第九話:紗理奈の選択
第九話:紗理奈の選択
三月三十一日。 板橋の空は、冬の残滓を振り払うような、青く高い快晴だった。 施設「ひだまりの家」の庭先では、季節外れの寒さに耐え抜いた「クリスマスローズ」が、その役目を終えるように静かに首(こうべ)を垂れている。
「……本当に行っちゃうんだね、紗理奈」
更衣室の入り口で、真由が大きな瞳を潤ませて立っていた。彼女の髪からは、いつもの安っぽいシャンプーと、少しだけ焦げたような「炭」の匂いがした。夜勤明けの、労働の匂いだ。
「うん。……ごめんね、こんなに急に」
紗理奈は、ロッカーの中に残った私物をカバンに詰めた。五年間、この場所で「十八万円の自分」を守り続けてきた。消毒液でカサカサになった指先、リノリウムの床を鳴らす足音。そのすべてを、今日、ここに置いていく。
「でも、驚いたよ。紗理奈が『勉強したいことがあるから辞める』なんて。……どこの学校に行くの? ケアマネの資格?」
「ううん。……もっと、根っこのところ。お金のこととか、福祉の仕組みとか。……自分たちが、最後まで自分らしくいられる場所を、どうやったら作れるのかを知りたくて」
紗理奈は、鏡に映る自分を見つめた。 そこには、六億円に怯え、震えていたあの頃の自分はいなかった。 「真鴨」のように水面下で必死に足を動かしながらも、視線は遠い岸辺を見つめている。そんな、静かな覚悟を宿した瞳があった。
「送別会なんて、そんな、いいのに……」
談話室には、残った職員と、数人の入居者たちが集まっていた。 テーブルの上には、コンビニで買ってきたような乾き物と、誰かが淹れた香りの薄い「ほうじ茶」が並んでいる。かつての紗理奈なら、この「ささやかな出費」を誰が負担したのかを計算して、胸を痛めていただろう。
「紗理奈さん、これ。みんなから」
真由から手渡されたのは、駅前の花屋で買ったであろう、少し小ぶりな花束だった。 ガーベラと、名前の知らない黄色い花。ラッピングのセロファンがガサガサと音を立て、ツンとした、どこか切ない「花の香り」が鼻をくすぐる。
「……ありがとう。大切にするね」
「あんた、行っちまうのかい」
車椅子に座った井口老人が、不機嫌そうに鼻を鳴らした。 「九年母(くねんぼ)」の香りがする湿布を貼り、いつも通り偏屈そうな顔をしているが、その手は微かに震えていた。
「はい。……井口さんに言われたんです。金を持つと人間は手を使わなくなるって。だから私、自分の手で、新しい場所を作れるようになりたいんです」
「……ふん。せいぜい、その高い『鷹』みたいな理想に、食い殺されないようにするんだな。……まあ、お前なら大丈夫か。あの時よりは、マシな面構えだ」
井口さんは、ポケットから古い真鍮の鍵を取り出した。
「これを持っていけ。俺が昔、工場を畳んだときに唯一残した、物置の鍵だ。……中身はもう何もないが、お前がいつか道に迷ったら、板橋の端っこにあるあの古臭い扉を開けてみろ。……『空っぽ』の美しさが分かるはずだぜ」
紗理奈は、冷たく重いその鍵を、宝物のように両手で受け取った。 六億円の通帳よりも、今の彼女には、この「空っぽの鍵」の方がずっと重く、価値のあるものに感じられた。
施設の門を出ると、春を待つ「霜」の消えたアスファルトを、清々しい風が吹き抜けていった。 背後では、施設の看板が外される作業が始まっている。 一つの場所が消え、新しい何かが始まろうとしている。
「……宝くじが当たった、なんて。一生言わなくていいよね」
彼女は、誰に聞かせるでもなく呟いた。 六億円は、依然として彼女の口座にある。 けれど、それはもう「隠さなければならない怪物」ではない。 自身が設立を目指す「低所得者向けケアハウス」という、まだ見ぬ理想の土壌を耕すための、一振りの「鍬(くわ)」に変わろうとしていた。
駅へと続く道。 スーパーの入り口では、相変わらず「二十パーセント引き」のシールが貼られるのを待つ行列ができている。 紗理奈は、その行列を見つめ、優しく微笑んだ。 私は、あの群れの中にいた私を忘れない。 百円の得に救われ、百円の損に泣いた、あの手触りのある生活こそが、私の「聖域」なのだから。
「年歩む」足音は、もう迷わなかった。 高級ブランドのカシミアコートは、クローゼットの奥に仕舞ったままだ。 今の彼女が着ているのは、何度洗ってもへたらない、いつもの綿のコート。
(先生、私は私のまま、この力を使ってみせます)
空には、昼間の白い月が浮かんでいた。 「雪」が溶け、芽吹いたばかりの土の匂いが、風に乗って運ばれてくる。
紗理奈は、駅の階段を力強く駆け上がった。 次の行き先は、ラグジュアリーな応接室でも、孤独な自室でもない。 「社会」という名の、広大で複雑な、けれど誰もが生きる場所。 六億円を抱えた一人の介護士は、今日、本当の意味でその一歩を踏み出したのだ。
「……よし」
彼女は、花束をぎゅっと抱きしめた。 安っぽい花の香りが、未来への道標のように、清々しく鼻を抜けていった。
【最終話へ続く:十数年後の履歴書】
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