第2話:寄生する慈悲(Parasitic Mercy)

### 第二話:寄生する慈悲(Parasitic Mercy)


 


 


 叩きつける雨は、すべてを押し流すかのように勢いを増していた。


 


 目の前で、泥まみれのネックレスを拾い上げ、愛おしそうに見つめる女。


 


 その紺色のチェックベストは、雨水を吸って肌に無惨に張り付いている。濡れた髪から滴る水滴が、彼女の白い首筋をなぞり、ブラウスの襟元へと吸い込まれていく。その一連の動作を、慶太は機能不全に陥った機械のような眼差しで見つめていた。


 


「……おい、あんた」


 


 慶太は、無意識に営業鞄のジッパーに手をかけた。


 


 指先がかじかんで、上手く力が入らない。凍えた指が冷たい金属に触れるたび、小さな痛みが走る。鞄の底に、予備として突っ込んでいた黒い折りたたみ傘。これを取り出すという行為に、今の彼を支える唯一の「秩序」が宿っているかのようだった。


 


 カチリ、と硬い金属音が響く。


 


 バサリと布が弾ける音がして、黒い傘が雨空を切り取った。


 


 慶太はそれを、自分の頭上ではなく、泥の中に跪く彼女の上へと差し出した。


 


 ナミに裏切られ、プライドを粉々に踏みにじられ、人生のすべてが崩壊したばかりの男が、見ず知らずの女を気遣う。その滑稽なまでの「善人」としての習性は、慶太の内側に残った最後の理性が放つ、虚しい残光のようだった。


 


「ずぶ濡れじゃないか。……風邪をひくぞ」


 


 自分のコートも、鞄の中の書類も、とうの昔に雨水を吸って使い物にならなくなっている。それなのに。


 


 女が、ゆっくりと顔を上げた。


 


 傘の影に落ちた彼女の顔。


 


 街灯の逆光を受けて、その表情は判然としない。だが、濡れた前髪の隙間から覗く瞳だけが、暗い水底で光る真珠のように冴え渡っていた。


 


 彼女は慶太の差し出した傘を、じっと観察するように見つめた。


 


 それから、プッと吹き出した。


 


「……あはっ、あははっ! おかしい。あなた、本当に面白い」


 


 澄んだ笑い声が、重苦しい雨音を切り裂いて響く。


 


 それは慈愛に満ちた微笑みではなく、獲物の喉元に食らいつく瞬間の捕食者が漏らすような、残酷な愉悦を孕んでいた。彼女は肩を揺らして笑い、それから小さく首を振った。


 


「もう遅いよ。もう、芯まで濡れちゃったもの。……あなたも、私も」


 


 彼女は立ち上がり、傘の柄を握る慶太の手に、自らの手をそっと重ねた。


 


 氷のように冷たい指先。


 


 だが、触れられた場所が焼けるように熱く感じる。慶太は思わず身震いしたが、彼女はその震えさえも愛でるように、さらに一歩、彼の胸元へと踏み込んできた。


 


 事務制服から漂う、雨の匂いと混ざり合った、甘く重い香水の残り香。


 


 それは百合の芳香のようでいて、その奥に死者の肉を飾る花のような、退廃的な腐臭を秘めている。その香りが、慶太の鼻腔を通り、脳の深淵へと直接染み渡っていく。


 


 狂っている。そう直感した。


 


 だが同時に、慶太は彼女が、残酷なほどに愛らしく見えた。


 


 ナミの完璧な笑顔が、偽物で塗り固められた「昼の太陽」だとしたら、目の前のこの女は、すべてを破壊し尽くす「夜の深淵」だ。今の自分には、その深淵こそが、唯一の救いのように思えたのだ。


 


「ねえ、慶太くん」


 


 彼女が俺の名前を呼んだ。


 


 名乗った覚えなどない。だが、その響きはあまりに自然で、あまりに必然だった。慶太の脳内にある警戒の回路が火花を散らすが、麻痺した心はその警報を正しく受信できない。


 


「このままじゃ二人とも凍えちゃう。……服、乾かさないと」


 


 彼女の指が、慶太のネクタイを細い指先で弄びながら、耳元に顔を寄せた。


 


「私の部屋、すぐそこなの。……行こう? 二人で、温まりに行こうよ」


 


 それは、聖夜の誘いにしては、あまりに不吉で、あまりに魅力的な提案だった。


 


 断る理由など、慶太の中にはもう一欠片も残っていなかった。


 


 彼は差し出した傘を強く握り締め、彼女の差し出した見えない鎖に、自ら首を差し出した。自分の意志が、彼女の吐息の一つ一つに溶かされ、吸い取られていく。


 


 煌びやかな銀座の大通りが、背後で蜃気楼のように遠のいていく。


 


 濡れたアスファルトに反射するネオンの光が、まるで引き千切られた血管のように赤く、青く、足元を這い回る。二人の足元で、潰れたネックレスが泥に沈んでいく。


 


 辿り着いたのは、築年数の古そうな、どこにでもある賃貸アパートだった。


 


 錆びついた鉄製の階段を上るたび、嫌な金属音が雨音に混じって響く。一段上るごとに、慶太の「日常」が一段ずつ剥がれ落ちていく。


 


 ガチャリ、という乾いた音。


 


 扉が開いた瞬間、室内に閉じ込められていた、さらに濃密なあの香水の匂いが慶太を包み込んだ。


 


「さあ、入って。……ここは、誰もあなたのことを傷つけない『安全な場所』だよ」


 


 彼女は暗い玄関に立ち、三日月のような形で、ゆっくりと残酷に微笑んだ。


 


 慶太がその一歩を踏み出したとき、背後の外廊下では、強風に煽られた雨が、まるで逃げ道を塞ぐカーテンのように激しく叩きつけていた。


 


 


 


 


 


(つづく)


 


 


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