第3話:噤む液晶(Silencing the LCD)

### 第3話:噤む液晶(Silencing the LCD)


 


 


 玄関の扉が閉まった瞬間、背後でカチリと錠の回る音が響いた。


 


 それは単なる防犯のための動作ではなく、外界との繋がりを完全に断絶し、慶太という獲物を逃れられない「檻」へと閉じ込める儀式の完了報告のように聞こえた。


 


 室内の空気は、外の雨の冷気とは対照的に、不気味なほどに重く、ぬるい。


 


 そして、あの百合の芳香をさらに濃縮したような、鼻の奥を痺れさせる香水の匂いが充満している。それは、甘美な安らぎを装いながら、吸い込む者の神経をじわじわと麻痺させる毒薬のようだった。


 


 慶太は、湿り気を帯びたコートを脱ぐこともできず、薄暗いリビングの入り口に立ち尽くしていた。


 


 部屋は、驚くほど無機質だった。


 


 一人暮らしの女性らしい生活感——例えば、脱ぎ散らかした靴や、読みかけの雑誌、飲みかけのペットボトルといった「日常の欠片」が一つも見当たらない。


 


 あるのは、必要最小限の家具と、モデルルームのように整えられた、血の通わない静寂だけだ。


 


 その異様な清潔さが、慶太の内に潜む警戒心に冷たい楔を打ち込んでいく。ここは誰かが「生活」する場所ではなく、誰かを「処理」するための実験室ではないのか。


 


「慶太くん、こっち向いちゃダメだよ?」


 


 背後から、衣擦れの音が聞こえた。


 


 振り返らなくても分かった。彼女が、雨に濡れた事務制服を脱ぎ捨てているのだ。


 


 湿った布がフローリングに落ちる、ベチャリという不快な音。慶太の脳裏には、彼女の白い肌が、この無機質な部屋の光を吸い込んで青白く発光する様が、見てもいないのに鮮明に浮かび上がった。


 


 それは、性的な誘惑というよりも、獲物の前で脱皮を繰り返す爬虫類のような、生理的な嫌悪感を伴う美しさだった。


 


「早くシャワー浴びないと、風邪ひいちゃう。……待っててね」


 


 バスローブを羽織る気配がし、彼女は慶太の横をすり抜けて浴室へと向かった。


 


 すれ違いざまに立ち上った、彼女の体温と混じり合った濃密な残り香。慶太の喉が、熱い鉄を飲み込んだ時のように不自然に引き攣る。


 


 彼女が小走りに浴室へ消え、すぐにザーッという激しい水音が鳴り響き始めた。その規則的な振動が、部屋の静寂をさらに深いものへと変質させていく。


 


 一人、リビングに残された慶太は、ようやく肺に溜まっていた濁った空気を吐き出した。


 


 足元のマットが、自分の靴から滴る雨水を吸い込んで黒く染まっていく。


 


 一時間前まで、自分はナミとの幸福な未来を信じ、プラチナの輝きを手にしていたはずだった。それが今、どうしてこんな名前も知らない女の、死の匂いがする部屋にいるのか。


 


 慶太の精神は、すでに認知の崩壊(Cognitive Collapse)の一歩手前にあった。ナミの裏切りという巨大なストレスが、彼の脳の防壁を焼き切り、代わりに入り込んできたサキという名の「毒」が、神経細胞の一つ一つに浸透している。


 


 ふと、視線がテーブルの上に止まった。


 


 彼女が、先ほどまで持っていた水色のポーチ型のバッグ。それが、無造作に放り出されている。


 


 その時だった。


 


 ――ブー、ブー、ブー。


 


 低い、地響きのような振動音が、静寂な部屋に波紋を描いた。


 


 慶太は反射的に自分のポケットを探ったが、彼のスマートフォンは沈黙したままだ。振動の主は、テーブルの上のバッグの中にある端末だった。


 


 見るつもりはなかった。他人のプライバシーを暴くような真似は、慶太の倫理観が許さないはずだった。


 


