第六話:百万円の「無駄遣い」実験

第六話:百万円の「無駄遣い」実験


大晦日を翌日に控えた十二月三十一日。 都心の百貨店は、一年の締めくくりを「聖夜」の熱狂ごと引きずり込んだような、眩いばかりの光に満ちていた。


紗理奈は、銀座の並木通りに立っていた。 いつも着ているポリエステル混のダウンコートが、ここではまるで薄汚れた「真鴨」の羽のように見えて、思わず身をすくめる。手には、昨日野崎先生から電話で許可を得た「百万円」という数字の重みが、見えない鎖となって絡みついていた。


「……まずは、形から、だよね」


自分に言い聞かせ、重厚なガラス扉を押し開ける。 店内に漂うのは、高級なレザーと、名前も知らない異国の花の、鼻の奥がツンとするような芳香。床に敷かれた絨毯は、銀行のそれよりもさらに深く、歩くたびに自分の存在が吸い込まれていくような錯覚を覚える。


「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」


隙のない微笑みを湛えた店員が、紗理奈の「霜」で荒れた指先を一瞬だけ見て、すぐに穏やかな表情に戻した。その訓練された優しさが、逆に紗理奈の胸をざらつかせる。


「……コートを。一番、良いものをください」


震える声で告げると、案内されたのは、カシミア百パーセントの、驚くほど軽い一着だった。 値札を見れば、三十三万円。 かつての紗理奈なら、半年分の家賃を想像して卒倒していただろう数字。


「ご試着されますか?」


鏡の前に立つ。 店員の手に導かれ、袖を通す。 肌に触れる感触は、冬の陽だまりに置かれた「クリスマスローズ」の花びらのように滑らかで、驚くほど温かい。


「……軽い。……ですね」


「最高級の素材ですので。お客様の肌の色に、とてもよくお似合いです」


お世辞だと分かっていても、鏡の中の自分は、確かにいつもより「マシ」に見えた。 けれど、心臓が跳ねるような高揚感はない。 あるのは、ただ、自分という中身を偽装しているような、薄ら寒い空虚さだけだ。


紗理奈は、そのままそのコートと、十万円のバッグ、二十万円の時計、そして家族への贈り物という名目の高級品を、次々とカードで決済した。 合計、九十八万四千円。 暗証番号を打ち込む指先が、冷え切った「炭」のように強張っている。


(……これで、私は『あっち側』に行けるの?)


店を出た瞬間、冷たい風が新しいコートを揺らした。 確かに温かい。肩への負担もない。 けれど、銀座の雑踏を歩く人々の誰も、紗理奈のコートが三十万することなんて気づかない。 空を舞う「鷹」が地上の石ころを区別しないように、世界は、紗理奈が金持ちになったことなど一瞥もくれない。


「……なんだ。これだけ、なの?」


呟いた言葉が、白い息に混じって消える。 高級なバッグを肩にかけ、銀座から日比谷線に乗り、北千住で乗り換えて板橋へ向かう。 電車の中で、自分の高価な買い物袋が、隣に座る疲れ切ったサラリーマンの膝に当たるのが申し訳なくて、紗理奈はそれを小さく抱え込んだ。 その瞬間、気づいてしまった。 三十万のコートを着ていても、私はまだ、隣の人に気を使う「十八万の介護士」のままだということに。


地元・板橋の駅に降り立ったのは、夜の七時を過ぎた頃だった。 街には、年越しの準備を急ぐ家族連れの笑い声が響き、どこかの家から「温め酒」と醤油の焦げる匂いが漂ってくる。


紗理奈は、いつものスーパーの前に立ち止まった。 自動ドアが開くと、冷房と野菜の匂いが混ざった、あの懐かしい空気が鼻をくすぐる。


「……あ」


惣菜コーナー。 蛍光灯の下で、黄色いシールが踊っていた。 『半額』。 その二文字が貼られた「特製コロッケ」を見つけた瞬間、紗理奈の胸の奥から、堰を切ったように安堵が溢れ出した。


(……ある。まだ、あった)


手が勝手に伸びる。 残り二個のパックを掴み取ったとき、先ほど銀座でカードを通したときには一ミリも動かなかった心が、どくん、と力強く跳ねた。


「百円……。百円で、こんなにホッとするなんて」


レジで会計を済ませ、ビニール袋を提げて店を出る。 左手には、三十万円のカシミアコートを包んだ重厚な紙袋。 右手には、半額のシールが貼られた、油の染みた透明なパック。


アパートへ続く暗い夜道。 「九年母(くねんぼ)」の木の下で、紗理奈は立ち止まり、夜空を仰いだ。 月は、銀座のブランド店の上でも、この板橋の路地裏でも、変わらず冷たく澄んでいる。


「……先生、分かりました」


誰もいない道で、彼女は独り言を漏らした。


「お金で買えるのは『便利』であって、『満足』じゃないんだ……。」


三十万のコートは「便利」だ。軽くて温かくて、私を寒さから守ってくれる。 でも、私の魂を満足させるのは、この「百円のコロッケ」を死守できたという、ささやかな日常の勝利なのだ。


自分の業(ごう)の深さに、絶望する。 六億あっても、私は結局、百円の得に魂を揺さぶられる人間なのだ。 けれど、同時に、言いようのない希望が胸を満たした。 六億というバグった数字に、私はまだ、全部は食われていない。


「……帰ろう。冷めないうちに」


自転車のカゴに、高級ブランドの袋とコロッケの袋を並べて突っ込む。 「年歩む」足音が、どこか遠くで除夜の鐘の音に混じり始めていた。 アパートの自室に入り、電気をつける。 暖房が効くまでの間、紗理奈は新しいコートを着たまま、こたつに入ってコロッケを頬張った。


サクッ、という衣の音。 口の中に広がる、ジャガイモの素朴な甘み。 涙が出るほど、美味しかった。


「……ごちそうさまでした」


彼女は、ブランドのバッグから、昨日買った「お金の勉強ノート」を取り出した。 そこには、新しい一行が書き加えられた。 『私の満足は、百円の中にもある。それは六億円では買えないもの』。


窓の外では、雪がちらつき始めていた。 明日から、新しい年が始まる。 「雪」に覆われる世界の中で、紗理奈は自分の「物差し」を、より強く、握りしめた。


【第七話へ続く:介護の現場、お金の現実】


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