第八話:税金という名の洗礼

第八話:税金という名の洗礼


二月、立春を過ぎても板橋の風は依然として鋭く、街路樹の枝先で「霜」が針のように凍りついている。 アパートの自室で、紗理奈は積み上げられた専門書と格闘していた。FPの野崎から手渡された資料には、赤ペンで何重もの線が引かれている。


「贈与税、最大五十五パーセント……。半分以上持っていかれるんだ」


乾いた唇から漏れた声が、冷え切った空気の中で白く濁る。 これまで「税金」といえば、給与明細から勝手に引かれている数千円の天引き、あるいはスーパーで「蜜柑」を買うときの数円の消費税でしかなかった。だが、六億円という巨星を中心に世界を眺め直したとき、社会の仕組みは驚くほど精緻で、かつ無慈悲な歯車としてその姿を現した。


(今まで、私は何も見ていなかったんだ)


「相続」「贈与」「分離課税」。 言葉を知るたびに、世界の「解像度」が一段ずつ上がっていく。 街を走る高級外車、駅前に建つ真新しいビル、そして施設が直面している経営難。それらすべてが、複雑な数字の糸で編み上げられた巨大なタペストリーのように見えた。 窓の外、冬の「鷹」が獲物を探して旋回する。その孤独な視線が、今の自分と重なる。


「……先生、教えてください。私はこのお金を、ただ守り抜くためだけに、一生を費やすべきなんですか?」


野崎の事務所。今日も「炭」を焚いたあとのような静かな匂いが、紗理奈の逆立った神経を鎮めてくれる。 差し出された「温め酒」……のような温かなほうじ茶からは、芳ばしい香りが立ち上っていた。


「守ることは、生きることそのものです。ですが、紗理奈さん。あなたは、この数字の中に『何』を見出しましたか?」


「……『力』です」


紗理奈は、茶碗を包む指先に力を込めた。 熱がじんわりと、カサカサに乾いた手のひらに伝わる。


「今まで、六億円は私にとって『避難所』でした。嫌なことから逃げるためのシェルター。でも、勉強すればするほど、このお金が、誰かの絶望を希望に変えるための『エネルギー』に見えてきたんです。……税金として社会に還るのも、一つの形かもしれない。でも、私はもっと、自分の意志でこの力を使いたい」


彼女は顔を上げ、野崎の瞳を真っ直ぐに見据えた。


「私、このお金を『避難所』じゃなくて『武器』にしたいんです。」


野崎の口元に、微かな笑みが浮かんだ。それは冬の陽だまりに咲く「クリスマスローズ」のように、静かで、しかし確かな肯定だった。


「武器。……いい言葉ですね。ですが、武器は持ち主の腕次第で、守るための盾にもなれば、すべてを焼き払う火種にもなります。どう使いたいのですか?」


「施設を買い取るような、神様ごっこはしません。それは井口さんに、魂を抜く行為だって叱られましたから。……でも、例えば、真由みたいな志のある介護士が、お金を理由に夢を諦めなくて済むような仕組み……。あるいは、ハナさんが最後まで『ハナさん』として生きていけるための、小さな、でも確かな場所。それを、この六億を使って『持続可能』な形で作りたいんです」


「持続可能、ですか。それは単なる寄付ではなく、『投資』であり『事業』ですね」


野崎は、ホワイトボードに新しい図を書き込み始めた。 「九年母(くねんぼ)」の香りが、どこからか漂ってくる。事務所の片隅に置かれたアロマだろうか。その甘酸っぱい香りが、紗理奈の思考をクリアにしていく。


「お金は、流してこそ価値が生まれます。滞れば、それは淀みとなり、あなたを腐らせる。……税金の仕組みを学ぶことは、社会の血管を学ぶこと。あなたがその一滴の血液として、どこに熱を運ぶのか。それを決めるのは、あなたという『人間』の意志です」


「……はい」


事務所を出ると、空には「真鴨」の群れが、夕闇の中を整然と飛んでいくのが見えた。 冷たい風が頬を叩く。だが、以前のような「透明な壁」に遮られている感覚はなかった。


紗理奈は、駅前のスーパーに立ち寄った。 いつものように、黄色いシールが貼られるのを待つ人々の群れ。 以前なら、その群れの一員であることに安心していた。だが今は、その一人ひとりが抱える「生活」という名の重たい荷物が見える。


彼女は、二十パーセント引きの惣菜を手に取るのをやめ、あえて、地元の農家が作ったという、少し高い野菜を手に取った。 「寄付」ではなく、正当な対価を払うこと。 それが、今の自分にできる、もっとも小さな「武器」の使い方だと思ったからだ。


(世界は、繋がっているんだ)


レジで支払う数百円。 その先にある農家の暮らし、物流を支える人、そして国を動かす税金。 すべてが、私の手の中にある六億円と、どこかで一本の糸で繋がっている。


「年歩む」足音が、かつてより力強く響く。 板橋の空には、春を待つ月が青白く輝いていた。 自室に戻り、紗理奈は新しいノートを開いた。 タイトルは『小林紗理奈の、お金の履歴書』。


そこには、もう「百円の得」への執着だけではない。 自分が死ぬまでに、この六億円を使って、誰に、どんな「景色」を見せたいのか。 その未来の設計図が、震える、けれど確かな筆跡で綴られようとしていた。


窓の外では、少しずつ、夜の寒さが和らいでいる。 「雪」が溶け、土の下で何かが芽吹こうとしている。 紗理奈は、深く、長く、息を吸い込んだ。 私は、私という人間のまま、この巨万の富を、世界への「返礼」に変えていく。


【第九話へ続く:さよなら、ひだまりの家】


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