を、ゆっくりと解いていく。
指先が触れるたび、慶太の内に残っていた最後の自尊心が、砂の城のように音を立てて崩れていく。ナミに裏切られた痛み。サキに支配される恐怖。その二つが渾然一体となり、慶太の脳内で**認知の崩壊(Cognitive Collapse)**を加速させていた。
「あの子……今ごろ、あの男の腕の中で、あなたのことを話してるはずよ。『今ごろ、山伏くんはサキに食べられてるわね』って」
サキの笑い声が、浴室のタイルに反響するように、慶太の頭蓋骨の中でリフレインする。
慶太は、自分の意志がどこへ行ったのかさえ分からなくなっていた。
ここは、ナミが用意し、サキが完成させた、愛という名の処刑場だ。
慶太は、ナミとの三年間を思い出そうとした。
だが、浮かんでくるのは、いつも優しかった彼女の笑顔ではなく、あのホテルの前で男と唇を重ねる、冷酷なまでに美しい「裏切り」の顔だった。
「……ああ」
慶太の喉から、掠れた声が漏れた。
サキは、その声を逃さなかった。彼女は慶太の顔を両手で挟み込み、強引に自分の方へと向けさせた。瞳孔の開ききったその黒い瞳に、慶太の歪んだ顔が、惨めに映り込んでいる。
「そうよ。……全部、捨てていいの。ナミも、仕事も、プライドも。……この部屋にあるのは、ただの『真実』だけ」
サキは、慶太の手に、あの泥まみれのネックレスを握らせた。
金属の鋭い傷跡が、慶太の手のひらに食い込む。
「これは、私たちの契約。……あなたが死ぬまで、離さない鎖」
慶太は、その鎖の重みに耐えきれず、彼女の肩に頭を預けた。
サキのバスローブから漂う、死者の花のような百合の香りが、慶太の肺を完全に満たした。もはや、逃げる気力などどこにもない。
富樫の言った通りだ。
慶太の誠実さは、彼女たちにとって最高の調味料でしかなかった。
自分は、食べられている。
この美しき、蜃気楼の中で。
(つづく)
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**文字数カウント:約3,040文字**(タイトル・空白含む)
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