第4話:芳香の檻(Fragrant Cage)

### 第四話:芳香の檻(Fragrant Cage)


 


 


 浴室から溢れ出した白く濃い湯気が、リビングの冷え切った空気をじわじわと侵食していく。


 


 湿った熱気が、慶太の首筋にまとわりつく。石鹸の、あまりに清潔で、それゆえに暴力的なまでの芳香。それは、この世のあらゆる罪を強引に隠蔽しようとする、漂白剤の匂いに似ていた。


 


 バスタオルを頭に巻き、はだけたバスローブの裾を揺らしながら、サキが戻ってきた。


 


 彼女の歩みに合わせ、フローリングに点々と湿った足跡が刻まれる。慶太は、その足跡が自分を追い詰める死神の刻印であるかのように感じ、視線を逸らすことができなかった。


 


 慶太の心臓は、喉のすぐ裏側で、壊れた時計のように不規則な脈を刻んでいる。


 


 テーブルの上の、あの水色のバッグ。


 


 そこに表示されていた『佐伯ナミ』という四文字の名前が、網膜の裏側で、熱を持った焼印のように疼いている。


 


 触れていない。見ていない。


 


 自分に言い聞かせるように、慶太は膝の上で固く拳を握りしめた。だが、震えを止めることはできない。爪が掌に食い込み、微かな痛みが走る。その痛みだけが、かろうじて彼を現実の側に繋ぎ止めていた。


 


「……慶太くん、喉、乾いてない?」


 


 サキの声は、驚くほど穏やかだった。


 


 彼女は慶太のすぐ横に腰を下ろした。バスローブから覗く、湯気で上気した鎖骨。そこから漂う熱気が、慶太の肌をじりじりと焦がす。彼女は、テーブルの上のバッグには目もくれず、ただ慶太の横顔を、深淵のような黒い瞳で見つめていた。


 


「冷たいお水、持ってくるね」


 


 彼女が立ち上がろうとした瞬間、バスローブの袖が慶太の腕に触れた。


 


 ――冷たい。


 


 シャワーを浴びた直後のはずなのに、彼女の肌は氷のように冷え切っていた。その異常な温度差に、慶太の全身に鳥肌が立つ。


 


 サキはキッチンへ向かい、冷蔵庫から硝子のピッチャーを取り出した。コップに注がれる水の音が、この静寂の中で、あまりに生々しく、鋭く響く。


 


 彼女が戻り、慶太の前のテーブルにコップを置いた。


 


「はい、どうぞ。……ゆっくり飲んで。落ち着くから」


 


 落ち着く?


 


 慶太は、喉を鳴らして水を飲み干した。氷が硝子に当たる、カラン、という高い音。冷たい水が食道を通り、震える内臓を冷やしていく。だが、胃の奥に溜まったあのドロドロとした嘔吐感は、消えるどころか、さらに濃度を増していくようだった。


 


「ねえ、慶太くん」


 


 サキが、慶太の耳元に顔を寄せた。


 


 濡れた前髪が、慶太の頬をなでる。湿った、まとわりつくような感触。


 


「さっき……スマホ、鳴らなかった?」


 


 慶太の手から、硝子のコップが滑り落ちそうになった。


 


「……いや。気づかなかった」


 


 嘘だ。


 


 自分の声が、あまりに虚脱して聞こえる。


 


 サキは、慶太のその反応を愉しむように、くすくすと喉の奥で笑った。


 


「そう。……なら、いいんだけど」


 


 彼女はゆっくりと手を伸ばし、テーブルの上のバッグを、まるで壊れ物を扱うような手つきで自分の膝の上に乗せた。


 


 ファスナーを開ける、ジリジリという金属音。


 


 その音が、慶太の鼓膜を直接削り取る。サキは中からスマートフォンを取り出すと、慣れた手つきで画面をスワイプした。青白い光が、彼女の無表情な顔を底から照らし出し、怪物のような陰影を刻む。


 


「……ナミからだ」


 


 彼女の口から、その名前が放たれた。


 


 慶太は、全身を縛り上げられたような錯覚に陥った。逃げなければならない。今すぐ、この女を突き飛ばして、あの錆びたドアを開け、雨の街へと飛び出さなければならない。だが、足が動かない。まるで、靴の底がこのアパートの床に縫い付けられているかのように。


 


「ナミ。私の、たった一人の……親友」


 


 サキはスマートフォンを慶太の目の前に差し出した。


 


「慶太くん。……あなた、この子のこと、知ってるよね?」


 


 画面の中で微笑んでいるのは、ナミだった。


 


 数時間前、銀座の街角で、自分を裏切り、他人の腕に抱かれていたあの女。そのナミが、サキの肩を抱き、二人でピースサインを向けている。背景は、どこかのリゾート地だろうか。突き抜けるような青空と、不気味なほど鮮やかな花々。


 


 その「幸福」の断片が、慶太の内に残っていた最後の正気を粉々に砕いた。


 


「……なんで。なんで、お前が」


 


「あの子、ずっと心配してたよ。……慶太くんのこと。あなたが、あまりにお利口さんで、あまりに退屈だから。……このままじゃ、あなたがかわいそうだねって、二人で話してたの」


 


 サキの言葉は、慶太の胸元に突き立てられた、研ぎ澄まされたナイフだった。


 


「だから……私に、あなたを『譲って』くれたの。……メリークリスマス、慶太くん。あなたは今日から、私の『おもちゃ』なのよ」


 


 譲った? おもちゃ?


 


 言葉の意味が、脳に届かない。慶太は、狂ったように頭を振った。自分が信じていた三年間の愛。結婚を前提にした誓い。それらすべてが、ナミにとっては「不要になった在庫品」の処分に過ぎなかったというのか。そして、その処分先として選ばれたのが、目の前の、この死の匂いのする女だというのか。


 


「……ふざけるな」


 


 慶太は、立ち上がろうとした。


 


 だが、サキの手が、素早く慶太の首筋を捉えた。


 


 細い、女の指。なのに、それは逃れられない鋼の鎖のように慶太を固定した。彼女の顔が、さらに近づく。瞳孔が開ききった黒い瞳が、慶太の恐怖を貪り食うように見つめていた。


 


「行かないで。……ナミが言った通り、あなたは本当に……絶望している時が一番、色っぽい」


 


 彼女の唇が、慶太の耳元に触れた。


 


「あの子に捨てられたこと、私が忘れさせてあげる。……泥まみれのネックレスを拾ったのは、私。あなたを、この『蜃気楼』の中に招いたのも、私。……ねえ、慶太くん。私と一緒に、あの子をがっかりさせてあげない?」


 


 サキの指先が、慶太の喉仏をそっとなぞる。雨の音は、もう聞こえない。ただ、彼女の重苦しい呼吸と、浴室から流れ込み続ける白い湯気だけが、慶太の世界を塗りつぶしていく。


 


 慶太は、自分の意志が、ゆっくりと、しかし確実に溶け落ちていくのを感じていた。


 


 ここは檻だ。芳香の立ち込める、美しき、地獄の檻。


 


 慶太は、その檻の隅で、ただ震えることしかできなかった。


 


 


 


 


 


(つづく)


 


 


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