 だが、今の彼にとって、その振動音は自分の運命を嘲笑う警告音のように聞こえたのだ。


 


 慶太は吸い寄せられるように、テーブルへ歩み寄った。


 


 バッグのファスナーの隙間から、青白いバックライトの光が漏れている。シャワーの音は続いている。彼は震える指先を伸ばし、バッグの縁を少しだけ広げた。


 


 液晶画面に浮かび上がっていたのは、一通の新着メッセージと、その発信者の名前だった。


 


『佐伯ナミ』


 


 その四文字を目にした瞬間、慶太の世界から色彩が消えた。


 


 ナミ。佐伯ナミ。


 


 一文字の狂いもない。慶太が三年間、愛し続け、結婚を誓い、そして数十分前に別の男の腕の中にいるのを目撃した、あの恋人のフルネームだ。


 


 ――なぜ。


 


 思考が停止し、手足の先から急速に体温が失われていく。


 


 ナミ。慶太を地獄へ突き落とした当事者が、なぜ今、慶太を拾い上げたこの女のスマートフォンにメッセージを送ってくるのか。


 


 慶太は、背徳感に苛まれながらも、プレビューに表示されたメッセージの内容を読み取った。


 


『――もう会えた? 山伏くん、どんな顔してた?』


 


 内臓を直接掴み上げられたような、凄まじい嘔吐感が慶太を襲った。


 


 山伏くん。


 


 ナミが、付き合い始めたばかりの頃に、冗談めかして俺を呼んでいた呼び方。


 


 「どんな顔してた?」。


 


 その言葉の裏側には、慶太が絶望し、泥まみれになり、無様に泣き叫ぶ様を、安全な特等席から眺めている二人の女の、歪んだ笑顔が透けて見えた。


 


 偶然の出会いではなかったのだ。


 


 あの雨も、あの場所での目撃も、そしてサキが現れたタイミングさえも。すべては、佐伯ナミという演出家が書き上げ、サキという共犯者が演じ切った、一編の残酷な戯曲(スクリプト)に過ぎなかった。


 


 慶太は、自分が「愛されていた」のではなく、「飼育されていた」のだと悟った。


 


 この三年間、ナミの手のひらの上で転がされ、最後にはサキという名の「新しい檻」へと、丁寧に譲渡(ギフト)されたのだ。


 


「……触ってない。俺は、何も見てない……」


 


 慶太は壊れたレコーダーのように呟きながら、慌ててバッグから手を離した。指先が激しく震え、膝がガクガクと笑う。


 


 今すぐここから逃げ出さなければならない。この部屋は「安全な場所」などではない。ここは、慶太の自尊心を解体し、精神を家畜のように去勢するための、精神的外科室なのだ。


 


 だが、扉へ向かおうとしたその時、浴室の音が止まった。


 


 静寂。耳を劈くような、暴力的なまでの静寂。


 


 バタン、という乾いた音が響き、浴室の扉が開いた。


 


 頭にバスタオルを巻き、はだけたバスローブの裾を揺らしながら、サキが戻ってきた。湯気を纏った彼女の肌は火照っているが、その瞳だけは、慶太の心臓を射抜くほどに冷たく、澄んでいた。


 


 サキは、テーブルの上のバッグを一瞥した。


 


 それから、慶太の強張った顔へと視線を移す。


 


「……慶太くん、顔色が悪いよ? まるで、見ちゃいけない幽霊でも見たみたい」


 


 彼女はゆっくりと、慶太の方へ歩み寄った。


 


 フローリングを叩く素足の音が、慶太の脳内で死のカウントダウンのように響く。彼女の唇が、三日月のような形で、ゆっくりと歪んでいく。


 


「何か、私に隠してること……ある?」


 


 その瞬間、慶太は自分の人生が、二度と「光」の当たる場所へは戻れないことを確信した。


 


 


 


 


 


(つづく)


 


 


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