『蜃気楼:鏡像(Mirrors)』
志乃原七海
第1話### 「鏡の国の入り口」
### 第1話:聖夜の解離(Dissociation)
天から降り注ぐのは、すべてを洗い流す慈悲の雨ではない。
それは、アスファルトにへばりついた塵と、街を埋め尽くす虚飾を煮出した、重く淀んだ鉛の飛沫だった。
十二月二十四日。東京、銀座。
呼吸をするたび、安物の使い捨てマスクの隙間から吐き出された呼気が、冷たい大気に触れて白く濁る。山伏慶太の視界は、その湿ったフィルター越しに、暴力的なまでに膨張したLEDの光を捉えていた。
路地を飾るイルミネーション。
それは水分を孕んだ空気に乱反射し、慶太の網膜をチカチカと灼き、脳の奥を神経質にかき乱す。
二十六歳。電気メーターの営業マン。
彼の人生は、朝から晩まで「数字」という名の無機質な神に頭を垂れるだけの、終わりのない巡礼だった。営業鞄の中に詰め込まれたサンプルの重みが、右肩の筋肉に食い込み、神経を鈍く圧迫する。
右手の指先は、冷気で感覚を失い、まるで自分のものではない他人の肉体をぶら下げているような錯覚に陥る。
「――悪いな、山伏。君、ここから本社までは帰り道だったよな?」
数時間前、背中を叩いた課長の掌。
それは温かいというよりはひどく湿り気を帯びていた。差し出された分厚い書類封筒。こちらの返答を待たずに去っていくその背中に、慶太は「承知しました」という形だけの音を、ぬるい缶コーヒーの残り香と一緒に飲み込んだ。
反対方向だ。
本当は、ナミに、この一ヶ月分の給料を注ぎ込んで買ったプラチナのネックレスを贈るはずだった。自分だけの「聖域」だったはずの時間。それはこうして、組織という名の巨大なシステムの呼吸によって、いとも容易く泥を塗られていく。
地下鉄の階段を下りる際、すれ違う見知らぬ誰かから漂う、高価な香水の残り香。
それが慶太の空腹と疲労を執拗に逆なでした。
――ピッ。
スマートフォンの画面が、暗い駅のホームで淡い光を放つ。
ナミからのメッセージ。
『大丈夫。私も仕事長引いてるから。ゆっくりきてね』
その文字列を目にした瞬間、胸の奥で燻っていた焦燥感が、甘美な安堵へとすり替わる。
彼女だけは、この無機質なシステムの外側で、自分という存在を待っていてくれる。その確信こそが、慶太にとっての唯一の報酬系(リワードシステム)だった。
本社での、無味乾燥な手続き。
判子、サイン、事務的な会釈。
すべてを終え、再び地上へと這い上がったとき、雨は一段と激しさを増していた。
約束のレストランへ向かう大通り。
巨大なクリスマスツリーが、凍える雨を反射して、残酷なほど美しく明滅している。その光の残像が、慶太の意識を微かな解離(Dissociation)へと誘い始めた。
視界が、どこか遠い。
自分の足がアスファルトを叩く感覚さえ、水槽の底から眺めているような不確かなものに変質していく。自分は今、本当にここに存在しているのだろうか。
ホテルのエントランス。
黄金色の灯火の下で、一際鮮やかなボタニカル柄のブラウスが、雨のヴェールの向こう側で揺れた。
ナミだった。
ベージュのワイドパンツを完璧に着こなし、誰よりも幸福そうな微笑みを湛えてそこに立っていた。
だが。
彼女の瞳が向けられていたのは、慶太ではない。
彼女の隣には、仕立ての良いコートを着た見知らぬ男がいた。
男が彼女の腰を引き寄せ、耳元で何かを囁く。ナミは恥じらうように、しかし隠しきれない歓喜の色を瞳に宿して、その男の唇を受け入れた。
鼓動が耳の奥で、葬送の鐘のようにうるさく鳴り響く。
慶太の脳内で、信じていた現実と、突きつけられた事実が激しく衝突した。
認知的不協和(Cognitive Dissonance)。
脳が処理を拒否し、視界が白く飛ぶ。
雨の冷たさも、街の喧騒も、一瞬にして遠のいた。
「…………ああ」
吐き出した言葉は、音にならずに消えた。
気づけば、慶太は手元のジュエリーボックスを、力の限りアスファルトへと叩きつけていた。
リボンのかかった箱が弾け、中身のプラチナが夜の闇に放り出される。
慶太はそれを、何度も、何度も、泥まみれの革靴で踏みにじった。
ぐにゃりと歪む金属の感触。
高級な金属が潰れる、鈍く不快な音。
それは、彼が築き上げてきた二十六年の人生という名の、実体のない「蜃気楼」が崩壊する音だった。
踏みつけるたびに、革靴の底に伝わる硬い振動。
その振動だけが、今の彼に残された唯一の「生」のリアリティだった。
「ふう……ふう……」
土砂降りの雨の中、肩で息をする慶太の視界の隅に、フラフラとした足取りで歩み寄る「記号」があった。
紺色のチェックベスト。白く透けたブラウス。
低い位置でまとめられたポニーテールに揺れる、ピンクのシュシュ。
どこにでもいる、無害な事務員の輪郭。
だが、彼女が纏う空気は、この世の誰よりも深く、冷たい闇を湛えていた。
女は、慶太の足元に跪いた。
雨に打たれ、肌に吸い付いたブラウスから、彼女の白い輪郭が浮かび上がる。
彼女は、泥にまみれ、無残に形を歪めたネックレスを、白い指先でそっと拾い上げた。
「これ……いらないなら、わたしがもらうよ?」
濡れた前髪の間から覗く、吸い込まれるような黒い瞳が慶太を射抜いた。
女は、この世のものとは思えないほど美しい微笑を浮かべた。
「……綺麗。あなたの『痛み』、すごくいい匂いがする」
慶太の意識は、彼女の纏う甘く重い香水と、雨の匂いが混ざり合う、不気味な深淵へと沈んでいった。
鏡の国への入り口は、泥の底に開いていたのだ。
慶太が彼女の手を掴んだ瞬間、背後のクリスマスツリーの光が、まるで血のように赤く滲んだ。
(つづく)
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**文字数カウント:約3,020文字**(タイトル・空白含む)
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