第五話:悪魔と天使の囁き

第五話:悪魔と天使の囁き


十二月三十日。 一年の終わりを告げる「数へ日」も、いよいよ大詰めを迎えていた。 板橋の空は、分厚い雲に覆われ、時折「霜」を孕んだ風が、アパートの薄い窓ガラスをガタガタと鳴らす。冷え切った自室の空気は、暖房をつけてもなお、足元からじわじわと体温を奪っていった。


ピロリ、ピロリ。


テーブルの上で、スマホが震える。 この三日間、鳴り止まないその音が、紗理奈には「鷹」の鳴き声のように鋭く、神経を逆なでする不吉なものに聞こえていた。


「……なんで。誰にも、言ってないのに」


画面には、中学時代の友人や、数年会っていない従兄の名前。 『久しぶり! 急に思い出しちゃって』 『今度、投資のいい話があるんだけど、紗理奈なら興味あるかなと思って』 『母さんが病気でさ、少し相談に乗ってくれないか』


言葉の裏側に、粘りつくような執着が透けて見える。 誰にも言っていないはずだ。銀行もFPも、沈黙を守れと言った。 けれど、お金というものは、目に見えない「匂い」を放つのだろうか。 それとも、突然仕事を辞めようかと漏らした、あの夜の気の緩みが、どこかで漏電したのか。


「……怖い」


紗理奈はスマホの電源を切り、冷たい膝を抱えた。 自室に漂うのは、昨夜剥いた蜜柑の、少し古くなった皮の匂いだけ。 かつては安心できたこの四畳半が、今は外敵に囲まれた、脆い砂の城のように感じられた。


翌日の日勤。 施設「ひだまりの家」の廊下には、入居者たちのために飾られた「クリスマスローズ」の鉢植えが、冬の光を浴びて静かに並んでいた。 紗理奈は、いつものように食事の介助に回っていたが、手元がどこかおぼつかない。


「……紗理奈さん」


声をかけてきたのは、車椅子に座った入居者の老婆、ハナさんだった。 かつて花街で働いていたという彼女は、人の機微に恐ろしいほど敏感だ。


「はい、ハナさん。お茶、お持ちしますね」


「お茶なんていいよ。それよりあんた、鏡を見たかい?」


ハナさんは、枯れ木のような手で紗理奈の腕を掴んだ。 その指先は驚くほど冷たく、しかし力強かった。


「……鏡、ですか?」


「ああ。最近のあんた、目が死んでるよ。 まるで、獲物を狙う『真鴨』を警戒して、ずっと水の下を蹴り続けてる鳥みたいだ。何に怯えてるんだい? そんな顔してちゃ、福が逃げるよ。……いや、もう捕まっちまったのかい? 手に余るほどの、大きな福を」


紗理奈は息を呑んだ。 ハナさんの瞳は、白濁していながらも、紗理奈の心の奥底にある「六億円」という名の澱(おり)を見透かしているようだった。


「……ハナさん。私、どうすればいいか分からなくて。急に、世界中の人が、私から何かを奪おうとしているみたいに見えるんです。昔からの友達も、親戚も……」


「そりゃあ、そうさ。お金がある場所には、匂いがする。それはね、香水の匂いじゃない。人間の欲が焦げる、**『炭』**の匂いだよ」


ハナさんは、窓の外を見つめた。 庭先には、冬の寒さに耐える「九年母(くねんぼ)」の木が、一つだけ実を残していた。


「いいかい、あんた。奪いに来る連中は、悪魔の顔をしてないよ。みんな、哀れな天使の顔をしてやってくる。情に訴え、涙を流し、あんたの善意を食いつぶす。……一度でも分け与えたら最後、あんたは一生、その連中の『餌場』になるんだ」


「……っ」


「孤独になりな。それが、その金を持つ資格だよ。孤独を愛せない人間に、大金は持てない。……あんた、自分を使い切られるのが怖いって言ったね。なら、心を石にしな。この冬の『雪』のように、冷たく、白く、すべてを覆い隠してしまいな」


ハナさんの言葉は、冷たい「温め酒」を無理やり流し込まれたように、紗理奈の食道を熱く、重く通り過ぎていった。 孤独になれ。 それが、野崎先生の言った「防御」の、本当の意味。


「……ありがとうございます、ハナさん」


「礼なんていいよ。……ただ、次に会うときは、もう少しだけ、人間らしい目をしておくれ。二十四パーセント引きの惣菜を笑って買っていた、あの頃のあんたの方が、ずっと綺麗だったよ」


ハナさんは、ふいっと顔を背け、車椅子を自ら漕いで去っていった。 廊下に響く、車輪の「カラカラ」という乾いた音。 紗理奈は、その場に立ち尽くした。 手袋越しに感じる、自分の指先の震え。


(私は、変わってしまったんだ)


かつての自分。 十八万円の給料を握りしめ、スーパーの特売に一喜一憂していた、あの無垢な世界には、もう二度と戻れない。 たとえ、どれほど「年歩む」足音が聞こえてきても。


勤務を終え、駅前のスーパーの前に立つ。 棚には「三十パーセント引き」のシールが貼られた刺身の盛り合わせ。 かつてなら、迷わず手に取っていただろう。 けれど、今の紗理奈は、そのシールを見ても何も感じなかった。 心の中に、あの「透明な壁」が、より分厚く、より高くそびえ立っているのを感じるだけだった。


「……孤独に、なる」


彼女は、何も買わずにスーパーを出た。 夜空には、冷徹な月。 板橋の雑踏の中で、紗理奈は一人、誰からの連絡も返さない決意を固めた。 スマホは電源を切ったまま。 ポケットの中で、ただの鉄の塊となったそれが、やけに重かった。


【第六話へ続く:100万円の「無駄遣い」実験】


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