第三話
翌朝、登校して教室の扉を開けた瞬間、私は奇妙な違和感に足を止めた。
いつもなら、鼓膜を突き刺すような小野井の甲高い声が響いているはずの場所が、まるで通夜のごとく静まり返っている。取り巻きの女子達は、主を失った駒のようで所在なさげに自分の席でうつむいていた。
「ねえ、今日って小野井さん、休み?」
何食わぬ顔で席に着き、隣の男子に声を掛ける。彼はきょとんとした表情を浮かべた後、声を潜めて答えた。
「いいや、来てないらしいぜ。なんか、精神的に相当参ってるって噂だ」
「どういうこと?」
「昨日の放課後、不審な男達に乱暴されたらしくてよ。あいつ、あんなに気が大きかったのに、今は部屋から一歩も出られない状態なんだって」
その話を聞いた瞬間、私の背筋に冷たい何かが走り抜けた。私が爪楊枝で与えた苦痛、それが形を変えて現実の小野井を絶望の底へ突き落したのだ。
彼女は今、私が引き出しに閉じ込めた小人と同じく、誰の助けも届かない暗闇で震えているのだろう。
放課後、私は吸い寄せられるようにスーパーへと向かった。特売日の店内は、一円でも安く食材を求める主婦でごった返している。その喧騒をすり抜け、私はまっすぐに卵のコーナーを目指した。
「卵は…あった」
金属ラックに積み上げられた卵のパック。母親に頼まれた一パックをカゴに入れ、その上にもう一パック、追加で卵を置いた。
もし、次の卵からも同じように彼女が産まれてきたら、そして全員が現実の彼女と繋がっているとしたら。
レジを通り抜けた私は、自分でも驚くほど落ち着いた足取りで家へと急いだ。
「ただいま」
卵を抱えて自室に戻った私は、その光景に心臓が跳ね上がった。引き出しの奥に隠していたはずの瓶が、何故か卓上に出ていたのだ。わずかに浮き上がった蓋を背後に、複数の小人達が窓枠の冊子を必死によじ登っている。
「な、なにしてるの!?」
「何って、逃げるに決まってんじゃん!!」
思わず叫ぶと、足にガーゼを巻いた一人が振り返って顔を歪めた。私はすぐさま窓を閉め切り、彼女達の退路を断つ。
「逃げるって、どこに!?外は、あんた達みたいな小人が生きていける環境じゃないんだよ!?カラスとかに見つかったら、一撃で食べられちゃうんだよ!?」
「気持ち悪い!!触んないでよ、このウシガエル!!」
差し伸べた私の手を、彼女は激しく叩き払った。ウシガエル…その単語が、私の思考を真っ白に染め上げる。
かつて教室で、取り巻き達に囲まれながら本物の小野井ちよが私に投げつけた言葉。私の肌の質感を嘲笑された、あの日の屈辱が鮮明にフラッシュバックする。
「…今、なんて言ったの?」
「聞こえなかった?見た目も、やることも、あなたは気味の悪いウシガエルだって言ってんのよ!!」
ぷつん、と脳内で何かが切れる音がした。暴れる小人達を鷲掴みにすると、指の中で「やめて、離して!」と叫ぶ声が聞こえるが、もはやそれは羽虫の羽音と変わらない。私は彼女達を瓶に詰め直すと、そのまま台所へと直行した。
シンクには、今朝に母親が使い終えたばかりのジューサーミキサーが放置されている。迷わずミキサーの蓋を取り外すと、底に光る四枚の回転場の隙間へ、小人達を流し込んだ。
「ねぇ、何するつもり…?やめて、ねぇ!」
壁を必死に引っ掻く小さな爪の音が、プラスチックの容器に反響する。私はそれを冷ややかに見下ろしながら、買ったばかりのパックを一つ開封した。卵を一つずつ割り、彼女達の頭上から落とす。白濁した粘液と、新たに産み落とされた小人達が、ミキサーの底で団子状に絡み合った。
「恨むなら、自分の顔と口を恨むことだね」
身動きが取れなくなってしまった小人達を前に、ミキサーの蓋をしっかりと閉め、指をスイッチにかけた。一瞬の静寂、そしてモーターが唸りを上げた。
ーーギィィイイイイイイイ!!
回転刃が加速すると、最初は鼓膜をつんざくような絶叫が重なり合っていた。しかし、回転が最高潮に達した瞬間、声は濁った破裂音に変わる。
ガガッ、ガリガリと骨や歯が砕ける鈍い音がミキサーの壁を叩く。透明だった容器が、内側から激しく飛び散った赤い飛沫でたちまち染まっていく。
数分後、スイッチを切り蓋を開けると、そこに彼女達の面影はどこにも無かった。壁一面に付着しているのは、イチゴジャムを泥で煮詰めたような生臭く、赤黒い半固体状の塊。台所の空気が、鉄錆のような匂いで重くなった。
「きったな…」
私はその残骸を眺めながら、妙に冷めた心地で呟いた。台所を汚すのは気が引けるので、小人達のスムージーを片手に浴室へと向かう。この中には、小人が何人分の、そして本物の彼女の何割分の肉が含まれているのだろう。ミキサーに溜まった液体に指を差し込み、それをじっと見つめてみた。
これを飲み干せば、彼女のすべてを私が取り込み、完全に支配できるのではないか。そんな妄想に取り憑かれた私は、容器を両手でつかむと唇に押し当てた。
「んぐっ、んぐっ…うぐっ」
口腔内を満たす耐え難いほど生臭い匂いと、苦く酸っぱい肉の味。意外にもクリーミーな感触が奥歯の方に絡みついたかと思いきや、髪の毛のような繊維質が舌に引っかかる。口に含んでしまった以上、喉を通そうと私は奮闘した。
「う、おえぇ…うえっぷ、うえぇ…」
結局、私の胃袋はそれを受け付けなかった。食道の筋肉が伸縮する激しい嘔吐と共に、唾液や胃液も混ざった液体が排水溝へと流れていく。渦を巻いて消えていく彼女達の残滓を見つめながら、私はシャワーの冷水を全力で放出した。
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