第七話:介護の現場、お金の現実

第七話:介護の現場、お金の現実


一月の半ば。空はどこまでも高く、乾いた「霜」が街の色彩をすべて吸い取ってしまったかのように冷徹な朝だった。


施設「ひだまりの家」の談話室には、重苦しい「温め酒」の残り香のような、澱んだ空気が流れていた。職員会議の席で、施設長が絞り出すように告げた言葉が、紗理奈の耳の奥で、冬の「雪」の重みのように響いていた。


「……経営難による、三月いっぱいでの閉鎖。それが、理事会の決定です」


その瞬間、隣に座っていた真由の手が、小さく震えた。 施設内には、行き場のない怒りと、それ以上に深い無力感が漂っている。老朽化した壁のシミ、リノリウムの床の剥がれ。今まで「生活の匂い」だと思っていたすべてが、急に「崩壊の予兆」に見えた。


「……施設長、そんな。ここの人たちはどうなるんですか? ハナさんは? 井口さんは?」


真由の声が、悲鳴のように静寂を裂いた。


「他施設への転出をお願いすることになります。……ですが、この近辺の特養(特別養護老人ホーム)はどこも数年待ち。有料(老人ホーム)となれば、入居一時金だけで数百万円、月額も今の倍以上かかります。……ご家族の負担を考えれば、厳しいのが現実です」


施設長が伏せた目の先に、一枚の収支報告書があった。 不足しているのは、数千万円。 修繕費と運転資金を合わせても、一億円あれば、この場所はあと十年は持ちこたえられるだろう。


(一億。……私の口座にある、六分の一)


紗理奈の指先が、ポケットの中で熱を帯びた。 救える。 今ここで、「私が出します」と立ち上がれば。 経営権を買い取り、ハナさんの居場所を守り、真由の失業を食い止める。 そんな「正義の味方」の姿が、一瞬だけ脳裏をよぎる。


だが、直後に、ハナさんのあの言葉が脳裏を打った。 『孤独になりな。それが、その金を持つ資格だよ』


「……紗理奈、どうしたの? 顔色が悪いよ」


真由が心配そうに覗き込んでくる。その瞳には、家賃の支払いと転職への不安が、隠しようもなく透けていた。


「……ううん、なんでもない」


紗理奈は、這い上がってきそうになる「傲慢な救済心」を、喉の奥に無理やり押し込んだ。


その日の午後。 入居者の一人、田中さんの息子が相談室に来ているのを、紗理奈は見かけた。 田中さんは認知症が進み、全介助が必要な状態だ。


「……先生、正直に言います。うちは、月二十万が限界なんです」


扉の隙間から漏れてきたのは、搾り出すような、枯れた声だった。


「この施設が閉まるなら、父を家に連れて帰るしかありません。でも、私は仕事がある。妻もパートを掛け持ちしている。……父を連れて帰れば、どちらかが仕事を辞めるしかない。そうなれば、子供の学費が……。私たちは、死ぬまでにかかるお金のために、今、生きている人間を切り捨てなきゃいけないんですか」


田中さんの息子は、顔を覆った。 その背中には、冬の「鷹」に狙われた小動物のような、救いのない絶望が張り付いていた。 介護保険の自己負担分、おむつ代、医療費。 人がただ「生きて、老いる」ために必要な、リアルな数字。 それは一人の介護士の「十八万円」では、到底太刀打ちできない巨大な壁だった。


(私が一億出せば、この人は救われる?)


いや、違う。 たとえこの施設を救っても、田中さんの家庭の困窮が消えるわけではない。 この国には、この街には、同じように「死ぬまでのコスト」に押し潰されそうな家族が、数え切れないほどいる。 私の六億は、その大海原に落とした一滴の雫に過ぎないのだ。


「……救いたいなんて、なんて傲慢なんだろう」


廊下の隅で、紗理奈は自分の無力さに打ち震えた。 一億出せば、一時的に「ひだまりの家」は存続する。 けれど、それは紗理奈が「神様」のふりをして、世界をほんの少し書き換えるだけの自己満足ではないか。 お金で解決できるのは、あくまで「数字」の問題であって、この人たちが抱える「老い」という根本的な悲しみではない。


「……あんた、またそんな顔してるのかい」


背後から、井口老人の声がした。 「九年母(くねんぼ)」の香りがする湿布を貼った、いつもの気難しい老人だ。


「井口さん……。施設、なくなっちゃうかもしれないんです」


「ああ、聞いたよ。……まあ、形あるものはいつか壊れる。人間も、建物も、思い出もな。……それを、無理やり繋ぎ止めようとするのは、死人を生き返らせようとするのと同じくらい、罪深いことだぜ」


井口さんは、窓の外で風に揺れる「クリスマスローズ」を指差した。


「いいか。金で時間を買うことはできる。だが、その時間に『魂』を吹き込むのは、金じゃない。……あんたの、その震える手だ。俺たちが本当に欲しいのは、一億の小切手じゃねえ。おむつを替えるときの、ほんの少しの温もりだよ。……忘れるな。金を持つと、人間は『手』を使わなくなる」


井口さんの言葉は、氷のような「霜」となって、紗理奈の熱を帯びた脳を冷却した。 金で救おうとすることは、思考を停止することだ。 私がなすべきなのは、六億円の当せん者として君臨することではない。 たとえ施設が閉まろうと、この場所がなくなるその日まで、一人一人の「生」に、この手で向き合い続けること。


「……はい。……はい、井口さん」


紗理奈は、深く、深く頭を下げた。 目から、一筋の涙がこぼれ、リノリウムの床に小さな輪を作った。 それは、傲慢さを捨てた後に残った、純粋な「無力感」という名の、祈りだった。


勤務が終わった後、紗理奈は更衣室で一人、六億円の数字が入ったキャッシュカードを、そっと撫でた。 冷たく、硬い、ただのプラスチック。 これには、田中さんの絶望を消す力も、施設を永遠に存続させる魔法もない。


けれど、これがあるからこそ、私は「お金のため」ではなく、自分の意志で、この場所にいられるのだ。 十八万円の給料のためにしがみつくのではなく。 六億円を隠し持ちながら、それでもなお、排泄物を片付け、老人の手を握る。 その矛盾の中にこそ、私が守るべき「聖域」がある。


(「真鴨」のように、静かに泳ぎ続けよう)


外に出ると、夜風が「年歩む」気配を運んできた。 板橋の空には、冬の星が瞬いている。 紗理奈は、一歩一歩、自分の重さを確かめるように歩き出した。 施設が閉鎖されるその日まで、私はここで、ただの介護士として、最善を尽くす。 それが、六億円に使い切られないための、唯一の戦い方だと信じて。


【第八話へ続く:孤独な決断、そして再生】


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